第1話
朦朧とした意識の中で、俺は彼女の姿を追いかけていた。
廊下の先——薄闇に溶け込むように立つ少女のシルエット。
長い黒髪が風もないのに揺れている。
振り返った彼女の顔に向かって駆け寄ろうとした瞬間、恐ろしいことが起きた。
少女の顔が、砂時計の砂のように崩れ落ちていく。
皮膚が剥がれ落ち、その下からは人間の素顔ではなく、魂を吸い込むような冷たい青白い光を放つ奇妙なデバイスがあらわになった。
ARグラスだ。
だが、それは学校で見かけるような無機質なものではない。
それ自体が生きているかのように脈動し、微かな電子音の囁きを発している。
「来て、夕陽くん」
少女の声は機械的な残響を伴い、唇の動きとずれていた。
ARグラスから無数の細いケーブルが伸び、俺の腕や足、首に絡みつき、冷たい感触で拘束していく。
抵抗しようとするが、体は鉛のように重く、意思とは裏腹に引き寄せられていく。
「嘘つき、嘘つき」
ケーブルの先端が針のように尖り、俺の瞳に向かって迫ってくる。
その鋭利な先端に、俺自身の怯えた顔が映り込んでいる。
「もう嘘は見抜けない」
針が俺の目を貫こうとした瞬間——。
◇
俺は自分の短い悲鳴で目を覚ました。
薄暗い自室に、早朝の青白い光が窓から差し込んでいる。
シーツは冷や汗で湿り、肌にべったりと張り付いていた。
自分の荒い呼吸が、閉じられた部屋の中に不自然に響き、静寂を切り裂く。
心臓がまだ、悪夢の恐怖を引きずって激しく脈打っている。
「また、か……」
柊夕陽。17歳。御影学園高校の2年生。
そして、「嘘を見抜く目」の持ち主——これが俺だ。
いや、呪いと言った方が正確かもしれない。
この力は、真実を暴くが、同時に俺を孤独にする。
目覚まし時計を見ると、鳴る10分前の午前6時20分を指している。
この悪夢のせいで、もう二度寝はできそうにない。
ため息をつきながらベッドから身を起こす。
額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、寝ぼけ眼で自室を見回した。
狭いワンルームのアパートの一室。
本棚、学習机、クローゼット、そして小さなキッチンスペース。
家賃は安いが、必要最低限の生活はできる。
親元を早く離れたかった俺にとっては、十分すぎる……いや、孤独を噛み締めるには、むしろ広すぎる空間だった。
いつからだったか、この「目」が発現したのは。
確か、小学校の卒業間近。
些細なきっかけだったはずだ。
友達の、他愛ない見栄や嘘が、奇妙な色の靄として見えるようになった。
最初は戸惑い、次に面白がった。
だが、すぐに気づいた。
この目は、世界から色彩を奪い、人間関係を灰色に変えてしまう呪いなのだと。
親友だと思っていた奴の笑顔の裏にある打算。
優しかったはずの教師の言葉に潜む侮蔑。
心配してくれていると思っていた家族の視線に混じる憐憫と……拒絶。
俺の「目」は便利じゃない。
友達の冗談に冷めた笑顔を返し、家族の優しさを「気遣い」という仮面だと知ってしまう。
人の心が、その裏側が、見えすぎてしまう。
だから、俺は…………人が怖いんだ。
距離を置くしかなかった。
一人でいる方が、ずっと楽だった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐ。
連日の悪夢で疲れ切った顔が、グラスの表面に歪んで映り込む。
この一週間、ほぼ同じ夢を見続けている。
不思議なことに、夢の中の少女が誰なのかは分からない。
知っているはずなのに、記憶の糸がほつれたように、その輪郭がぼやけてしまうんだ。
あの青白いARグラスの光が、記憶そのものを侵食しているような、嫌な感覚。
窓の外を眺めると、早朝の街並みが広がっている。
マンションの向かいの食品店の店主が店先を掃いていた。
彼は笑顔で通行人に挨拶をしている。
だが俺の目には、その笑顔の下に隠された疲労と焦りが、冷たい感触を伴う青白い靄となって透けて見えてしまう。
昨日の売上が悪かったのだろう。
嘘じゃない、彼は本当に挨拶したいと思っている。
でも、その笑顔の理由は、表向きの「気持ちのいい朝だから」じゃない。
これが俺の「嘘を見抜く目」の厄介なところだ。
人の言葉や表情の裏側に潜む本当の感情や意図が、青白い靄や、時に冷たい感触、歪んだ音として知覚されてしまう。
嘘をついている人間の周りには、その嘘の大きさに比例して濃い靄が漂い、悪意が強ければ、それは肌を刺すような冷気となって俺を襲う。
時には、誰かを守るための優しい嘘もあるのかもしれない。
だが、今の俺には、その違いを見分けることは難しい。
全てが等しく、俺を世界から孤立させる壁に見える。
俺だって、本当は誰かと繋がりたい。
ただ、嘘が見えてしまうから、信じることが怖いだけなんだ。
服を着替え、制服のネクタイを緩めに結ぶ。
鏡に映る自分の顔は血色が悪く、目の下にはクマができている。
誰よりも冷たく、そして孤独な目。
俺は自嘲気味に口元を歪め、鏡から目を逸らした。
ネクタイがまっすぐじゃないことに気づいたが、直す気にもならなかった。
どうせ誰も俺のことなんて——。
「まあいいか」
朝食を取る気にもなれず、学校のカバンを手に取り、アパートを出た。
秋の朝の空気が肌を刺す。
木々の葉が少しずつ色づき始め、夏の暑さが遠のいていくのを感じる。
それでも今日も一日が始まる。
そう考えると、どこか軽い絶望感が胸をよぎった。
◇
通学路に足を踏み入れると、秋の冷たい風が頬を撫でる。
御影学園高校への坂道は、朝の柔らかな光に照らされ、桜並木が両側に広がっていた。
葉は少しずつ色づき始め、地面には早くも散った葉が数枚。
その上を踏みしめると、乾いた、寂しい音を立てる。
前を歩く生徒たちの会話が耳に入ってきた。
下駄箱近くの男子グループだ。
一人は野球部のユニフォームの上にブレザーを羽織り、もう一人は眼鏡をかけた細身の男子。
二人とも俺と同じクラスだった気がする。
「なあ、お前もオムニサイエンス使ってみた?」
眼鏡の男子が興奮した様子で野球部の男子に尋ねる。
最近学校で一番のホットトピックだ。
オムニサイエンス——最先端のAR学習支援システム。
先月から御影学園に試験導入されたばかりで、「教育革命」とまで呼ばれている。
だが、俺にはその名前自体が、何か胡散臭い靄をまとっているように感じられた。
「ああ、先週の放課後の体験会で使ったけど、すげえぞあれ。数学の問題がサクサク解けるようになる」
「マジで? 効果あんの?」
「あるある。あのグラスをかけると、頭の中に直接情報が流れ込んでくる感じなんだ。視界の端に、時々変な記号みたいなのがチラつくのが気になるけどな。まあ、30分使っただけで、次の日のテストで過去最高点取れたんだぜ」
野球部の男子は胸を張って自慢する。
彼の顔には、自慢気な感情を示す青い靄はほとんど見えない。
嘘じゃないようだ。
だが、「変な記号」という部分に、俺は微かな違和感を覚えた。
「すげえな……俺も使いてえ。でも、噂によると副作用みたいなのがあるらしいぜ? なんか、使った後、鏡を見るのが怖くなったとか……」
眼鏡の男子が声を潜める。
するとちょうど別の女子グループが通りかかり、その会話に割り込んできた。
「うちのクラスの高瀬さん、使った後にしばらく変になってたよね。目がずっと虚ろで、自分の名前呼ばれても反応鈍かったし」
ボブカットの女子が他の子に向かって話す。
すぐに別の長髪の子が相槌を打つ。
「あー、あれ見た見た。まるで人が変わったみたいだったよね。でも数時間したら元に戻ってたから、一時的なものなんじゃない? 先生も『新しい学習法に脳が適応する過程での一時的な現象』だって言ってたし」
彼女たちの会話には微かな青い靄が漂っていた。
完全な嘘ではないが、どこか事実を曲げ、不安を打ち消そうとしているような響きがある。
おそらく先生の説明を、自分たちに都合の良いように、楽観的に解釈しているのだろう。
「でもさ、モニターに選ばれた子たちって、みんな成績上がってるよね。中野さんなんて、もともと頭良かったのに、今じゃ学年トップ独走でしょ?」
ボブカットの子が言うと、グループ全員が羨望の眼差しで頷く。
「それだけじゃなくて、性格も明るくなったよね。前はあんなに……なんていうか、影がある感じだったのに。休み時間も、よく窓の外見てぼーっとしてたし」
影がある……?
休み時間にぼーっとしてる……?
俺の知る中野未来のイメージとは、少し違う。
俺は彼らの会話を聞きながら、自分の記憶を探った。
確かに、最近の中野はいつだって人気者で、クラスの中心にいる太陽のような存在だ。
だが、言われてみれば、以前はもっと……そう、どこか儚げで、触れたら壊れてしまいそうな繊細さがあったような気がする。
思い出せない。
いつから彼女は、あんな風に完璧な笑顔を振りまくようになったんだ?