第9話 フェリシアとスライム
木のまな板の上で動くスライムへ、両手にフォークを握りしめたフェリシアがおっかなびっくり視線を注いでいる。
スライムはまるで黄身を取り除いた卵がてろんと広がっているように見える。スライムの核がカラザにそっくりな白い筋のように見えるのも、卵白感をいや増していた。
スライムを乗せたまな板の隣には何も入っていないボウルが用意されており、調理台の前で気合を入れるエプロン姿のフェリシアと相まって、今から料理でもするのかと錯覚しそうになる。
しかしこれはれっきとした冒険者の仕事風景であった。
「ねえティナちゃん、このスライムってどこから採ってきたの?」
屈んでスライムを観察していたフェリシアが、上目づかいでティナを見た。金の瞳の上で、ピンク色のまつ毛がふるふると揺れる。
ポムもピンク色の髪の毛だったが、彼女の目に痛いショッキングピンクよりもフェリシアの髪色は柔らかい。太陽が沈んだ後の数分間にだけ現れる空のような、淡いピンク色だった。
「ん? ダンジョンに草原のフィールドがあってね……」
「草原なら、お野菜をとってきてお料理しているのだと思えば……いいのかしら?」
首を傾げるフェリシアと苦笑いを浮かべるティナがキッチンで何をしようとしているのかというと、姑から仰せつかったトイレの掃除用スライムの補充である。
スライムはゴミや排せつ物、死骸を食べることから掃除屋と呼ばれ、人間の生活の中で排水処理やゴミ処理のために使われている。
人類の敵である魔物のなかで、スライムのような生活に役立つ一部の魔物は重宝されていた。
そしてスライムを採ってきて排水溝やトイレに補充するのは駆け出し冒険者の仕事だ。
普通はダンジョンや日陰でじめっとした路地裏などにいるスライムをたくさん採ってくるのだが、今日はシスルの冒険者養成学校で先輩から後輩へと受け継がれている裏ワザを、特別にフェリシアに伝授しようとしているところである。
その裏ワザのために必要なのが、目の前の調理用器具であった。
「んじゃまず、左手のフォークでスライムの体を刺して動かないようにします」
「ど、どこでもいいの?」
「カラザ――じゃなかった、核の部分を避けてればどこでも大丈夫」
「わかったわ」
こわごわティナに尋ねたわりには案外思いきりよくフォークを刺したフェリシアが、次の瞬間びったんびったんまな板の上で跳ねだしたスライムに蒼白になりながら叫んだ。
「いやーっ! ティナちゃん! ティナちゃぁぁあん! 動く動く動くぅ! 動かないようにって刺したのに動くよぉぉぉ!」
ヒーッ! と悲鳴を上げるたびに淡いピンクの髪がふわふわと揺れる。
ひとつに結んだ長い髪の毛が肩から滑り落ちてスライムに付きそうになったので、ティナはさっと手を出してすくい上げた。
「大丈夫大丈夫。続けて今刺してるところとは反対側を、右手のフォークで同じように核を避けて刺します」
「うわーんごめんねー!」
断末魔めいた暴れ方をするスライムから逃げるように体をのけ反らせ、罪悪感からか謝罪するわりにはやはり思いきりよくフォークを刺してスライムを固定させたフェリシアが、次はどうするの? と大きな瞳をうるうるさせてティナを見上げた。
妖精のような容姿ですがるように見上げられると、同性ながら庇護欲が天井を突き破りそうになるから困る。
「その次は、真ん中にある核に向かってフォークを突き刺して……」
ティナの言葉に、真剣な顔でフェリシアが三本目のフォークを手に取った。その横顔を見ながら、彼女がティナの横で見習い冒険者のようなことをするようになった経緯を思い返す。
ティナが離婚宣言をしてから二、三日は大人しかった姑たちは、法的になかなか離婚できないでいるティナを侮り始めた。結局ステファンのことが好きで、この家から離れられないのだろうと。
そしてあの日ティナが話した敬意のことなどすっかり忘れ、「嫁なのだから」と雑事を言いつけ始めた。
そのかわり、ティナの言葉を真面目に受け取ったのはリラだった。
リラは姑から言いつけられた家の仕事を、本当に冒険者ギルドへ依頼したのだ。
ただ、駆け出し冒険者の仕事をBランクのティナへ指名依頼するのだから、あの時姑たちへ言ったように依頼料もそれなりになる。
依頼料はモルレンデ商会から払うので高額になるのはかまわないが、そのかわりにフェリシアをティナの助手として雇い、依頼料の中から少しでもフェリシアにお金を渡してほしいとリラは頭を下げた。
「あ!」
核を傷つけられまいと大慌てで分裂したスライムを見たフェリシアが、ぱっと顔をほころばせてティナを見上げる。
「うん、うまいうまい。この調子で同じことを何度か繰り返して必要分数確保すれば、依頼は完遂です」
スライムを一匹ボウルの中に放り込みながら言うと、フェリシアが嬉々として再びフォークを握りしめた。
「今回も依頼料はフェリさんの口座に入れてもらうように言ってあるからね」
助手として依頼料を分けるにあたり、ティナはフェリシアを駆け出し冒険者として冒険者ギルド登録し、フェリシアの口座を作った。
「ありがとう。お腹の子のために貯金ができるようになるとは思わなかったから、本当にティナちゃんには感謝している。リラさんにも毎回お礼を言いたいのだけど、最近全然顔を見ないから……」
スライムへフォークを突きたてながらしんみり言うフェリシアにちょっと狂気を感じながら、ティナは微笑んだ。
リラに依頼を受けてティナがフェリシアと家の仕事をするようになってから、フェリシアとはずいぶん打ち解けたと思う。そのかわり彼女が言う通り、リラとはあまり話せていない。
「ティナちゃん、あの時言ってたよね……〝嫁だからって理由で虐待するようなやつと一緒にいる意味ない〟って」
震えるスライムの核にフォークの先端を突きつけながら、フェリシアが続けた。
「わたしもその通りだって思ったけど、お腹の子をちゃんと産めるかどうかも不安なの。わたしも孤児院の出身で両親がいないし、帰る家もないから」
「……わたしも?」
分裂してぐったりしたスライムをすくい取ってボウルに入れると、フェリシアはうんとうなずいた。
「リラさんもご両親がいないの。わたしと違って成人してから事故で亡くしたらしいんだけど、実家はないんだって」
それを聞いてリラの横顔を思い出す。凛としていて、けれど菫色の瞳は儚げに揺れていた。
あの儚さは寄る辺のない者の心細さからきているのだろうか。
「だから目をつけられたんだと思うわ」
ドンッとスライムにフォークを突き立て、フェリシアが言う。
「帰る家も守ってくれる身内もいない。貯金も全然なくて、わたしは手に職もない。リラさんも商会を手伝うまではそうだった。そんな女が結婚をしたら、何があっても逃げられない……酷い扱いをされても、生活をしようと思ったら結局は夫と義実家を頼るしかないもの」
フェリシアが大きな金色の目を眩しそうに細めて、なるほどとため息を吐いたティナを見上げた。
「たぶんお義母さんたちは、ティナちゃんも同じだと考えていたのだと思う。ご両親は外国ですぐには駆けつけられないし、冒険者といっても若い女の子だから駆け出しだと考えたのでしょうね。異国の地で一人ぼっち、稼ぎも心もとないし、頼れるのは夫と夫の家族の自分たちだけ……」
フェリシアの言葉に納得する。
冒険者のティナを選んで結婚したわりには、ティナの冒険者としてのスキルや立場に敬意を払わないわけがわかった。
彼らには冒険者として魔物と戦えるほどの戦士スキルは必要なくて、荷運びができる程度の力があればよかったのだ。だからティナがBランクの冒険者だと知って驚いていたのだろう。
「リラさんは自分が悪いって思っているの。跡継ぎを産めないから、あんな扱いでも仕方がないって言ってたのを聞いたことがあるわ。でも……」
フォークで釘づけにされたスライムがまな板の上でビチビチ動くのには目もくれず、桃色の唇を噛みしめたフェリシアが自分のお腹へと視線を落とした。
「リラさんは頭もいいし商会での仕事の経験もあるから、ちゃんとしたところに就職もできるはず……だから別れるなら早い方が良いと思う」
自分は身ひとつで別れることはもうできないし、お腹の子は何より愛おしい存在になってしまったから……と、フェリシアの金色の目が光った。その目頭からぼろっと大きな涙がこぼれて、スライムの上に落ちる。
「わたし、少しでもこの子のためになることをするわ。スライムには悪いけれど、それがこの子のお金になるなら限界まで分裂してもらうんだから!」
ダンッ! と振りかぶってスライムに突き刺したフォークの柄にはそれぞれ、姑とブルーノ、ジェロームの名前が装飾的にあしらわれている。
ティナはやや後ろめたい気持ちで空中に視線をそらした。
裏ワザ伝授のために調理器具がいるんだ、とフェリシアに言ったらやる気に満ちた彼女によってフォークやまな板がすでに用意されていたので言い出せなかったが、本当はティナの収納の魔道具からスライム専用にしている調理器具を使おうと思っていた。
そして彼女が気にするかなと思って捕獲場所をダンジョンと言ったが、実はそのスライムはもともとこの家の排水溝にいたやつである。
まな板とボウルはあとで買いなおそうと、ティナは思った。
◎
それから数日後の、夕方。
夕日が沈み空がフェリシアの髪と同じ色になった頃、モルレンデ家から悲鳴が上がった。
冒険者ギルドから帰宅し悲鳴を聞いたティナがとっさに門を殴りつけて開けると、勢いよく飛んでいった鉄の門扉が石畳に落ちてすごい音を立てた。