第16話 ネームドモンスター:ジェローム
ジェロームに対する司祭と助祭の態度に違和感を覚えたのは、これのせいかとティナは納得した。
自身の不妊を黙っていたジェロームに不信感を抱いていたのだろう。
司祭の言葉を聞いたあと、受け取ったカルテを見るリラは無言だった。
無言で金属の板に留めた書類を確認し、やはり無言でそれをティナに渡した。ティナがそのカルテに目を通している間、無表情になったリラの検査が始まった。
そして静かな室内でジェロームの間抜けないびきだけが響くなかで出た診断結果は、〝リラの生殖機能に問題なし〟。
リラは薄い紙を握りしめたように顔をぐしゃりと歪め、司祭たちと話し合い、ティナへ二つの頼みごとをした。
それを快く引き受けたティナがひとつめの頼みのために外出し、帰ってくると、リラは絨毯から頭と右の手首だけを出したジェロームの顔の上へ、金属板に留まったカルテを落とした。
板がジェロームの額に直撃する。痛みに目覚めた彼の視界へ一番最初に飛び込んできたのは、無言で自分を見下ろす妻の顔だ。
暗くなってきた室内は天井の照明が点灯し、絨毯に巻かれて床に転がるジェロームは逆光気味のリラの顔を直視することになる。
突然の痛みと、自由に動かない体と、おぞましいほど暗く光がない妻の顔。
当然混乱したジェロームは、視界の端でひらめいた白いローブを必死になって目で追った。そしてそれが司祭の祭服だと気づくと、ようやく少しほっとしたように表情を緩めた。
リラの様子と額の痛み、身動きができないことに驚き、ジェロームは司祭に助けを求めようとしたのだろう。口を大きく開けて息を吸った。
その口を手のひらで塞ぎ、ジェロームの顔をしゃがんで覗きこんだリラが静かに言った。
「私たち、結婚して六年目ですね」
ジェロームが目だけでリラを見て、唯一動かせる右手でリラを押しのけようとするが、全く力が入らず指だけがカサカサ動いたあとにあきらめた。
リラはジェロームの反応は特に求めていないようで、極めて淡々とした調子で続けた。
「これはあなたの五年前のカルテです。内容に覚えがありますよね?」
ジェロームの口を塞いでいた手で落ちていたカルテを取って、リラは自分の夫へカルテを差し出した。
「あなたがお義母さんたちの前で私を石女と罵倒し、跡継ぎができない責任を私のせいにして詰り始めたのも五年前でした」
リラはジェロームのカルテに書かれた検査結果、〝不妊〟の文字を指さしながら、まるで商談相手に商会の方針を語るように続けた。
「石女の腹ほどこの世に不要なものはないと言って私のお腹を初めて殴ったのも五年前、近所の人や仕事関係の人たちに対して子どもができないのは私のせいだと言いふらしたのも五年前……」
怒りとともにドン引きしたのはティナだけではない。
表情を消して顎ひげを撫でる司祭、転がるジェロームから口角を引き下げて遠ざかった助祭、嫌悪感を隠しもしないシスター。
神に仕える彼らの冷たい視線を一身に浴びたジェロームが、カメが甲羅の中に首を引っ込めるように絨毯の中に首をすくめた。
「あなたはなぜ私を殴り、どうして一方的に私が悪いと言ったのでしょう。自分こそが子どものできない原因なのだと、あなたは五年前にすでに知っていたのに」
濃紺色の髪の毛を耳にかけながら、唇を噛みしめたジェロームをリラが真っすぐに見つめた。
「いったい、どういうつもりだったのですか?」
「それは……」
「それは?」
まばたきもしないリラの問いに、ジェロームは口の中でもごもごと言葉を並べ始めた。
「こういうのは女が原因なんだ。男の俺が不妊の原因だなんて世間にばれたらみっともない。わかるだろう? それに、べつに嘘は言ってない。お前が石女だという可能性はあるんだから……」
シスターが静かに膝をつき、持っていたリラのカルテをジェロームの前に差し出した。
二人分の影で暗くなったジェロームの顔が、リラのカルテを上から下までなめるように見てから大きく歪んだ。
「どうして検査を受けようと思ったのですか?」
リラの問いは確かにティナも気になった。
事前に聞いた司祭の話では、繊細な問題ゆえに検査を受けようとする人は少ないらしい。リラのように悩んでいてもそもそも検査のことを知らない人も多い。
普段のジェロームの態度からは、妻に問題があるのだという証拠を欲してリラに検査を受けさせて、問題なしの診断が出てもそれを信じず、望む結果が出るまで別の地区の神殿で同じ検査を受けさせようとするほうがしっくりくる。
「……俺に瑕疵がないと証明するためだ」
ジェロームは自分を見続けるリラから目をそらして続けた。
「父さんが死んで跡継ぎのことを母さんがうるさく言い出し始めて鬱陶しかったんだ。その時に友人から検査のことを聞いて、俺のせいじゃないって証明書を手に入れるつもりで受けた。それを母さんに見せれば、俺に跡継ぎのことを言ってくることはないって思ったからな」
はー……と息を吐いて、ジェロームの視線が空中をさ迷う。
「で、今さらそれがどうした? べつにお前が不妊だってことでいいだろうが。子どもも作れない嫁と離婚もしないで優しいご主人ね、そういうご主人が経営する商会なら情に厚くて安心だって商会の評判も上がったんだし、よかったじゃないか」
この期におよんで謝るでもなく開き直ったジェロームを殴りたくなったティナは、だけど怒っていいのはリラだけだとぐっとこらえた。
リラの二つ目の頼みごとが、彼から気配を消して隠れていてくれというものだったからでもある。
「あなたは私との子どもが欲しかったわけではないの? 子どもが欲しくて、だけどできないとわかったから悲観してあんなことをしてしまったのでは……?」
ティナのように憤ることもなく、はたで聞いている司祭たちのようにジェロームを軽蔑するそぶりも見せず、リラは契約の確認をするような口調でジェロームに尋ねた。
「子どもの有無は男の面子に関わることだ。そういうのを立てるのが女の役目だろう」
絨毯の上からちょっと蹴るくらい許されるのでは? と、ティナはジェロームの死角で素早く絨毯に視線を走らせた。
黙ったままじっと自分の夫の顔を見るリラの静けさに、ジェロームは自分の言葉が彼女を説得したと思ったようだった。
「だいたいなんだ、この状況は。なんで俺は……絨毯? に巻かれて床に転がされてるんだよ。さっさと解放しろ」
ジェロームがアスパラの肉巻き状態のまま顔を伸ばし、今さら自分の状態に悪態をつき始めた。
「……そうですか」
そんなジェロームの目の前から彼のカルテを遠ざけ、シスターから自分のカルテを受け取ったリラは、さっきまでと同じ淡々とした口調で言う。
「お義父さん亡きあと商会を支えたのは私です。態度の悪いあなたのせいで下がった評判をギリギリのところで保たせていたのも私、取引先の方が信用しているのもあなたではなく私」
リラがそんなことを言い出すとは思わなかったジェロームが、驚いたように顎を引いた。
そんな夫の顔を見て、リラが今日初めて微笑んだ。
「不妊はあなたなのだから、子どもを作れない男の股間ほど役に立たないものはないと言って、私もあなたの股間を殴ってもいいのでしょう?」
このリラの言葉にはジェロームだけでなく司祭と助祭が一瞬ひゅっと息を飲んで自分の股間を見たけれど、シスターはリラの横で冷たい目をしている。
触りたくはないけど、もしもリラが望むならバトルアックスでそれを切り落としてもいいとティナも思った。
「お義母さんや近所の人に言いふらしてもいいのですよね? だって本当のことですもの。もちろん仕事先の人たちにも。不妊なのはあなたの方なのに長年私に原因があると言い続け、妻を殴ったと」
「お前!」
「もう近所を歩けないですね。噓をついて身を守らなければならないほど恥ずかしいことなのですものね? 仕事ができない、嘘つきで暴力的で不誠実な男。きっと評判になるでしょう」
絨毯で巻かれたジェロームが背中を反らして跳ねる。怒りをあらわにして抜け出そうとするけれど、ティナが少しの隙間もないようにキッチリ巻いた絨毯はほどけなかった。
「あなたが何と言おうと、どれだけ私を殴ろうと、私はやります。あなたが私に商会の仕事を丸投げしてくれたおかげで、赤椋鳥の知り合いもいますから」
赤椋鳥は依頼を受けて噂を流す職業のことを差す。ティナの故郷にもいたが、リュインにもいるとは驚いた。
椋鳥たちが流した噂はあっという間に広まるから、リラが本当に依頼すれば明日にでもジェロームの話はリュイン全体に知れ渡るだろう。
「外を歩けなくなるじゃないか!」
「女に立たせてもらわないと立つこともできないのなら、歩くこともできないでしょう。だったら歩かなければいいのです。永遠に、ずっと、倒れたままでいればいい」
もしもそれが嫌なのなら……と、リラは怒鳴り続けるジェロームの顔を覗きこんで言った。
「離婚しましょう」




