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第10話 ネームドモンスター:ブルーノ

 リビングに続く廊下でもう一度響いた悲鳴は、間違いなくフェリシアの声だった。


 ティナがリビングのドアを蹴ると、蝶番が外れ斜めにチーク材のドア板がずれる。間髪をいれずもう一度胸に引き寄せた膝を伸ばして蹴りつけた。


 ただの板になったドアが、空気を押し潰して前のめりに倒れていく。


 空気の塊がドアの下敷きから逃れようと四方に逃れ、その勢いに押された埃が宙に舞う。

 窓から差し込む夕日の中で浮き上がる埃に交じり、夕焼けのピンク色で染まった雲を引きちぎったような何かが、激しい音を立てて倒れたドアの周囲でふわりと舞った。


 「働きたいだと⁈ は? お前が? なんで?」


 「……ゃ、やめ……っ」


 ティナの視界で舞い上がった埃と髪の毛が一瞬だけぴたりと時を止め、そのあと静かに落ちていった。


 その向こう側で、ブルーノが床に倒れたフェリシアの前髪を左手で鷲掴みにして怒鳴っている。

 フェリシアの髪は掴まれている前髪以外は不揃いで、埃と一緒に目の前を落ちていったものとフェリシアの髪の毛とがようやくティナの頭の中で繋がった。


 こいつ、フェリさんの髪を切りやがった!


 ティナがハンドアックスのホルダーに手をかけた瞬間に、ブルーノが右手で持ったナイフを振りかざし、フェリシアに向かって唾を飛ばした。


 「男に媚びるふしだらな女が外で何するつもりだ!」


 「……っ自分にたくさん浮気相手がいるからって、わたしもそうだって思わないで! この子はあなたの子よ! 八百屋で男の店員さんと話しただけで浮気したって決めつけて、二週間もわたしを閉じ込めた時にできた子! 覚えがあるでしょう⁈」


 体が浮くほど前髪を引っ張られても気丈に言い返すフェリシアが気に障ったのか、ブルーノがふざけるなと舌打ちを返した。


 「結婚してる女が旦那の許可なく男と話したら浮気だろうが!」


 青い目を見開いて怒鳴ったブルーノの暴論に、ティナはバトルアックスを抜いた。そのまま勢いに任せて切りつけそうになるが、フェリシアの金の目が真っすぐブルーノの顔を見返したのに気がついて手を止めた。


 「――あなたの子よ」


 自分の前髪を引っ張るブルーノの手首を両手で掴んで、フェリシアが低い声で言う。


 「あなたと、わたしの子。だけど、あなたはこの子が産まれても大事にしてくれないでしょう。今だって大事にしてくれないもの! だからわたしはこの子の母親として、やるべきことをやるわ」


 きっぱりと言い切ったフェリシアの金の目は光っていたが、涙はなかった。

 光っているのはきっと決意で、彼女の意志のこもった低い声を聞いた瞬間にこれまで以上の力で前髪を握りしめたブルーノの手首を、フェリシアがぐっと強く押し返す。


 彼女のその両手に震えはなくて、決意に満ちたフェリシアの様子に、ティナはひとまずバトルアックスをホルダーにしまった。


 「は? そんなん、托卵されてもちゃんと養ってやってる俺の方が大事にされるべきだろ」


 「あなたの見当違いの嫉妬でずっとここに閉じ込められてきたけど、わたしは働きに出る。不義の子だって実の父親から言われながら育つ子どもを見たくはないの! あなたがわたしとわたしたちの子どもを尊重してくれないなら、お金をためて、いつかここを出て行く。あなたとは離婚する! わたしはっ」


 怒りに顔を真っ赤にし、ブルーノは獣のようなうなり声をあげてフェリシアの髪を掴んだ手を振り払った。ブルーノの右手に引っかかってちぎられたピンクの髪がゆっくりと床に落ちていく。


 腹を庇って倒れたフェリシアは、痛みにうめきながらも怒鳴り返した。


 「わたしは自分を大事にしたい! 夫婦で子どもを愛したい! 人間として尊重されたい! そういう普通のことを……っわからないあなたなんか大嫌い!」


 「どこの男に知恵つけられた! 人間として尊重だ? は、ふざけんな! どうせその男んとこに行く気だろう! 髪切ったくらいじゃ足んねえわ、二度と表歩けねえように剃ってやるから頭出せ!」


 ナイフを振りかざしながらフェリシアへ迫るブルーノに、迷わずティナは蹴りを入れた。

 

 「うっさい」


 ブルーノが体全体でコート掛けのフックの物真似をしながら吹っ飛んでいった。

 ナイフが音を立てて床の上を滑っていく。


 芸術点は高いが着地は顔面からだった。マイナスである。


 「なんだ托卵って。お前は鳥か。いや、鳥や魔物だってちゃんと一夫一婦制の種族もいるんだぞ。浮気しまくりなのはお前の方なんだから、魔物より下等なんだってわきまえろ?」


 ブルーノが絞め殺される寸前の小鳥のような声を上げて倒れているが、あばらが折れていようが内臓が潰れていようが知ったことではない。

 なにせこいつは妊婦の、しかも自分の子どもを宿した妻の髪を切り、その身重の体を床へ振り払ったのだ。慈悲はない。


 他人の髪を切るということは、その人の健康の加護を断ち切るというのと同じことだ。

 資格を持つ神父か助祭しか散髪してはいけないとされているのも、健康の守護天使の許しを得た者以外が髪を切ればたちまち健康が害されるからだ。


 ただでさえ出産は命がけなのに、髪にかけられた健康の加護がなければどうなることか。


 脂汗をかいて転がるブルーノ(人でなし)の頭を踏みつけて、ティナは収納の魔道具からロープを取り出し動けないように手足を縛る。このまま衛兵に突き出すつもりだ。神殿でもいい。


 「ティナちゃん……」


 今ようやくティナの存在に気がついたフェリシアが、涙を流してティナの名を呼んだ。


 「わたし、い、言うべきことを言ったわ……何も響かなかったけど、ここまでして響かないのなら、もういいわ……!」


 金の目を光らせて言うフェリシアに、数日前スライムにフォークを突き刺していた姿が重なった。

 そういえば彼女はやると決めたら思いきりがよかった。びたんびたん暴れるスライムへ、ためらいなくフォークを突き刺していたのだったと。


 ティナは片足でブルーノを踏みつけたまま、収納の魔道具からポーションの瓶を取り出してフェリシアに差し出した。今は興奮で気づいていないが、後で必ず痛みが出るだろう。何よりお腹の子が心配だ。

 よく見れば髪をナイフで切られたせいで、頬や首にもうっすら切り傷がついている。ブルーノ(素人)のナイフさばきで、よく大怪我をしなかったものだ。


 素直にポーションを受け取って蓋を開け、中身を飲むフェリシアの髪はバラバラだった。


 甘やかなピンクの髪はふわふわとして夕空の雲のように綺麗だったのに見るも無残なありさまで、お腹を庇って立ち上がる様子に胸が痛む――と同時に、もぞもぞ動いて足の裏から逃れようとするブルーノに殺意が湧き、ティナは静かにバトルアックスを抜いた。

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