いつかのこどもだったひとが思うこと
昔語りをしましょうか。
ある時突然不幸に見舞われ、家族の一人が肉体の外へと魂がほぼ抜けました。
母は嘆き悲しみ、現代の医療と神に縋ります。
縋るものがあっただけ、希望がある様に見えただけ、まだそれは救いであったのかもしれません。
せっせとリハビリと神に縋る日々、もちろん親として百パーセント戻ると信じての行動。
けれど事実は残酷です。
傷つきすぎた内臓は、決して元には戻らない、日々はただ繰り返されるだけ。
そして母もまた、夢と現の境目に落ちるか否かの日々で。
父はいっときとはいえ遠方に取られ不在です。
残った子供にできることは、母を物理的に助けることしかありませんでした。
また母も、頼れるのは残った子供しかいませんでした。
家族中心の生活。
優先順位の明確な日々。
母の補助的に家族の上下の世話も子供の仕事です。
慰めはおそらくおとなしくいてくれるからという理由で図書館で借りてきた数十冊の本。
その中でただ一つ、テストで百点を取ることが母の関心を手に入れる手段です。
残った子供は満足でした。
嵐の恐怖に気をたてる母の相手をするのも、楽しみに信じているサンタさんは父だからプレゼントは無い! と怒鳴られても。
そしてこの生活は突然変わります。
母の受容と諦め、また家族が増えることによって。
世界は広がりました。
家族のためにこうするべき、が新たな家族にはありませんでした。
何故でしょう?
当たり前、に疑問を持った瞬間でした。
けれど基本的には家族が大好きだったので、手伝いつつも反抗すべきはしてみることにします。
新たな存在意義の模索が始まりました。
何せ子供は、家族のために自分が在ったからです。
子供は児童から青年になりました。
物語に救われた子供は、自分も伝える側になりたくなります。
母とは当然ぶつかります、夢でご飯を食べられる人は圧倒的に少ない。
それが世界のことわりでした。
母は看護師になれ、と、集団予防接種で泣き叫び逃げて先生数人で連行された経験を持つ子供に言います。
子はとにかく夢を追う為に専門学校だと言います。
お互いがお互いを傷つけます。
産まなきゃよかった。
産んでくれと言った覚えはない。
とても、悲しい言葉達です。
母は諦めませんでした。
子供はずっとそれに付き合ってきたので、やはり諦めずに妥当点を探しました。
お役人の試験を受ける事と、就職率百パーセントに近い夢の勉強もできる専門学校に進学することです。
かくして、血で血を争うこの決戦は、両者ドローで幕を引いたのでした。
懐かしい感情が蘇ったので、軽く書きたくなって書いています。
人一人の存在って、立場や環境、その他様々な要因で変化します。
優しいところで固定化されていたら、どんなにいいことか。
けれど多分、そうなった途端私たちは人間でいられないのかもしれない、とも思います。
一つ言えるのは、自分の感情や気持ちや思考は自分だけのもので、誰にも決められるものではなく自分自身が決めているのだ、決めていいのだということ。
秩序のある世界で生きているので、他者を故意に傷つけない存在であることが前提、と但し書きがつきますが。
厳しい環境下の人にはその選択がとてつもなくないに等しいけれど。
それについては、心理的身体的暴力下にある子達には、どうかこころやからだをまもるだれかがそばにいてくれますように、と願うしかできないのが歯痒いところです。
人のできることには限界があって、いつだって取捨選択をしていて、順位がつく。
私もそうして自分の周りを守る分だけ、出会うことのない誰かを切り捨てている。
その現実と向き合いながら二本しか無い腕で自分の大事な人を守っています。
少なくとも三食食べられて命の安全と寝床があり、誰かしら気の合う他者がおり、ネットの海で漂える余力があるうちは、たくさん悩んでたくさん読んどけ!
そしてその思考や言語を理解ある人や理解がないけど伝えたい人に言葉にし続け、自身をブラッシュアップしてみて欲しいです。
建設的に思考しようと足掻くのはとても大事! と勝手に言いたい。
起こった事象において、怒るという思考も、冷静になって解決策を練る思考も、自分自身が選択出来るって誰かのエッセイで言っていて。
相手が自分を怒らせるのはそれによって相手が得をするからだとも書いてあり。
この考え方もしかして応用効くのでは? そうしたらある意味で最強じゃん?
と思ったので追記しておきます。
元の文章はもっとわかりやすくて素敵だったのに、ネットの海にあってどこいったのか………ネットは広大だわ(わかる人にだけわかるネタ)
あと、自分の欲しい愛の形っていうのはほぼほぼ貰えない、貰えたら奇跡って大人になって気付きましたよ!
自分で選んだ相方からすら貰えないし、けどそもそも自分も多分相手の思う愛はあげられていないのです。
価値観っていうのは一人称で、多様性に富むには人ってテレパシー使えないので自分が見聞きした範囲になってしまうのです。
親が、伝わらない愛をやっちゃ本来いけないんだけど、お互いのニーズに気づく方が珍しいし切羽詰まる事情とかっていうのもある世の中です。
親にも育ってきた歴史があり時代背景もあり、またその先にも歴史があって、事情も多様なのだなと波瀾万丈な祖父や父の人生を聞いた今となっては思います。
悪気はないことの方が多いというのが雑感。
悪しき風習は自分の代で変える胆力も必要です。
だから無理と思えば逃げてもいいし、いいとこ取りするのもあり寄りのあり。
大人にさえなれれば選択肢は広がるって伝えたい。
そして即物的に言ってしまえば、大人になった時の選択肢がいっぱい有るのか、それとも二、三しか無いのかは、ある程度の子供時代の能力の習得に、どうしてもこの世はかかっているってこと。
みんな好きじゃないか、チート! スキル!
要はその力を親は知っていて、子供に教えたいんじゃないかと思うんですよ。
ちな親の思うチート 大学卒業資格、大企業就職、公務員就職
ちな親の思うスキル 高卒資格、コミュニケーション能力、自活(身の回りのことがどれだけ出来るか)能力
年齢ととっても勇気の要る最初の一歩を踏み出す力は、悲しいかな反比例します。
経験がなければないほどです。
だから若いうちに出来るだけの経験値を。
それは成功だけでなく、失敗やそれから得るであろう次への工夫も。
以下はそんな思い? が迸りすぎた、このエッセイを書くに至る理由になった、とあるエッセイへの一言の原型です。
もちろん長文すぎたので送る際にはこれ以上にゴリゴリ削ったけどまだ長文だったゴメン。
まだまだ自分の中にもこんな青くさくって、伝えたい希望みたいなのがあるんだなぁ。
一人一人事情があって、個々の能力も大人だとて様々で、とても複雑な世の中です。
スペクトラムのように虹色の中に、私達はいると私は考えています。
単一で、決められたプログラムのような思考・行動ならとても綺麗な秩序、平坦な生死だったのでは?それが無いから時に苦しく、時にとてつもなく嬉しい。
人間とはかくもめんどくさい生き物だなと、思う日々です。
ですがそれが文化を生みこうして私達は言葉を書き綴っているのですから不思議なものです。
子供の頃今でいうヤングケアラーで有無を言えない環境にも、その後運良くそれ以外の環境も知れた、親であり子であった立場から考えてみると、親御さんは、きちんとお互いにとっての妥当点を探ろうとする、割と話し合いができる方の人なのかなと推測しています。
作者さんの事情をちゃんと加味して、無くす、ではなく、減らす、という選択をしているっぽい?
人間社会の自由や契約には責任が伴うということもやんわり提示している様に感じます。
立場が違うというのは、方向性を決める時に厄介なものです。
親の立場からすれば、大事(子に伝わりにくい表現の愛情含む)な我が子は平坦な道で、且つ親の思う幸せを歩んで欲しくなるのが世の常の様です。
子の立場からすれば、夢の為にのたれ死んだっていいじゃ無いかクソ親!な気持ちもわかります。ある種自分だけのことを考えればなんだって自由にして悪いことはないですよね。
ただ親は、産んだ責任が自分にある、と思って生きています。
自分達の自由と愛とエゴからこの世に子どもを呼んだので、少なくともありったけのハグとこの世を泳ぎ切る知恵、故意に他人を傷つけない心を受け取って欲しいと私自身は考えています。
そして年功序列で死んでゆきたいのです。
親を説得したい場合、具体性は有効です。
家にい続けるなら家庭内への労働で、そろそろアルバイト等も視野に入る年齢なら資金は仕事で、卒業資格は通信制で、夢への筋道は作品を賞などに投稿するという行動を示すのもいいかも知れません。
頭でっかちな親でない場合、この子ならなんとか生きていけそうね、という行動力が見て取れると、態度が軟化するかもです。
また、文学事典哲学エッセイetcたくさん本を読むのもおすすめです、何かを苦しく感じた時先人の叡智やヒントがそこにある場合も。
漫画家になりたかったクソババァの、以上、要らぬお世話でした!
御免なさい、推敲したけど削れないジレンマに土下座しかない気持ちです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
エッセイは何故かタグ弄りがしたくなる今日この頃です。
……まともな内容紹介をしたことがない気もします、もしやこれが世にいうツンデレ! 私にもツンデレ属s(自主規制)