こちとら独身不惑女子~だけど年下男子はNGみたいです~
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この夏の盛りに四十を迎えた私は、悲しいかな、一人暮らしのフリーターだ。昼は白石区の古本屋で、夜は厚別区のコンビニで働いている。
古本屋にコンビニ。
どちらかといえばマイルドに捉えられがちなアルバイトのように思うけれど、結構ハードだ。否、仕事の内容そのものはそうキツくない。つまるところ、長時間の勤務に私の体が悲鳴を上げているというだけのこと。なんてったって、私は不惑女子。たとえ突っ立っているだけであろうと、膝も腰も痛くなってしまうのだ。
悲しい。
本当に悲しい。
このまま年老いていくのかと考えると、泣きたくなる瞬間だってある。
北大を出て、一度は上京、一部上場のIT企業に就職した。最初はネットワークの設計や構築といった業務に従事していたのだけれど、気づけば運用設計に回されていた。IP電話絡みの案件が多かった。緑色の電話機といえば、その道では知らない者はいない。
仕事は楽しかった。運用設計という分野そのものが社にとって新しいものだったので戸惑うことは多かったけれど、商品を作り上げ、メニュー化していくというプロセスに魅力とやり甲斐を感じていた。たとえ結婚したとしても続けたいくらいに考えていたのだ。
しかし、好事魔多し。
いよいよ仕事って楽しいなあ面白いなあと感じていた折に、部長からのセクハラに遭ったのだ。私の目は切れ長で、ともすれば鋭く見えてしまうので、近づいてくる男は非常に少ない。背が高いことも影響しているのかもしれない。無乳である点はさて、どうなのだろう。とにもかくにも人生において言い寄られたためしなどなかったので、かなり面食らった。
部長はやたらしつこかった。業務中にもメッセが飛んでくるのだ。露骨な内容。他にやることがないのかと言いたくなるくらい「ヤらせろ」的な文言を連発してきた。もちろん、受け流した。やり過ごすよう努力もした。でも、ある日、そのとき務めていたチームリーダーから外してやるぞと脅されると、もうどうにもならなかった。
私は部長と寝た。寝るようになった。そんな真似を続けていれば、社内でも噂くらいは立ってしまうらしい。部長との関係は、自分の首を絞めることにつながるだけだったのだ。結局、周囲から浴びせられる軽蔑の目に耐え切れなくなり、私は職を辞した。
トラウマになっているとまでは言わない。
だけど、その出来事が歩んできた人生に暗い影を落としていることは事実だ。
男なんてみんな死んでしまえばいい。
そう考えていた時期もある。
私は不運にも負け組に入ってしまったのだろう。
今はそう割り切ることで、なんとか生きている。
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煎餅布団の上で目覚め、台所で水道水を飲み、テレビを見ながらシリアルを食べ、自らの不遇に少し涙してから、化粧と着替えを済ませて出勤する。毎日それの繰り返し。
古本屋といっても、チェーン店ではない。個人商店だ。神保町で目にするような古びた店舗である。一般書籍も出るけれど、やっぱりマンガのほうがずっと多く売れる。
カウンターの上にて布で文庫本を拭いていると、今日も後輩の水原君が「寝坊ッス、すいませーん!」と大きな声を発しつつ、店に入ってきた。水原君は大学生だ。がっちりとした体格のまあまあイイ男ではあるものの、あまりおつむがよくない上に時間にはルーズ。そのへん感心できたことではないので、私の中でのポイントは低い。
バックヤードでエプロンをつけて、カウンターにやってきた水原君。「今日もお綺麗ッスね、忍さん」などと言ってくる。こういう軽いところもダメ、マイナス点。とはいえ水原君、仕事はできるのだ。マンガの全巻セットをこしらえるのも手早いし、客対応も良好。水原君目当ての女性客だっている。こないだなんて、文学好きの女子高生からラブレターをもらったと自慢げに話していた。「ああ、よかったね」とだけ伝えた私だ。他人の恋愛に興味などない。
さて、お昼の休憩中のこと。小さなテーブルの向こうで”やきそば弁当”にがっついていた水原君が、「あのー、忍さん、折り入ってお話が……」などと切り出してきた。口の端にかやくのキャベツがついている。このへんの間抜けさが阿保っぽいんだよなあと思う。
「シフト代わってっていうならいいよ。どうせ私、暇だから」
「いえ、そういう話ではなくて……」
「だったら、なに?」
「えぇっと、それは……」
からっぽになった容器をテーブルに置いた水原君。
いつになく真面目な顔つきになった。
なんだろう?
「忍さん!」
「い、いきなり大きな声を出すな。びっくりするから」
「俺、忍さんのこと、好きなんです!」
……は?
「超がつくくらい、大好きなんです!」
「超!? な、なに言ってんのよ! オバサンをからかうなと私は言いたい!」
「からかってなんかいません! 本気です!」
「嘘をつくな! 目尻のしわとか顕著だから! 私の肌にはもはやハリなど皆無なんだぞ!」
「そんなの気にしません! とにかく好きなんです!」
「目を覚ませ、脳筋馬鹿!」
「目はバッチリ覚めてます!」
水原君ときたら椅子から腰を上げ、テーブルを迂回してきた。そして、左手を取って私のことを無理やり立たせて、強く強く抱き締めてきた。
「ま、待って、待った、水原君、ちょっと落ち着け。アンタ、モテるんでしょ? なのになんでこんなオバサンをチョイスしちゃうのよ。そのへんの理由を聞かせなさい、っていうか、聞かせろ」
水原君、答えなかった。
ただ私の唇を奪っただけだった。
驚いた。
驚きまくった。
安っぽいソース味だったけど、なんだかちょっと、ときめいてしまった。
※※※
胸の高鳴りがおさまらないまま夜を迎え、今度はコンビニのバイトである。店内に入ると、「あ、斎藤さん、こんばんはぁ」と柔らかな声を掛けてくる若者の姿アリ。私がひそかにポチと名づけた後輩の日景君だ。服飾系の専門学校に通っている。十九歳らしい。くしゃっとした茶髪と紅茶色の瞳が特徴的な小さな体の男のコだ。クォーターとのこと。いわゆる草食系のイケメンである。
私は日景君の挨拶にろくすっぽ反応せず、バックヤードに引っ込んだ。白と水色のストライプ柄の制服に着替えてパイプ椅子に座り、額に手をやって「はぁ……」と一つため息をつく。
水原君のことが頭から離れない。「キツいぞぉ、これは」などと声が漏れたりもする。なにがキツいって、水原君が本気であるらしいことがキツいのだ。
キスされた瞬間、ドキドキした。確かにドキドキはした。だけど、水原君は二十歳だ。男のコだ。若者だ。若造だ。私が気持ちに応えるのは、あるいは彼の未来を奪うことと同義ではないだろうか? いや、それは大げさに考えすぎかもしれない。向こうがオッケーだというならアリっちゃアリか? いやいや、待て待て。なにかの理由で盲目的に懐かれてしまっている確率のほうがずっと高いのではないか? 私は目つきと同様、性格だってキツい。実は水原君ってマゾ? その可能性もなきにしもあらずだけれど。
レジに入っても、心ここにあらずの私。不甲斐ない。でも、これまでの人生において私にキスをしてくれた男は部長だけだったわけであり、抱いてくれやがったのも部長だけだったわけだ。そりゃぼーっとしたくもなる。このままでは勤め始めて以来ずっと続けてきた釣り銭のミスなし記録が途切れてしまうかもしれない。
客が少しはけたところで、タバコのカートンの残りをチェックする作業に移った。しゃがみ込んでスチール棚の引き戸を開け、銘柄ごとの在庫数を専用の用紙に書き込んでいく。最近は緑のアメスピが売れるらしいというのはどうでもいい情報だ。
ふかーい、ため息。
ヤバいぞと思う。水原君のことでいよいよ頭が埋め尽くされてしまう。どうしよう。どうしたらいい? 経験則で対処できないことにはとことん弱い私。まったく、こんなことになるなら、もう少しくらい男に興味を持つべきだった。異性との付き合い方について考える時間を設けるべきだった。でもそんなこと、今更、言い出しても仕方ないわけで……。
「手が止まってますよ」
そんな声がして、ドキリとなった。
隣でポチ、もとい日景君が膝を折る。
「お客さん、はけたの?」
「はい。暇です」
「暇、暇か……」
「ん? なにかありますか?」
ふと思い立ったのだ。
ちょっと日景君の意見を聞いてみようって。
「まあ聞け、一介の青年よ」
「はい、一介の青年ですけど、なんですか?」
「私の半分しか生きてない奴に告白されたのだ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうなのだ」
私はまた、ため息をついた。
「どう思う?」
「そういうこともあると思います。斎藤さんは美人ですから」
「オバサン掴まえて美人言うな」
「だけど、ホントに美人です」
「やっぱりアンタはポチだな……」
「ポチ?」
「ああ、ごめん。心の声が漏れちゃった、てへぺろ」
「てへぺろ?」
「ただのスラングだ。気にするな」
「この場合、おめでとうございますって言うべきなんでしょうね。……でも」
「でも?」
すると、日景君は突然、私の左右の頬にそれぞれ手を添えてきて……。
そのまま顔を近づけてきて……。
キスをされた……。
ねちょりと舌まで入れられた……。
気の利いた爽やかなミントの味……。
唇同士が離れると、日景君は困ったように笑った。
「ごめんなさい。僕も斎藤さんのことが好きなんです」
これは夢かと目まいを覚えた。
つーかオイ、防犯カメラに映ってたらどーすんだ?
※※※
暗い部屋の中、私は煎餅布団の上でタオルケットに包まりながら、思わぬ状況に追い込まれてしまったことについて、必死になって考えをめぐらせていた。水原君も日景君も本気らしいからこそ、彼らのことを馬鹿だなと嘲りたくもなる。周りにはもっとピチピチした……という表現は古臭いことこの上ないけれど、とにかく鮮度の高い女のコがたくさんいるに決まっているのに。
……いや、実は私にはとてつもない魅力が?
妖艶かつ蠱惑的な色香を醸し出しているとか?
なんてなふうにポジティブに考えることができる性格であれば苦労はしない。私は「えっへん」と胸を張って誇れる材料など何一つとして持ち合わせていないのだ。
苦笑がこぼれた。
多分、そんな調子だから、女としての自分に自信なんて持ったことがないから、まともに男を好きにもなれず、恋愛もできず、婚期だって逃してしまったのだろう。それくらい、わかっている。痛いくらい、わかっている。
断ろう。
選択するしない以前の問題だ。
二人の想いは嬉しいけれど、やっぱりその気にはなれない。
と、そのとき、枕元のスマホが鳴り出したので、びっくりして跳ね起きた。長州力の入場曲”パワーホール”が唸りを上げたのだ。あまりに慌てたので誰からの着信かを確認することなく通話に応じてしまった。
「忍さん、夜分、すみませんッス」
水原君だった。
「わ、悪いと思ってるなら電話なんてしてくるな」
咄嗟にこう言ってしまうあたり、私は本当にかわいくない。
「考えてくれましたか……?」
「ああ、考えたさ。考えたとも」
「け、結果は? どうなりましたか?」
私は吐息をついて、口元を優しいかたちにした。
「やっぱりダメだよ、水原君」
「な、なんでッスか?! 年のことなら、俺は全然――」
「私が気にするんだよ。それにさ、ちょっと冷静になりなよ。四十路のオバサン抱いたところで、きっと気持ちよくなんてないよ?」
「そんな……。セッ、体の関係とかは、別にどうだっていいんです。俺、本気なんです」
「それはわかったってば。嬉しいってば。でも、ダメなんだってばよ」
「けど……ああ、くっそ。俺、もう買っちまったんスよ」
「なにを?」
「婚約指輪ッス」
「はぁっ?!」
なぜ若者はこうも突っ走り、いちいち私を驚かせてくれるのか。
「もらってやってくださいよぉ。後生ですからぁ」
「ご、後生だとぅ? なに年寄りくさいこと言ってんだ!」
「もらってやってくださいよぉ」
「二度も言うな! 要らん! どこぞの娘っ子にくれてやれ!」
ビシッと通話を終わらせた。はあはあと荒い息が漏れる。驚きついでに興奮までしてしまった。取り乱すとは情けない。
また”パワーホール”が鳴ったので、私の体はビクッと跳ねた。急いで通話ボタンをポチッとな。
「しつこいぞ、水原君!」
「あれ? 僕、日景ですけど」
「えっ……」
言葉を失った。
今度は日景君?
「な、何用だ、若者よ」
「あはははは」
「なな、なにがおかしい!?」
「いや。斎藤さんの口調って、いつも面白いなあって。で、水原君って誰ですか? ひょっとして、斎藤さんに告白したヒトですか?」
隠し立てしてもしょうがないので、私は一つ息を吐いてから「そうだよ」と答えた。
「オッケーしたんですか?」
「してないよ。絶対、するわけないじゃんか」
「えっと、それじゃあ、僕と付き合ってくれるってことですか?」
「そういうわけでもないんだな」
「えーっ、困ったなぁ」
「なにが困ったの?」
「婚約指輪、買っちゃったから」
「だからどうして君達はそういう無茶をするんだ!」
「あれれ? 君達は? ってことは……」
「想像に任せる!」
私は今度もピシャリと電話を切った。
水原君も日景君も私に対して、なにか幻想めいた感情を抱いているとしか思えない。間違っても私はイイヒトではない。イイ女でもない。包容力もない。胸だってない。
また、ため息が漏れる。
明日から彼らの前で、どんな顔をすればいいのだろう……。
でも、大決定していることはある。
私はやはり、二人を振る。
齢四十にして訪れたモテ期を無に帰す。
私はこれからも一人で生きていく。
……なんて心に決めていても、いつかはなびいてしまう。
ひょっとしたら、恋ってそういうものなのかなぁ……。
って、よそう。
そういうめんどくさい考え方をするのはよそう。
ケ・セラ・セラ!
なるようになる!
私は布団の上で仰向けになった。
「あー、孤独死してぇ……」
最悪なことに口をついて出てきた言葉はそれだったのだけれど、心の中では彼ら二人に「こんな跳ねっ返りを好きになってくれてサンキューな!」と感謝していた。
感謝しすぎて、両の目尻から、つぅと涙が伝った。
そうとも、私は不惑女子。
涙腺だって緩いのだ。