六話、雪の朝
五話、六話、七話、同時投稿です。
エイラは暗い雪道を歩いていました。
今日は魔女のローブを着ていません。普通のコートです。
まるでどこかの普通のお婆さんのようです。
なぜこんなことをしているのか、自分でもよくわかりませんでした。
箒に乗ればひとっ飛びのところを、時々雪に足をとられながら、エイラは危なっかしい足取りで歩いていきます。
チラチラと雪が降り始めました。
魔法の灯りで照らしても、少し離れた場所はもう、よく見えません。
エイラはふいに、雪の中を歩いているのが自分一人ではないことに気づきました。
すぐ目の前を、小さな女の子が雪をかき分けるように歩いています。
帽子からこぼれる黒い髪と、前だけを見つめる黒い瞳。
⎯⎯ああそうか。これは五年前のターニャだね。
小さなターニャは雪まみれになりながら、何度も転んでは立ち上がって魔女の森を目指しています。
なぜこの子は、もっと周りの大人を頼ることができなかったのでしょう?
あの時、薬屋の店主が牢屋に入れられて、奥さんも大変な思いをしていたために言い出せなかったのでしょうか?
自分がお母さんを助けなければと、思いつめていたのでしょうか?
誰からも愛されるお母さんよりも、心無い人から可愛げが無いと言われる自分の命のほうが、価値が無いと思ってしまったのでしょうか?
⎯⎯ああ。不器用なんだねえ。
幻のターニャの後ろをエイラはハラハラしながらついて歩きます。
⎯⎯ここは雪が少し深くなっているね。小さな体でここを抜けるのは、さぞ大変だったろうに。
⎯⎯普通のコートだとこんなに寒いとは……。すっかり忘れてたよ。
⎯⎯コートの下に炎熱の葉を貼って温めていたのか。まだ小さいのによく知ってたね。
⎯⎯こんな坂をよく登って来れたね。
「⎯⎯ああっ」
少し遅れてしまった自分を置いて前に進んでいた子供がまた倒れて、今度こそ起き上がれずにいるのを見て、エイラはあわてて駆け寄りました。
でも、そこに子供の姿は無く、柔らかく積もった雪があるだけです。
⎯⎯ああそうか、あの子はちゃんと家にいるんだったね。
エイラは周囲を見回しました。
⎯⎯そうか、ここか。
ここで五年前、ターニャを拾ったのです。
それは、エイラの魔法の力がエイラ自身に見せた幻だったのでしょうか?
もしかしたら、エイラは時を越えてあの日のターニャを助けに行ってやりたいと、ずっと思っていたのかもしれません。
エイラは雪を降らす空を見上げました。
⎯⎯すっかり遅くなっちまって悪かったね。ついでに、可愛い女の子の代わりがこんなしわくちゃの婆さんで申し訳ないね。
あれから五年経っていました。
けれど、たった五年では足りませんでした。
“お前がいてくれて嬉しい”
それだけのことを上手に伝えることができなかったのです。
もっとも、あと何年あったとしても上手く伝えられたかどうかはわかりません。
エイラには自分がターニャよりもずっと不器用だという自覚がありました。
魔法の花とは別に、魔女が生涯でただ一度、たった一輪だけ咲かせることのできる花があります。
その花の名は“命の花”と言います。
命の花の種はどんな怪我や病気でも治してしまう奇跡の薬です。
もう助からないと見放されるような命でも、地上にとどめることができると言われています。
エイラがターニャの命を救うために使った“魔女の秘薬”とは、命の花の種のことです。
この種を植えつけることで、その人に命の息吹が吹き込まれ、失った手足までもが戻るといいます。
命の花はまた、“終わりの花”とも呼ばれます。
命の花を咲かせるのと同時に、その魔女の命の終わりを知らせる砂時計の砂が、どこかで落ち始めるのです。
砂時計の大きさは、魔女それぞれで違います。
砂が尽きるのは一年後か、十年後か、あるいは、翌日か……。
それを事前に知ることはできません。
砂時計の砂の音を聞いてはじめて、魔女は自分の命の終わりの時を知るのです。
エイラに告げられた終わりの時は五年後。
自分に残された五年という時間に、エイラは喜びました。
それは、思いがけなくもらった嬉しい贈り物でした。
それだけの時間があれば、ターニャを守り、育てることができます。
信頼できる友人に、あの子を託すこともできるでしょう。
あの日のことを思い出すたびに、エイラの胸には苦いものがこみ上げます。
本当のことを言えば、エイラには、ターニャを魔女にすることへのためらいがありました。
あの子が命の種を芽吹かせて魔法の力を解放した時、その力の大きさにエイラは驚いたのです。
⎯⎯ターニャは強い。おそらく、これまでの魔女の中でも一番。
つまり、誰よりも長い時を生きるということです。
それは気が遠くなるほどの孤独です。
ターニャの周りの人たちはどんどん彼女を置いていってしまうでしょう。
あの時のことを、自分のずるさや身勝手さを、エイラは何度も思い返してきました。
エイラにはまだ一人も弟子がいませんでした。
魔女のあとを継ぐ者を絶やすわけにはいきませんでした。
“だから魔女になると言って欲しかった”
でも、ターニャの普通の幸せを願うなら、魔法の力を封じてしまうほうがずっと良かったはずです。
“だから魔女にはならないと言って欲しかった”
あの時、エイラはターニャに何を言ったでしょう。
母との別れを悲しむ何も知らない女の子を追いつめ、魔女への道へと追いやったのはエイラです。
そのうえ今度は、たった五年でその女の子を放り出そうというのです。
⎯⎯まったく、なんて悪い魔女だろうかね。
エイラは苦く笑います。
⎯⎯ああ、疲れたねえ。
エイラは柔らかい雪の上に横になりました。
冷たいものが次々に顔に落ちてきます。
もう夜が明けた時間のはずなのですが……暗くて何も見えません。
暗闇に、いろいろなターニャの顔が浮かんでは消えていきます。
この五年間、エイラにとってはとても幸せな日々でした。
悪い魔女の本当に身勝手な幸せです。
ターニャ。幸せにおなり。
そうじゃないと、悪い魔女が死ぬに死ねずに化けて出ちまうよ。
魔法の薬はたくさん作って薬屋に渡してきました。
都の貴族たちも、今度こそ、馬鹿なことはしないでしょう。
ターニャが一人ぼっちにならないように、時計鳥を残してきました。
エイラの友人がもうすぐここへ来て、あとはなんとかしてくれるはずです。
エイラは、もう二度とターニャの前に姿を現さないつもりです。
⎯⎯『そうして悪い魔女は安らかに眠りました』なんて締まらないじゃないか。
⎯⎯それに、子供の夢を壊すのは罪って物だからね。
友人は盛大に文句を言いそうですが、ターニャという、とっておきのプレゼントを用意したのです。
きっと友人はエイラに感謝するでしょう。
⎯⎯楽しかったねえ。
静かな静かな雪の朝でした。
◆◇◆◇◆
「ホウホウッ、ホウホウッ、ホウホウッ、ホウホウッ…………」
突然、時計鳥が激しく鳴きだしました。
いつもはのんびりと、どこか飄々(ひょうひょう)としている時計鳥が、悲痛な声で泣いています。
ターニャは悪い予感に震えました。
⎯⎯エイラ、エイラはどこにいるの?
ターニャは部屋を飛び出しました。
⎯⎯エイラ、エイラ、エイラ、エイラ!
エイラがいません。寝室にも、食堂にも、調薬室にも、書斎にも⎯⎯どこにも、どこにもエイラの姿がありません。
⎯⎯出かけているの?
外は雪が強くなってきています。
⎯⎯あっ!
玄関のホールに背の高い黒いローブの姿を見つけてほっとしたターニャの顔がこわばりました。
⎯⎯違う。エイラじゃない。
玄関で雪を払い、ターニャのほうに振り返ったのは⎯⎯見知らぬ魔女でした。