・第五話 「初めての」
俺は人が困っている場面に遭遇すると大抵の場合は手を貸してきた。といってもデパートで子供が迷子になっていたらサービスカウンターまで連れて行ってあげたりとかその程度の事だ。
しかし、そんな俺は人助けが大嫌いだ。
人助けが嫌いなくせに人助けはする。
何故このような矛盾が起きてしまうのか。
それには山よりも高く谷よりも深く深ーい訳があるわけではない。
ではその訳を電車の中を例に例えて説明しよう。
まず電車の中で席が全て埋まっていたとする。
そしてその中であなたは席を獲得できた類まれなる幸運の持ち主だったとしよう。
そんな貴方の目の前には腰を曲げたおばあちゃん。
さて、貴方ならこんな状況をどう対処するだろうか。
1、寝たふりをする。
2、席を譲る。
3、何気なく席を立って電車の外へ行き、そして再び2、3両離れた車両へ乗り込む。
俺は間違いなく3番を選ぶだろう。
理由は簡単。
目の前の困っている人を”俺が”見ないふりしなかったという事実が俺の中に残るのと同時にその人から感謝もされないからだ。
我ながらとてつもなく自分本位な考え方だとは思う。
まず後者の理由はおいておいて前者についてだが、俺の中では困っている人を自身が認識してしまった時点で既にその人を助けないという選択肢は無い。何故なら見ないふりをしてしまうと後味が悪いからだ。
これが善良な両親の教育の賜物なのかどうかはおいといて、とにかくこういった場面に出くわして見ないふりをしてしまうと俺は何とも言えない後味の悪さを感じてしまう。だからMじゃない俺はそんな後味の悪さを感じないためにもまず何かしらの行動に出る。
だがここで問題がある。
それは人助けの行動を起こす理由が完全に自分本位である為、それによって人助けをした相手から感謝されてしまうとどうしてもそれを素直に受け取ることができないのだ。これが普通の好青年であれば”いえ、僕が席を譲りたかっただけなので”とか色々爽やかに言ってのけるのだろうが、俺がそれをしようとすると嘘が下手な質もあって”あんたの為じゃなくて俺の為にやったんだ。勘違いすんな”というのが諸々相手に伝わってしまう。
当然そんな事を伝えられた側は嬉しくないどころか”譲られた”という印象が強すぎて逆に嫌な気分になってしまう。そして俺は相手をそんな気分にさせてしまった後味の悪さを感じる羽目に。
これでは偽善をする意味がない。
だから俺はまず第一に人助けをする際は感謝されないことが最重要であり、その結果が”目の前の席に座っていた人が降りたから幸運にも席が空いた”という状況を作り出すという行動に結び付くのだ。
これでお互い気分がいい。
晴てみんなハッピーだ。
まぁそれでも察しのいい人はやはりこういう事にも気づいてしまうのだが、流石にそこまでどうでもいい。結局の所”俺が”後味の悪さを感じなければ他の事などどうでもいいのだ。
だから俺がその事にさえ気づかなければ俺の中では平穏が保たれる。
これが完璧な”偽善”というやつだ。
これ以上の偽善はそうそう無いだろう。
しかしここまで長々と自分の偽善理論を話してはみたが、そもそもそんな場面に出くわさないのが俺の中では最善であり、寧ろ出くわしてしまった時がイコール巻き込まれてしまった時なのだ。
そしてその度に感謝されない方法を一々模索しなければいけない。
だから俺は人助けが大嫌いなのだ。
人助けはするくせに。
そしてそんな俺はと言えば今し方胸糞悪い場面に出くわしてしまったが為に大嫌いな”人助け”をしなければいけなくなり、本当に不本意ではあるがその問題の渦中である勇者一行が陣取る大テーブルまで歩いていき、蹴られる僧侶と暴れる勇者に脇目も振らず通り抜け元々勇者が座っていた席にドカリと足を組んで座りこみ、勇者の飲みかけの酒に口を付けた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
さて、どうしたもんか。
俺は喉の奥を流れる苦い酒ののどごしを味わいながら、一人頭の中で呟いた。
=====第五話 「初めての」=====
辺りはそれまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
下品な奇声を上げていた遊び人、怒りにより我を忘れたように床に伏せる僧侶に蹴りを入れ続けていた屑男、はたまた遠くで女中の不幸に涙を流していた酒場の店主までもその喧騒の中で微かに漏れさせていた啜り泣きをやめて、今この場に突然現れた奇怪な人物の動向に目を見開いていた。
そんな渦中の元凶である俺はといえば、呑気に口を付けた酒の残りを飲み干さんとジョッキを傾けながら明後日の方向を見ながら頭の中で呟いていた。"さて、どうしたもんか"、と。
現状を改めて整理すると酒場の女中に手を出した勇者に等々痺れを切らした僧侶が噛みつき、それにより逆上した勇者によって僧侶は返り討ちとなり床に伏す。
しかしそれでも怒りが収まらない勇者は執拗に倒れた僧侶の横っ腹目掛けて蹴りを入れ続け周りは傍観。
それに見かねた一般客Aである俺はその現場まで速足で駆けつけ、怒り狂う勇者と蹴られる僧侶の横を通り抜けて勇者の元いた席に座り、目の前にあったジョッキに口を付けて周りが固まる。
そして今に至るといった感じだ。
うむ。
途中から完全におかしなことになってるねこれ。
周りは突然の来訪者の奇行に完全に言葉を失っている。
その来訪者は怒り狂う勇者を止めるわけでもなく、また暴力に耐える僧侶を庇う訳でもなく、挙句に恐怖のあまり席を立てなくなっていた女中をどさくさに紛れて助けたわけでもなくとった行動と言えば勇者の席を何食わぬ顔で占領し、そのまま踏ん反り返って酒を飲んでいる。
こんな状況いったい誰が予想できただろうか。
いや、予想なんてできるわけがない。
現にその張本人である俺が一番困惑しているのだから。
てか、ガチでどうしよこれ。
溜まらずそんな弱音が背筋を凍らせた。
そう、俺はこんな奇行を自分でしでかしておいてその後の事を何一つとして考えていなかったのだ。
ただ本能が赴くままに取った行動、それがこれだった。
だがそんな欠陥だらけの本能がたまたま功を奏して何とかこの場にいる全員の意表を突いて注目を浴びる事に成功した俺は、一先ず当初の目的が達成できた事にだけ満足してすぐに冷静になる事にした。
そう、俺はただの基地外になる為だけにここに来たわけではない。俺はこの場を丸く収めるためにここに来たのだ。
その為に今俺が成すべきことは__
「ふー」
俺は空になったジョッキをあまり音が立たないように静かに置く。そしてそのままゆっくりと勇者の方へ向き直る。
当然その意図もわからずに急に真っ向から渦中の変人と向き合う形となった勇者は一瞬その肩をビクリとさせて怯む。
「お、おう。何だてめぇ……」
しかしそれにより俺以外誰一人として動けなかったこの空間の中で唯一自身の身体が動かせる事を知った勇者はその勢いのままチワワのような凄みをしてみせる。
それを鼻で笑ってやりたい衝動に駆られながらも、俺はそれを何とか堪えて満面の笑みをしてみせる。
そして俺はこう呟いた。
「まぁまぁその辺にしときましょうよ、勇者”様”」
俺が今この場で成さなければいけない事。
それは、穏便に勇者の怒りの矛先を”俺に”向けさせることだった。
=======================================
「がはぁッ!」
俺は殴られた勢いのまま壁に激突した。
「てめぇ舐めてんのかゴラァッ!!」
激昂した勇者が吠える。
それにより停止していたかに思えた時間が動き出す。
「ふざけやがってこの野郎ッ!!」
「な、なにこいつ気持ち悪……ッ」
「い、いや……」
壁にもたれ掛る俺に対して、皆が皆思い思いの感想を述べ始める。
男は自身の酒に勝手に手を出された事と自身の存在を完全に無視された事への怒りを露わにし、遊び人はその突然現れた不気味な男に対しての生理的嫌悪感を口にする。
そして面白い事に遊び人と同じ感想を抱きながらも眉間に皺を寄せるだけの魔法使いはまあおいておいて助けられる側の一人である女中さんまでもがその自身の状況も忘れて俺という直近の異物に対しての嫌悪感を露わにしていた。まあそれも席が遊び人と勇者に挟まれる形で座らされていただけあって、勇者と入れ替わった形で俺が登場したことによりこの場の誰よりも近くで俺と接触する羽目になったのだ。
仕方ないっちゃ仕方ない。
そう思えば、どれもこれも至極真っ当な反応だと言えよう。
そんな不快感をまき散らすだけまき散らした俺はといえば激突した壁に背を預けながら座り込み、自身の鼻から垂れてくる血の味を味わいながら十数年来の人から殴られた感触を確かめていた。
痛いっちゃ痛いが、別に我慢できない程じゃないな。
鼻を殴られた事により自身の意思と関係なく溢れてくる涙を恨めしく思いながらも、自身の感覚で知り得た情報に一先ず安堵する。
もしこれで俺がこの痛みに対して心が折れてしまっていたのなら、きっとこれからとてつもなく惨めな思いをする事になっていた。
だが、それはどうやら杞憂で済んでくれそうだ。
後はこのまま気絶するまでやせ我慢が続くかどうかが問題なのだが……
「オラ立てやゴラァァッ!!」
「っぐ……ッ!」
そんな物静かな脳内とは裏腹に、目標の人物は座り込む俺の襟元を掴みあげて再び振りかぶる。
そしてもう一発、今度は薙ぎ払うような強烈な拳が俺の左頬に突き刺さった。
「ぐあッ!」
今度は床に思い切り倒れ込む。
その勢いで飛び出た血が床に線を描き出す。
「オラッ! どうしたァ! 立てやゴラ!」
男は尚も怒鳴り散らす。
しかし今度はまた直ぐに追撃してくるような素振を見せず、それによって束の間の休息タイムが訪れた。
だがそんな偶然による恩恵を有難く思う前に俺は左頬の異変に気付いてしまう。
くそっ、やっぱ痛てぇなチクショウ。
左頬の内側が盛大に切れた。
それにより口の中に広がる鉄の味。
普通に生活していれば絶対味わえないであろう感覚。
そんな不慣れな感覚に早くも尻すぼみしてしまっている自分。
これは先が思いやられる。
俺が今から成そうとしている事。
それはこの目の前の男のフラストレーションを発散させつつ、如何にこいつの意識の中から僧侶と女中さんの存在を消すかといった事だった。
その為の方法としてまず第一に俺はこの男に無抵抗に殴られ続けなければいけない。そうする事によってこいつが抱える鬱憤を発散させてやる。そうすれば今日一日くらいならこいつはその満足感で他への興味を持たずにそのままお寝ん寝してくれるんじゃないかと思った。
だがこれはあくまで希望的観測に過ぎない。
それではこいつの未知数の性欲と執念深さへの対抗策としては不十分だ。
ではどうするか。
俺はその為の対策としてそもそもの前提条件である女中さんに手を出そうとしていた事、および僧侶が自身に歯向かってきた事実そのものを忘れさせてやろうと思った。
その為にも俺はただこいつに殴られてやるだけではいけない。あくまでもこいつの意識が他を向かない程度には俺はこいつの恨みを買ってやらなければいけない。それこそこいつが後々”あの野郎の事思い出しただけでムカついてきやがった”と思ってくれなければいけない。
だが、それさえ叶えば当分は憎悪の対象が俺に限られる筈だ。
晴てみんなハッピーだ。
誰かさんが空気読まずに噛みつきさえしなければの話だが。
まぁそれも結局の所この作戦の成功のカギを握るのは俺の忍耐強さによるところが大半を占める為、たかが口の中が切れただけで冷や汗をかいているようじゃ話にならない。
しかし、もう既に俺は片足を突っ込んでいるのだ。
今更糞尿垂れ流しながら号泣して許しを乞うのも悪くないがその結果女中さんに手は出されました、僧侶も後々ひどい目に遭わされましたじゃ格好がつかない。
第一俺自身が俺のしでかした行為に対して後悔する羽目になる。
そんなオチは御免だ。
そしてそれが嫌なら意地を通し続けるしかない。
俺はその事を改めて心の中で再確認し、怒鳴るだけの勇者に向き合うように床に膝を立てて座り直す。
そして目の前の男の鼻につくように少し大袈裟に右手の親指で鼻の下の血を拭って見せた。
「こ、こいつ舐めやがって……ッ!!」
「待ってくれ勇者様ッ!」
だがそんな俺の中での再決起を無視するかのようにある人物が俺と男の間に割って入ってきた。
「……えっ」
「な、なんだてめぇはッ! 引っ込んでろクソジジイッ!」
おっちゃん、何してんの?
俺と男の間に割って入ってきた人物。
それは先程までは周りと同じように離れたカウンターで俺の奇行に白目を向いていたおやじさんだった。
突然の事に一瞬頭が回らなくなる。
「す、すみません勇者様! こいつが勇者様に対して大変舐めた真似しちまってッ!」
「え、あがぁッ!?」
おやじさんは急いで俺の隣まで来るとそのまま間髪入れずに俺の頭を掴んで床に叩きつけた。
頭の中に小気味良い衝突音が響き渡る。
そしてそれと同時におやじさんは俺の頭を押さえつけながら一緒になって頭を下げ始める。
そこでやっとおやじさんの意図を読み取る。
「っちょ、おやじさんッ!? 何__ッ!」
「黙ってろクソガキッ!」
「あだだだだ痛い痛い痛いッ!」
「すみませんでしたッ! ホントにすみませんでしたッ!」
おやじさんは俺が何か言う前に力でそれを押さえ込み、そのまま全力の謝罪を目の前の男に向かって発し始める。
その様子は宛ら子供が他人に迷惑をかけた時の一緒に謝る保護者のような。
その事に俺はとてつもない恥ずかしさを覚えるのと同時に何とも言えない苦々しさを噛みしめた。
くそッ!
余計な事しやがってッ!
これじゃあ全部めちゃくちゃじゃねぇかッ!
俺は心の中でその憤りを吐き出した。
多分おやじさんは俺の事を見ていられなくて助けに来てくれたつもりなのだろう。
だがその優しさは俺にとっては最悪手だった。
まず俺がおやじさんに助けられてしまうとその時点で俺はこれ以上この目の前の男に対して噛みつき続けることができなくなってしまう。何故なら俺の行いの全てがおやじさんまで巻き込んでしまうからだ。
まだ他人の振りをしていてくれればその代償は俺一人が背負えば済む。だがこうしておやじさんに保護者面までされてしまうと俺の評価とおやじさんの評価がほぼイコールで結ばれてしまう為おやじさんの今後を俺が無視する以外には自分勝手な意地を張り続けることができなくなってしまう。
そして俺はこんな世界で初めて拾ってくれた恩人であるおやじさんに少しは恩を感じている分、その人生を無茶苦茶にしてまで自分の意地を通し続けようとも思えない。
つまりはこれで詰みだ。
意地の張れなくなった俺は今後一切この屑男には噛みつけないし、おまけにこの場にいる全員から基地外認定までされたのにその目的であった僧侶と女中さんを助ける事もできず……
別に後者については感謝されない前提で動いていた分いくらでも基地外だと言ってもらえればよかったのだが、それならせめて俺の気の済むまでやらせて欲しかった。
こんな出会ってまだ間もない俺を庇ってくれたおやじさんの優しさには素直に感動や嬉しさを覚える反面、失ったものの代償が余りにも大きすぎたために俺はただ黙る事でしかおやじさんの優しさに報いることができなかった。
「謝って済むかボケがッ!!」
だがそんな俺とは無関係に目の前の男の怒りは収まる気配が見えなかった。
まあ無理もない。
あれだけ俺がコケにした態度をとっていたのだ。
そう易々と納まりがつくわけがない。
だがこれ以上俺が口を挟んでいい風に転ぶとも思えない。
俺はこれ以上場を乱さないためにも成り行きに任せて後は見守る事にした。
「すみませんッ! すみませんッ!」
だがおやじさんもただ謝ること以外にこの場を切り抜ける方法が見当たらないらしい。
これではいつまた逆上した男が暴れだすかもわからない。
そこでふと思う。
そういえばこいつがおやじさんに手を出した時、俺はどうしよう。
俺の頭の中にそんなありえそうな光景が一瞬過る。
それにより俺は床に頭を擦り付けられながらも男の動向に意識を集中させていた。
「……ふんッ」
しかし頭を下げ続ける俺達二人を見下ろす男から一拍置いて予想外の反応が返ってくる。
どうやら急には殴りかかってきそうには無いようだ。
だがその急な態度の変わりように俺は嫌な予感がした。
そしてそれは当たる事となる。
「おい屑」
屑からのご指名がかかる。
それにより俺は頭を上げた。
すると直ぐに視界のほぼ全てが何かによって遮られた。
それを確認した俺は理解した。
「な、何を__」
「舐めろ」
あぁ、成程。
俺の眼前に差し出されたもの。
それは男が履く土で汚れたブーツだった。
男は器用に片足だけをこちらへ差出し、両腕は胸の前で組まれていた。
そしてその表情の何ともまぁ含みのある笑みな事か。
反吐が出る。
その様子からも男は俺にできうる限りの屈辱を与えたいようだ。
だが如何せん。
こいつのやりたい事が予測できてしまっている分、こちらにおやじさん程の初々しい驚きはない。
寧ろ問題はこの次だ。
多分こいつはやってくる。
そんな根拠のない確信が俺の中にあった。
同族嫌悪とは良く言ったものだ。
俺は男の行為の裏にあるものを直感で感じ取ってしまった事に嫌気がさしながらも、その出されるブーツに手を添える。
「お、おいッ!」
「まぁまぁおやじさん……見てなって」
おやじさんは何の躊躇いもなくブーツに手を添えた俺に対して”お前本当にやるのか?”といったニュアンスで声を掛けてくる。
その様子からもやはりこの先に何が起こりそうなのかはわかっていないようだ。
だがそれが好ましかった。
寧ろおやじさんみたいないい人はこんな事予測できちゃいけない。
出会ったばかりの人間に対してここまで偏見の眼差しを向けている俺がいけないのだ。
おやじさんはおやじさんのままでいい。
俺はブーツに顔を近づける前にもう一度男の表情を伺う。
「なんだ? 俺様の靴が舐められねぇってのか?」
男と目が合う。
相変わらずな不敵な笑みを浮かべているようだったが、どうやら俺が見上げた意図までは気づいていないようだった。
それが演技なのか。
はたまた素なのか。
できるなら素であってほしいかった。
じゃなきゃ俺とお前は本当に似た者同士になっちまう。
だが言うに事かいて靴が舐められねぇかだって?
馬鹿言え。
今更靴の一つや二つに何を躊躇うって言うんだ。
演技が臭過ぎんだよ。
俺は一つため息をついてブーツに顔を近づけた。
せっかくだ。
期待を裏切ってくれるなよ?
俺は歪な期待を抱きながら自身の舌を靴底へと伸ばした。
「__うらぁッ!」
そして俺の顔面は蹴り上げられた。
「あがッ!」
「あッ、坊主ッ!」
俺は蹴られた反動で後ろに仰け反りながら涙越しの視界に空中に飛んでいく小さな影を捉えた。
そしてそれが何なのかを確認することもできずに俺は勢いのままに後頭部から床に倒れ込んだ。
「がははははッ! 馬ッ鹿じゃねぇのッ!? まんまと引っかかりやがってクソがッ! だいたい俺様が靴舐めさせた程度でてめぇを許すとでも思ってんのかッ! えぇ!」
男は自身の目論見が成功した事にはしゃいでいた。
だがそんな男を他所に俺は自身が今し方失ったであろう前歯の感触を確かめながら自分の予想が当たってしまった事に少しの安堵を覚えていた。
それが当たろうが外れようが俺にとってはマイナスでしか無いのにだ。
俺は自分の歪さにこれ以上理由を求めるのも馬鹿らしいんじゃないかと心の中で思い始めた。
「ゆ、勇者様ッ! こりゃ、いくらなんでもあんまりですぜッ!」
「黙ってろクソハゲッ!」
そんな達観した俺を差し置いて今度はおやじさんが男に対して噛みつき始めた。それによって男の意識が再びおやじさんへと向けられる。
その事に俺は腹の底で沈みかけていたイライラがまた沸々と競り上がってくる感覚を覚えた。
ホントにこのクソジジイはなんでこう余計な事ばっかしやがんだ。
クソが。
放っておきゃいいだろうが馬鹿が。
折角偶然にも男の怒りが再び俺に向けられたっていうのに、またその振り出しに戻った状況をおやじさんの好意によって邪魔される。
しかしその行為は純粋な俺への好意から来ている手前、頭ごなしに否定もできない。
だから質が悪い。
俺はおやじさんの純粋なまでの優しさに段々と自身の限界が近づいている事に焦りを覚えた。
そんな時だった。
「邪魔だっつってんだろうがッ!」
「うぐッ!」
男の拳が等々おやじさんの眉間を捉えた。
そしてそれを見た瞬間、俺の全身から一気に力が抜け落ちた。
その感覚から自身の体が重力から解放されたかのような錯覚を覚える。
そして俺はこう思った。
今コイツ、おやじさんに何した?
それがそれまで俺が溜め込んでいた鬱憤のはけ口が見つけられた事への歓喜から来るものなのか、はたまた純粋に俺の意図を悉く挫いてきたおやじさんに対してざまぁみろと思ったからなのか。
俺の口元は体中の筋肉が例外無く緩んでいる中で唯一その筋肉を緊張させて歪に吊り上がっていた。
そしてその事に気づいた俺は咄嗟に頭を左右に振って冷静さを取り戻す。
いかんいかん。
別にこいつだって”死ななきゃいけない”程悪い事したわけじゃ無いし、わざわざ俺が無理してこいつの人生を背負うことも無い。
それにここで俺がでしゃばったっておやじさんが喜ぶわけでもない。
第一俺にできるわけがない。
できもしない妄想をするのはやめろ。
恥ずかしい。
俺は冷え切った頭の中で自身の好きな歌を流し始めた。
それによって俺の脳内はその曲の歌詞とメロディーだけで埋め尽くされる。
「勇者さんッ!」
だがそんな俺だけの世界にとてつもなく不快な音が飛び込んでくる。
それにより反射で俺はその音を発した犯人を目で追ってしまった。
「あぁッ!? てめぇまで邪魔すんのかクソ女ァッ!!」
「もうやめてください勇者さんッ!」
視界に入れてしまったもの。
それは顔面を殴られてたたらを踏むおやじさんと男の間に割って入ってきた僧侶の姿だった。
先程まで蹴られていた腹がまだ痛むのか、若干体を屈めながらも健気にその両腕を横一杯に広げておやじさんを庇う。その様子に俺は口先まで吐き出しかけた怒りを茶化す為に舌を”前歯に押し当てながら”笑みを浮かべて誤魔化した。
そんな俺を他所に場の修羅場は加速度的にその状況を悪化させていく。
「てめぇ……まだ殴られたりねぇようだな……ッ!」
「もうこれ以上皆さんを傷つけるのはやめてください勇者さんっ!」
「うるせぇッ!!」
「あっ!」
そうして僧侶が勇者に打たれて飛ばされる。
幸いにも俺達男共とは違って拳で殴られることはなかったが、それでも見た感じ軽そうな僧侶の華奢な体は男の振り抜かれた平手によって盛大に床に倒れ込む事になる。
それを見た俺は一瞬頭の中が真っ白になるも、床に伏す僧侶が自身の打たれた右頬を両の掌で抑えながら涙を浮かべているのを見た瞬間頭の中が真っ黒になる錯覚を覚えた。
そしてそんな真っ暗闇の世界の中で、等々俺の中の何かがプツンと途切れた。
__あぁ、こいつ、死んでもいいや。
俺は腰の後ろに巻き付けてあった"神様からの贈り物"を確かめた。
================================================
「じょ、嬢ちゃん大丈夫かッ!?」
倒れた私に身体の大きな村人さんが心配そうに声を掛けてくる。
それにより私はこの人にこれ以上の心配をかけない為にも何とか震える体を押し殺して向き直る。
「だ、大丈夫ですよ」
そうして精一杯の笑みを浮かべて無事を伝えた。
しかし村人さんの表情は晴れてくれない。
その事に私はどうしよもない情けなさを感じてしまう。
……ごめんなさい。
私達は本来この人達を守る為に立ち上がったはずだった。
それがどうしてこんな事になってしまったのか。
私は自分達が守る筈だった人達にこんな表情をさせてしまった事。それと同時に自分の仲間である勇者さんの横暴を止められない自身の無力さにただ謝る事しかできなかった。
その事を考えた瞬間私の視界は涙で歪んでしまい、そんな顔を隣の心配してくれる村人さんに見せるわけにもいかずに顔を背けてしまった。
本当に、私は無力だ。
これまでにも何度も思った事。
しかし、今日この日よりその事が悔しくて堪らない日は無かった。
私は自身を心配してくれる村人さんに見られないように自身の唇を思い切り噛みしめた。
「てめぇら舐めてんのかゴラァッ!」
そんな私達を他所に勇者さんが再び怒りに任せて声を荒げ始める。その声を聞いた瞬間、私の体は再びびくりと跳ね上がった。
その振動で私の瞼の中だけに留めていたものが等々溢れだしてしまい、自身の頬を伝って床へと落ちてしまった。
そして一度溢れてしまえばもう我慢はできない。
私は恐怖によって震える体を抑える事もできずに恐る恐る怒鳴る勇者さんの方へと向き直った。
「俺様は勇者だぞッ! この世界を救う勇者だァッ!」
勇者さんは思い切り腕を上下に振り回しながら怒鳴る。
その腕が振り下ろされる度に私の心は我慢していた恐怖によって染め上げられていく。
もう逆らえない。
怖い。
これ以上打たれたくない。
そして等々私の心は折れてしまった。
私はまだ痛む頬を抑えながら、隣に膝を落とす村人さんの胸に飛び込んでしまった。
「あ……ッ」
「ごめんなさい……っ!ごめんなさい……っ!」
私はもう何に対して謝っているのかもわからないまま譫言の様にその言葉を繰り返していた。
そんな私の震える肩を包むように村人さんのゴツゴツとした大きな手が乗せられた。
武骨ながらも優しい手。
どうやらこの村人さんは情けなく縋りついた私を拒む事もせずに受け入れてくれたようだ。
その事に私は自分勝手にも救われた気がしてしまい、安堵してしまった。
だがそれが自身の錯覚だった事に気付くのにはそんなに時間はかからなかった。
「舐めやがってクソがッ!」
「ひ……っ!」
捲し立てられる怒鳴り声に思わず情けない声が漏れてしまう。
そうして抱きかかえてくれている村人さんの太い腕の隙間から勇者さんの方へと視線を向ける。
「てめぇらが魔物ごときにびびっちまってるからこの俺様が直々にてめぇらを助けてやろうってのに、何だんだよてめぇらはッ! クソがッ!」
勇者さんはこれでもかと言わんばかりに天井に向けて怒声を放った。
そしてその声は酒場中に響き渡った。
「俺が悪者かよッ!? ふざけんなッ! 俺様が命張って助けてやろうってんだから黙って俺の言う事聞けよッ!」
周りの目は既に勇者さん一人に集中していた。
そしてその中で勇者さんは尚も自分勝手な事を叫び続ける。
しかし私にはそんな勇者さんが叫ぶ内容など何一つとして頭には入ってこない。
ただただその怒声に、巻舌に、そしてその迫力に震え続ける事しかできなかった。
そんな時だった。
「……ねぇ、何あいつ」
怒鳴り続ける勇者さんを他所に、テーブルでお酒を飲んでいた遊び人さんが小さな声で呟いた。
それにより勇者さん以外の誰しもがその言葉が醸し出す雰囲気の場違いさに遊び人さんの方を見る。
すると目に映ったのは怒鳴り続ける勇者さんの方向へ唖然とした表情を向け続けている遊び人さんの横顔が映った。その様子からも先程遊び人さんが呟いた言葉と同じような雰囲気が伝わってくる。
しかしその様子に私は微かな違和感を覚える。
遊び人さんには申し訳ないが、今更こんな状況でそんな驚いた顔をされても意味が分からない。
そうして私達はその言葉の出所を自分達で確かめるべく遊び人さんの視線の先、勇者さんの方へと再び目を向けた。
するとその言葉の意味が私にもわかった。
__何を……しているの?
私はその光景に言葉が出なかった。
その私が見たもの。
それは怒鳴り散らす勇者さんの背後で音もなく立ち続けているおかしい方の村人さんの姿だった。
しかしその様子は異質でしっかりと見続けていなければ掠れてしまいそうな程生気が感じられず、またその勇者さんの背後に立つ村人さんは何かするわけでもなく、また揺れているわけでも無く、ただただそこに立ってじっと勇者さんの方にその眠そうな目を向けている。
その様子からは人の温度が全く感じられない。
寧ろこの場でその一か所だけが冷え切ってしまっているような。
叫び続ける勇者さんとは対照的な程に静かなそこは、勇者さんを挟んでこちらとはまるっきり違う世界のような錯覚に囚われる。
それを見た私は__
「……ひッ!」
先程から逃げずにテーブルの席でじっとしていた村娘さんから私の感じた”恐怖”を代弁するかのような小さい悲鳴が上がる。
それにより止まっているかに思えた時が動き出す。
「はッ! そうさッ! 俺は勇者だッ!」
何を勘違いしたのか、小さな悲鳴を上げた村娘さんの声を聞いた勇者さんが得意げにそう叫んだ。
「てめぇらは俺の言う事黙って聞いてりゃいいんだッ!」
勇者さんは気を良くしたように声高らかに私達に向けて叫び続ける。
しかしこの場でその勇者さんの言葉を聞いている人はいない。
ただただ私達はその後ろの”蠢き始めた”人物の行動に釘付けになっていた。
「俺は勇者だッ!」
後ろの人物が勇者さんに手が届くかという距離まで近づく。
「俺様は英雄だッ!」
そしてその手に持った"鈍器"を振り上げる。
「俺様は世界を救う大英雄様だッ!!」
そしてそれは振り下ろされた。
=================================================
「……えっ?」
勇者さんがそれまでの激しい口調をやめ、まるで子供のような純粋な声で疑問の言葉を口にする。
そして徐に自身が今し方受けた攻撃箇所にゆっくりとその両手を持っていき、そして触れる。
その間、勇者さんも含めて誰一人として声を上げるものはいない。
いや、上げられない。
今この場にいる誰もがただ、その勇者さんの次の反応を息を殺して待っていた。
その勇者さんは顔を真っ青にさせたまま、後頭部に回した両の掌を今度は自身の前へと持っていく。
そして恐る恐るその掌に視線を落とした。
するとその指先にはべったりと赤い血が付着していた。
誰しもが予想はしながらも、信じきれないその光景。
だが、見てしまえば信じざるを得ない。
勇者さんが傷を負ったことを。
勇者さんが殺されかけたことを。
確かに勇者さんの指先には、勇者さんの流した血が付着していた。
だがそれを見て尚勇者さんは声を上げない。
しかしその血の気の引いた表情を凍らせたまま、ゆっくりと後ろへと振り返る。
するとその先には先程勇者さんの後頭部に叩きつけた血の付いたハンマーを手に握りながら、何故か首をかしげて唖然としている”何か”がそこに立っている。
それを見た勇者さんは__
「……えっ?」
同じ言葉を呟いた。
===============================================
「……えっ?」
おいおい、勘弁してくれよ。
俺は目の前の男の本当の意味での体を張った渾身のギャグに思わず乾いた笑いが漏れそうになるのを抑えた。
しかしまずい事になった。
まさか一発で”死んでくれない”とは思ってもみなかった。
冷静に考えれば俺は人との殺し合いの方法なんて全く知らない。
それもその筈、現世日本で平和に生きていた俺がそんな方法を知り得る状況なんてまずあるわけがない。
ゲーム三昧、バンド三昧、仕事三昧の三点セットで平和ボケした俺は生物で言うところの蚊くらいしか意図的に殺す機会に恵まれなかったのだから当たり前だ。
しかし、そうなってくるとこのサバイバル世界で勇者を自称する程の事だ。それなりにそういった経験には恵まれているだろう。
そんな人間に対して真面な殺し合いなんて真っ平ごめんだ。
俺は冷静に次にどうやってこの目の前の唖然とする男の顔面に確実に、そして一発で金槌を打ち込むかを考えていた。
「……っち」
だが、思わず打ち漏らしてしまったことに舌打ちが漏れてしまった。
それによって目の前の男の目が泳ぎ始めたのを見てこれ以上の猶予は残されていない事を察した俺は考えることをやめた。
「あー違う違う」
「……は?」
俺は適当な言葉で取り繕う。
できるだけ気の抜けたように、できるだけ現実感を感じさせないように。
「あんさー、これってさー、金槌って言うんだけどさー」
俺は男に新品のおもちゃを見せびらかすように気の抜けた声で説明し始める。その金槌を握る手をお互いが手を伸ばせば胸倉を掴むことが余裕なくらいの距離しかない俺と男の真ん中あたりに持って行って。それによって俺は男に害意の無い事をアピールする。
しかし、それによって男は固まる。
それもその筈だ。
何たって今し方金槌で殴りかかってきた人間からこんな意味不明な事をされているのだ。
多分思考の整理が追い付いていないのだろう。
上々だ。
そしてそんな男の様子に満足した俺は続ける。
「そんでさ。これをこうやって上に振りかぶってー……」
「……お前、何言って__」
こう振り下ろすと”人は死ぬ”。
俺は男の顔面に向かって思いっきり金槌を振り下ろした。
=================================================
「きゃーッ!!」
夜の酒場に女性の悲鳴が響き渡った。
当然同じ建物の同じ現場に居合わせた私達はその恐怖によって発せられた声を真っ先に耳にする。
彼女は先程、酔った勇者さんに手を出されそうになった時にも同じように悲鳴を上げていた。
しかし、その時の悲鳴とはまるで違う。
あの時の彼女も、まさか自身が勇者さんに絡まれたことがきっかけでこのような大事件が起こるとは想像もしていなかったのだろう。
無論、それはこの場にいる私達にも言えたことだ。
「あ、あぁ……」
突然の事に言葉が出ない。
仮に出たとしても、言葉が浮かばない。
目の前には数分前まで自身は世界を救う男なのだと大声で怒鳴り散らしていた勇者さんが横たわっている。
彼もまた、まさか国公認の勇者である自身がこのような事になるとは思ってもみなかっただろう。
彼の、その人間としては珍しいエルフのような金色の髪は今は彼自身が頭部から流した床のどす黒い血液によって染め続けられている。
私達は皆口には出さなかったがこの勇者さんの横暴を止めることなど、ましてやその勇者さんの素行に異議を唱える人間が現れるわけがないと本気で諦めていた。
ましてや、その勇者さんに手をあげる人間など…。
それがどうしてこうなった。
「あー……」
そうしてこの大事件を引き起こした張本人はその自身のしでかした事の重大さを知ってか知らずか、気だるげな声を上げてこう呟いた。
「……人殺しって、こんなもんか」
そこには確かに、一人の”狂人”が立っていた。
その手には小さな金槌が握られていた。
~Next~