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――コン、コン、コン。
扉を叩く音。
その軽やかでよく通る音に目が覚めた。
暫くぱちぱちと重たい瞼を瞬かせていると、再びノック。
「末田様。間もなくパーティーが始まりますので、御仕度ください」
ハスキーで落ち着いた低音。
自頭だ。
すっかり眠ってしまったようで、喉がカラカラだった。
もう吐き気も、胃のむかつきも何処へやら。今は気分を直した腹の虫たちが、大騒ぎしながら餌を求めている。
時計を見ると午後六時少し前。
十月も終盤に差し掛かるという頃なので、この時間なら普段はすっかり陽が暮れて、電気も点いていない部屋の中は、真っ暗のはずだった。しかし、室内は未だに明るさを保っている。かといって、天井の蛍光灯が光を宿しているわけではない。
妙だと思いながら、辺りを見回していると、窓外から白色光が差し込んでいるのがわかった。その明るさで、部屋の中が照らされているのだ。まるでB級SF映画の、UFOの接近シーンのように眩い光。
おかしいな。陽はとうに沈んだはずでは……。
夕陽にしても、見る人間に儚さを感じさせるような赤みがかった橙色を帯びていないのは変だ。
首を捻りながらも、その外光に吸い込まれるように窓に近付く。
しかしそこへ、急かすようにノックと自頭の呼び声が聞こえた。はっとして慌てた俺は踵を返し、扉に駆け寄り開けた。
すると、扉の前に立っていた自頭がほっと胸を撫で下ろした。
「末田様、こちらにいらっしゃいましたか。お電話をお掛けしたのですが、お出になられなかったものですから」
電話など、全く気付かなかった。それだけ熟睡していたというわけだ。
「すみません、すっかり寝入ってしまって。今すぐ着替えますから」
ばつが悪くなり、そう釈明して、扉を閉めようとしたが、自頭に制された。
「いえ、どうぞお構いなく。そのままの格好で問題ありませんよ。格式張ったパーティーではございませんので、ドレスコードが決まっているわけではありませんから。皆様、普段着のままでいらっしゃいます」
「そうなんですか。じゃあそうさせてもらいます」
「ただ――」
自頭が苦笑を浮かべながら、俺の頭を見遣った。
「髪は整えられた方がよろしいかと思いますが」
はっとして一目散に洗面所の鏡の前に向かったのだが、そこで俺はああと溜息を吐きながら眉間を押さえた。
実験に失敗した博士の如く、爆発した頭が鏡の中に映り込んでいたのである。今更ながら恥ずかしくなった俺は、急いで形状記憶合金よろしく、力を加えてもすぐに戻ってしまう髪を水につけて押さえつけた。
水の力は絶大で、どうにか反乱は収まった。少々湿っぽいままだが、まあ仕方があるまい。
あまり自頭を待たせるのも悪いので外に出たが、彼はもう他の客を呼びに行かずに、ラウンジに踵を返そうとしていた。
「他の人たちは呼ばなくてもいいんですか?」
「もう皆様、既にラウンジにお集まりでございます」
つまり、俺一人が呑気にずっと寝ていたわけである。
そもそも正式に呼ばれたわけでもないというのに、時間も守らずにぐうすかと眠り呆けていた自分の図々しさに嫌気がさし、さらに頬が熱くなった。
ラウンジに近寄ると、音楽が流れてきているのに気づいた。
弦楽器の音色が重なり合い、美しいハーモニーを奏でている。しかし俺はクラシックには暗いので、弦楽器と言ったらヴァイオリンしか知らない。地響きのような迫力ある低音が、何の楽器かまではわからなかった。
クラリネット……は笛か。じゃあ、ティンパニ? あ、それは太鼓だよな。ええっと、チェロかな? それともコントラバスだっけ。
名前は聞いたことあるんだけどなあ。
などと考えを巡らせながらラウンジに足を踏み入れると、そこはすっかりパーティー会場と化していた。
白のテーブルクロスが敷かれた丸テーブルがいくつも設置され、その上には東西南北様々な種類の色とりどりの料理が並べられている。
肉はステーキにローストビーフに北京ダック。魚介はカルパッチョに塩釜焼き。パスタやピザ、パエリアに炒飯といった主食も幅広い。
それらに目を奪われていると、
「やあやあ、大将のお出ましだ」
室内だろうとお構いなしに、未だにハンチング帽とサングラスをつけたままの夜熊が、右手に持っていたグラスを俺の方に向け、わざとらしく大声を出してからかってくる。
おかげで視線が俺に集中したものだから、余計に居た堪れなくなって、縮こまるばかりであった。
「夜熊さんも意地悪だなあ。そっとしてあげればいいのに」
と、すっかり仲良くなった様子で、隣に立っていた轟が窘める。
「これはこれは失敬。歳を取るとどうも気が利かなくなるものでね」
「いえいえ、いいんですよ。こいつは暇さえあれば読書か睡眠しかしない人間なものですからね。こう言う経験で少しは懲りてもらわないと。まったく、こっちが恥ずかしくなるよ」
腰に手を当てた英介が、俺に向かって軽蔑の眼差しを向けた。またかと言いたげな視線に、うんざりしたような表情。
言い返したい気持ちはあったが、正直反論の余地はなく、一から十までその通りだったので、何も言えずにただしょげるだけだった。
「ところで、自頭さん、僕が察するに、このお館は元々ホテルか何かだったんじゃないですか?」
唐突にそう言いだしたのは、猫背の挟丘だ。パーティーであろうと、老婆のように背中を丸めて、無精髭もそのまま。バスの中では、自分を三十代だと言っていたが、その格好のせいでもっと老けて見える。
彼の癖なのか、顎をさすりながら、興味深そうにしげしげとラウンジを眺め回している。
自頭はさして驚きを見せる様子もなく、はいと頷いた。
「左様でございます。こちらに建てられていたホテルを安く買い取って、改装したと旦那様から聞いております」
「う~ん、やっぱりね」
顎から手を離さずに、得意気に悦に入っている挟丘。
「どうしてわかったの?」
湯木が首を傾げている。
その彼女の様子を、雉音はまたしてもちらちらと下卑た視線で盗み見ていた。挟丘の館についての考察は聞く気もないようで、遠くの方で一人酒を飲んでいる。
挟丘は湯木に振り返って、人差し指を立てた。
「簡単なことですよ。個人の別荘なのに、客室のすべてに番号が振られているなんて、滅多にないことです」
「でも、それだけで? 別に部屋番号があっても、そんなに不思議じゃないと思うけど」
挟丘はその言葉を受けて、壁に飾られた、この館の見取り図を指し示した。
「いやいや、勿論それだけではありませんよ。これを見てください。客室数が異様に多い気がしませんか。それから、一番不自然なのは三階にある図書室です。いくらなんでも図書室にまで部屋番号を割り振る必要なんてありません。おそらく、元々客室だったのを改装したんじゃないかと。こうしたことを踏まえて、ホテルだったんじゃないかと思った次第ですよ」
畳みかけるように言葉の洪水を浴びせる挟丘。息継ぎもせずに一気に捲し立てているが、滑舌は良いので聞き取りやすい。
それに、身なりは酷いものの、なかなか鋭い観察眼をお持ちのようだ。
挟丘はさらに奥のバーカウンターを指差して続けた。
「あとはあのカウンター。後ろにある格子状の装飾は、今はただの飾りになってますが、元々客室の鍵を入れておくための棚だったんでしょう。位置的に、元はフロントデスクだったんじゃないかなあ」
――パチ、パチ、パチ。
拍手の音が俄かに聞こえてきた。
轟である。
「いやあ、お見それいたしましたよ。まるで探偵だ。蒲生鏡介みたいだなあ」
と調子良く世辞を捲し立てる。他の何人かも、拍手をしつつ彼を煽てている。
「それほどでもありませんよ。このくらいは、よく見ればわかるものです」
謙遜故の照れ笑いなのか、あるいは気付かなかった人間を嘲笑しているのか。挟丘は満更でもなさそうに口元を綻ばせた。
「おいおい、どうやら探偵のお株は、あの人に取られちまったみたいだなあ」
隣の英介が肘で小突いて、にやにやしながら俺をからかう。
俺はまるで気にもしていないと言わんばかりに、そっぽを向いて無視を決め込んだ。
そのくらいは俺も気付いていた。と今更言ったところで、もはや単なる負け惜しみにしか聞こえない。
「それにしても、黒峰先生はどうしたんですか? もう六時は十五分ほど過ぎていますけど」
挟丘の推理には興味もないようで、彼らの様子を遠巻きに見ていた西之葉が、ラウンジの時計を一瞥して自頭に尋ねた。
何か苛立っているようで、口調に棘がある。
それに対しても、優しい微笑を浮かべながら、自頭は答えた。
「もう間もなくいらっしゃる頃合いだと思います」
その言葉通り、タイミングよく右側のエレベーターの扉が開いて、中から黒峰と三人の女性が姿を現した。
うち二人は結と晶だ。黒峰たちは主催者ということもあって、スーツにドレスと正装で決めている。
その後ろから、エプロン姿の見たことのない若い女性がラウンジに入ってきた。
ボーイッシュなショートカットの髪型で、子犬のような澄んだ瞳。人懐っこそうな、優しげな顔付きをしているが、フリルが付いたエプロンをしていなければ、男と見間違えても不思議ではないような、中性的な顔立ちである。
「英介、あの人は?」
視線を彼女らに向けたまま小声に訊いてみると、英介もそれに呼応するように、声を潜ませた。
「ああ、ほら、玄関で自頭さんが言ってただろう。使用人の片郷ゆかりさんだよ。さっきお前が来る前に、みんなの前で自己紹介してた」
「ふうん」
何が起こるのかと、招待客が興味深そうに黒峰を見つめている。先程までの喧騒は何処へやら。彼の登場に、すっかり場は静まり返った。
その中で、もっともらしく一つ咳払いをして、黒峰が声を張った。
「この度は、皆さん、私の主催するパーティーにお越しいただき、誠にありがとうございます。山奥な故、おもてなしには限界があるでしょうが、どうか皆さん楽しんで行ってください」
彼の乾杯の音頭により、パーティーは静かに幕を開けたのだった。