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「それがあたしと黒峰との最初の出会いだった。今から大体六年くらい前の話」
湯木の目はその時、輝きを取り戻していた。あの頃が一番良かったとでも言いたげな顔をしている。
「黒峰は賞の審査員で、あたしの小説に光るものを感じたとかなんとか言って、直接会えないかと言い出してきた。その時のあたしは、黒峰がどういう立場の人間なのか、よくわからなかったけど、少なくとも賞の審査員なんかしてるくらいだから、小説界の中では偉いんだろうと思った。それで、いいコネになるかもしれないと会うことを決めたのよ」
時期的に、丁度黒峰が不調のどん底に陥っていた頃だ。話の先が少し見えてきた気がした。
「あいつの家に招かれて、そこでいろいろと話をしたわ。最初は世間話から入って、それから小説の話……。最終的には、小説を書くのを手伝ってくれって。実を言うと、君の作品には大賞以上のものがあったから、ってね。本当はもっと遠回しな言い方だったけど。その時のあたしは出版業界のことなんてまるきり無知だったから、そういうこともよくあることなのかと思って、仕事を引き受けたわ。報酬もよかったし。
それからあたしと黒峰とのゴーストライターの関係が始まったのよ」
特別賞を取った新人が、それから間もなくして日本を代表する大作家のゴーストか。まるでお伽話のように、突拍子もない話だ。
しかし、打ち明け話をしている彼女は、冗談の冗の字も知らないというような、真剣な眼差しである。
「順調だった。少なくとも最初のうちは。
ピアノの家庭教師として、家の中にすんなり入り込むことができるようにもなった。周りに気付かれないように、防音のピアノ部屋まで作って、そこで打ち合わせとかしたりしてね。最初の頃は原稿を渡してる最中とかに、結ちゃんたちが勝手に部屋に入ってきたりして。その時はすごく焦ったけど、なんとか隠れてやり過ごしてね。彼女たち、黒峰さんに大目玉食らったりして」
彼女は薄っすらと口元に笑みを零した。それは自虐ではない、彼女の本心からの笑みのように見えた。
「話が大きく変わったのは、それから一年経った頃。あたしのお母さんが仕事先で倒れたって話を耳にしてからだった。急いで病院に行ったら、重い心臓病だって言われてね……。手術は海外にいる医者にしかできないって。保険も効かないから、その費用を聞かされて、思わずあたし、悲鳴を上げそうになっちゃったわよ」
彼女は声を上げて笑った。
だが誰も、それに釣られて笑うことさえもできなかった。
「あたしなんかが到底集められるような額じゃなかった」
唐突にぴたりと笑いが止まった。
「親戚も少ないし、お母さんはシングルマザーで、周りからはちょっと距離も置かれてたから、お金を借りられるほどの友人関係もあんまりなくて……。必死になってバイトや黒峰の仕事を受けて、お金を貯めたけど、費用と比べたら雀の涙みたいなもの。仕方なくあたしは、黒峰に頼ることにしたのよ」
彼女は黒峰の家に赴き、事情を包み隠さず話して、金銭を前借りすることにしたのだ。だが黒峰は――、
「十分な報酬を払ってるじゃないか。何が不満なんだ。そんな嘘で私を誤魔化せるとでも思ったのか。お前のような若造が、私を金づるにでもしようとしてるのか」
彼女の話を信じようとせず、激昂したという。
「お前みたいなレベルを書ける奴はそこら中にいる。別に今すぐ変えたっていいんだ。それで困るのは誰だろうな?」
ゴーストを使用している立場なのに、彼の意思は全く揺るぎなく、強気にそう言ってきたらしい。
「その時はそこで引き下がっておいたから、結局辞めさせられずには済んだけど、あたしはこっちの世界でも結局その程度なのかと思って、自分の実力を試そうとしたの。別名で賞を取って、出版まで漕ぎ着けた。でも本は全然売れなくて……。当たり前よね。現実は本離れな状態だし、そもそもポッと出の新人の小説なんかより、ネームバリューがある有名所の小説を読みたがるのが普通。結局あたしに入ってくる印税なんて、黒峰からもらう報酬には到底敵いっこなかった」
彼女は自分の才能のなさを知り、またしても挫折したのだ。
「現実を知ったあたしは、金を集めるために遂には水商売に手を出したの。それでどうにかこうにか工面して、いざ出発だって時になって、お母さんの容態が急変して……」
彼女は言葉を詰まらせた。声が震えている。最後の方は蚊の鳴くような声だった。
沈痛な雰囲気がホールに広がった。
一旦顔を伏せた彼女は、激しく首を振って、自分を鼓舞し手先を続けた。
「間に合わなかった。あと一日早ければ、助かったかもしれないのに」
気丈にも、彼女の声はすっかり元に戻っていた。
「そう考えたら、悔やんでも悔みきれなかった。そしてあたしの恨みは黒峰に向いた。あいつがあたしの話を信じて、ケチらずに少しでも捻出してくれてたら……。あんなに金があるのに、あたしに書かせて自分は娘と仲睦まじく平和に暮らして……。それが堪らなく許せなくなったのよ!」
「それで……今回の事件を?」
挟丘が恐る恐る尋ねたものの、彼女はそれを否定した。いきなり殺そうなんて思ったりしない、と。
「最初は、ゴーストの事をバラしてやろうと思っただけ。ほうぼうの出版社に電話や手紙を送ったり、自分から出向いたり、ネットに書き込んだりして。でも、それらはものの見事に潰された。黒峰があたしに迫られても強気でいられたのは、彼らが自分を裏切って、記事を出したりしないことを知ってたからだったってわけ。結局みんな、黒峰が大事だったのよ。もう小説なんか書いてもない、使い物にならないあんな老害がね。
だからあたしは、自分で処分してやろうと思ったのよ。腐った慣例を根本から潰してやるって」
彼女の目に、再び怒りの炎がめらめらと湧き上がってきた。
「黒峰のやつ、あたしが鏡館のテーマを持ち出したら、自分にぴったりだなんて諸手を上げて喜んでたわよ。これからそれが自分の身に起きるなんて何も知らずにね。新作発表の祝いを兼ねて、実際にこの鏡館を建てて、そこで推理ゲームをするのはどう、面白そうでしょうって提案したら、すぐに引っかかってくれたわよ。
後は貴方が言ってた通り」
彼女はまたしても大きく息を吐いた。
「正直、いくら復讐とはいっても、そこまでする必要があるのかとはずっと思ってた。だからこの館に来てもまだ、あたしは実行するかどうか迷ってたの。でも、あいつは、あいつは……!」
「お母さんの調子は良いのかい?」
「あたしは一応お母さんが死んだことも伝えてた。でもあの男、そんなことこれっぽっちも覚えてなかったのよ! その時、あたしの殺意が固まったのよ。必ず、この男に制裁を加えてやるって。家族を失うことがどれほど辛いものか、教えてやるってね!」
彼女の凄まじい怒気を含んだ声が、ホールに突き刺さるように響いた。その迫力に、誰もが一歩二歩退く。
「じゃあやっぱり、雉音さんと夜熊さんには、何の恨みも無かったってわけか?」
俺がそう訊いても、彼女はまるで悪びれた様子もなかった。
「そうよ。別にそれがどうしたの? あいつに復讐するためなら、あたしは別に誰を殺しても構わなかった」
俺はそんな彼女の態度が許せなかった。
そもそも、雉音や夜熊だけではない。結や晶も、自頭でさえも、ゴーストのことは何も知らなかったのだ。
黒峰以外は完全に逆恨みであり、ただの巻き添えなのだ。
「ふざけるな! 関係のない人間を巻き込んで、何が復讐だ。あんたのやったことは復讐なんて言葉で正当化できるものじゃない。ただの殺戮だ。あんたは雉音さんと夜熊さんの家族から彼らを奪った。あんたも結局同じだよ。あんたが抱いてる黒峰さんのイメージとね」
彼女は怒りのベクトルを俺へと向けた。自分の行動を否定されて、理性を消し去り、本能のままに感情を顕にした。
「あんたなんかに……。あんたなんかに、何がわかるのよ! どうせぬくぬく育って、親の金で大学に行って、今もその恩恵を受けてるだけのボンクラじゃないの! そんな奴にあたしの何がわかるっていうのさ」
「俺にはあんたの気持ちなんてわからないし、一生わかりたくもないよ」
そう言い放つと、彼女は怒り疲れたのか、がくりと顔を床に押し付けた。すっかりガソリンの染み込んだ絨毯に顔を擦り付け、彼女は身体を震わせて咽び泣いていた。
私は悪くない。私は悪くない。私は悪くなんか……。
彼女の、自己防衛のための正当化の声が、ただ只管に、ホールの中にこだまし続けていた。
窓の外から、一筋の光が強く差し込んできた。
夜明けだ。また朝日を拝むことができた。
ようやく晴れ間が戻ってきたのだ。
――ギギギギィッ。
木の軋む音。金属の擦れる音。
それらが綯い交ぜになって、俺たちの鼓膜を震わせた。
跳ね橋が下りてきたのだ。
安堵ともに、俺は肩の力を抜いた。
こうして、四日間に及んだ鏡館殺人事件は、湯木の嗚咽とともに、穏やかな日差しの元、幕を下ろしたのであった。




