3
目を閉じても、胃のむかむかが不快で、まるで眠りに就けなかった。だからと言って目を開けていると、嫌でも入ってくる視覚情報に、酔いを酷くされるばかりだ。
結局、そのまま狸寝入りと相成った。
さて車内では、携帯が役立たずになったというわけで、暇潰しの手段を奪われた面々が、互いに自己紹介を始めるようである。
気分の悪い俺は、それをただ耳で聞いたり、時折目を僅かに開けて、その様子を盗み見たりするだけに留めておいた。しかしそれでも十分に、誰がどんな職に就いていて、黒峰鏡一とどのような関係なのか、大体把握することができた。
轟隼人及び新時告は、轟自身が言っていた通り作家であり、黒峰ともその繋がりである。作品のジャンルこそ違えど、受賞式や出版社等で顔を合わせることが、ままあるらしい。
妖艶なケバい化粧の女、湯木波夏はピアニストで、クラシック好きの黒峰が彼女にご執心なのだとか。黒峰自身も多少ピアノを弾くらしく、パーティーで会ったのが契機となり、彼女が家まで行って教えたりもするそうだ。
それを聞いて、
「いやあ、こんな美人に教えてもらえるんなら、儂の家にも是非来てもらいたいものだなあ」
などと、大仏顔の雉音定春が下品に笑っていた。
彼は職業を某有名自動車メーカーの役員だと称した。一体それと黒峰とどう関係があるのかと一同訝しんでいたが、どうやら黒峰の亡妻である雪乃の兄だということで、職業上の付き合いではないようだ。
しかしこの雉音、やはり相当に出来上がっているようで、先程からじろじろと舐め回すように湯木の身体を見詰めている。服を透かして、その内側を覗こうとでもしているような、下心丸出しの目付き。
湯木もその視線には気づいているようで、侮蔑の眼差しを向けていたが、彼には効き目がないようだった。
猫背の挟丘拓真は、東京にある国立工業大学の准教授。黒峰のファンでもあり、彼からはトリックが物理的に成立するかどうかの意見をよく求められているようだ。
眼鏡にマスクの西之葉桜については、やはり轟の記憶は正しく出版社の人間で、かつては黒峰の担当をしていたこともあったが、今は文芸雑誌の編集者を務めていると言う。
同じ女性でも、彼女の方には興味が沸かないのか、雉音は鼻も引っ掛けていない。
親睦を深めようなどと言っていた当人の夜熊は、車に揺られてすっかり寝入ってしまったようで、があがあといびきをかいてしまっている始末。
呑気なものだ。
しかし、彼についてはその身分を招待客全員が知っているようで、わざわざ起こして聞くまでもないだろうということだった。
英介も自分の身分を明かし、体調の悪い俺の代わりに、俺のことまでぺらぺらとよく喋っていた。
そうこうしているうち、車は二股の道を右に曲がり、森のさらに深奥へと分け入っていく。道路の舗装はなくなり、がたがたと揺れ始める。しかし自頭の運転がうまいのか、それほど酷い揺れにはならない。
この間の夏休みに長野へ旅行に行った時などは、あまりの揺れの酷さに胃袋が怒りだし、絶望の寸前まで行ったところだったが、それに比べれば今回は割合余裕があった。
両脇を林立する背の高い木々に囲まれ、視界は遮られて殆ど何も見えない。道を走っているというより、喬木の間をすり抜けていると言った方が正しいか。
どこまで奥へと行くのだろうと思っていると、不意にバスが停車した。
「申し訳ありません。皆様、ここでお降りください。これより先は車が通行不可能でございまして」
運転席から顔を出した自頭が、申し訳なさげに頭を下げた。
フロントガラス越しに前を見てみると、確かにこの先はこれまで以上に木が寄り添って群生しており、とてもこのバスが通るには無理な様相を呈している。獣道がさらに森の奥へと伸びているが、それは人一人がようやく通れるぐらいのものだった。
参加者たちは渋々車を降り、各々荷物を持って自頭の後に付いて歩き始めた。
「こりゃあまた、凄いところですなあ」
周りの巨木を物珍しそうに見上げながら、夜熊が感嘆した。
「しかし先生はなんでまたこんなところに館を建てたんでしょうかね」
とこれは轟だ。先程バスの中で俺と英介にも話していた疑問を、ここでまた全員に向かって尋ねていた。
「次回作の舞台にするつもりの建物なんだろう? だったら、このくらい人里離れた僻地に建っている方が、謎めいていていいじゃないか。雰囲気は最高だろう」
夜熊は、その点についてはさして気にもしていなかったようで、あっさりとそう答えた。
「あたしにとっては最悪なんだけど。まさかこんな山の中に連れてこられるなんて、思ってもみなかったわ」
苛立たしげに愚痴を零したのは湯木である。
お洒落に気を遣ってハイヒールなんかを履いてきたから、この獣道はさぞかし難儀なのだろう。一歩一歩確かめるように慎重に歩いているが、何度も転びそうになっていた。危うくて見ていられない。
俺と同じように思ったのか、自頭が荷物を持ちましょうと名乗り出たのだが、ぞんざいに断っていた。
ただこの獣道も、ものの数分で終わりを迎えた。森を抜けたようで、唐突に視界が開けたのだ。
「皆様、お疲れ様でございました。あちらに見えますのが、鏡館でございます」
自頭が俺たちに向き直り、右手で開けた土地の方を指し示した。
一瞬、俺はどこに建物があるのか、判別がつかなかった。しかしよくよく見てみると、空中に黒い木枠に囲まれた窓が幾つも浮いている。何とも異様な光景だ。
だが、そう認識していたのも、ほんのわずかな間。すぐにそれが錯覚であることに気づいた。
建物は確かに眼前に存在していたのだ。
壁面が全て鏡になっている、鏡張りの館が。
完全に周囲と同化した館。
そのお陰で、さながら窓だけが、まるで超現実的な絵の如く、浮遊しているように見えたというわけだ。
鏡張りのせいで、どのくらいの高さがあるのか判然としないが、窓の数から見ても三階建てだろうことがわかる。館を正面から目を凝らして見ると、輪郭はアルファベットのL形になっているようだ。といっても、横棒を太くして、縦棒を上下に潰したような形だから、かなり歪である。窓を参考にすると、横棒の部分が一、二階に相当し、縦棒の部分が三階に当たるのだろう。要は三階部分が一、二階部分よりもかなり狭くなっているのだ。
館は堀に囲まれ、玄関へ向かうには跳ね橋を渡らなければならないようだった。
「皆様、どうぞこちらへ」
自頭が先頭を切って俺たちを跳ね橋へと促す。
館をぐるりと一周取り囲んでいるらしい堀は、かなりの深さと幅があるようだ。しかし中は水で満たされているわけでもなく、ただ単純に地面を掘っただけの状態である。館のぎりぎりまで掘られているから、庭も何もあったものではない。僅かに人が立ち入れそうなところには、これもまた鏡で造られた奇怪な形状のオブジェが、そこかしこに建てられており、足の踏み場もない。せいぜい玄関の前に、人が立てるスペースがちょこんと飛び出ているくらいだ。
何のためにこんなことをしたのか知らないが、まるでこの館だけが他の地表から隔離されているように見える。
堀の外側には、等間隔に照明が設置されていた。どの照明も館に向けられている。しかし今は昼なので、当然どれも鳴りを潜めている。
跳ね橋を渡り終えると、ようやく玄関に辿り着くことができた。
その時だった。
背後で轟音が鳴り響いたのは。
何事かと振り返ると、たった今渡ったばかりの跳ね橋が、ゆっくりと堀の向こう側に引き上げられ始めていた。
「おいおい、こりゃあ一体全体、どういうことだ」
夜熊が驚いている間にも、どんどんと傾きが急になる橋。もうその上を人が渡ることはできないだろう。
あれよあれよと言う間に、跳ね橋はすっかり九十度に持ち上げられ、ようやくその動きを止めた。
駆動音が止まったかと思うと、唖然としていた招待客たちがざわつき出す。
「これじゃあ外に出られないじゃないか」
「どうしてこんな真似をしたんだ」
「自頭さん、これは何の冗談ですか?」
と、その矛先は自然と自頭に向けられる。
詰問されている自頭だが、動じることなく、あくまでも静かに言い聞かせるように口を開いた。
「旦那様の言いつけでございます。旦那様の開催するゲームにおいて、皆様の公平性を期すため、四日目の朝までは、館内への誰の出入りも不可能にすべしと。この館を電話やインターネット環境からも完全に隔離したのは、そのためでもあるのです」
「で、そのゲームってのは、一体何をするんですか?」
轟が興味津々に尋ねた。それで周りも静かになる。
ここまで徹底して行われるゲーム。しかしその内容は、招待状にも、例のサイトにも何も書かれていなかったのだから、気になっても仕方があるまい。
しかし自頭の口から出たのは、俺たちの期待に応えるようなものではなかった。
「それについては、私も存じ上げておりません。後ほど旦那様から説明が行われるはずです」
結局余計に焦らされただけだ。すっきりしないまま、
「ともかく、まずは中にお入りください」
自頭に有無を言わせぬ口調で促され、玄関に向き直った。
玄関の左脇にも鏡のオブジェが備え付けられているが、これは他のものと比べて、かなり巨大なものだった。やはり鏡張りのせいで周りの景色が映りこみ、はっきりとはわからないが、頂端はおおよそ二階の窓のあたりにまで到達しているようだ。ワシントンにある大きな記念碑のような形をしているが、実際に何を象ったものなのかは、芸術的センスのない俺にはわからない。
それにしても、本当に堀ぎりぎりのところに建っているので、今にも崩れてしまいそうな危うさだ。
玄関は木製の両開きドア。今時珍しくチャイムではなく、ノッカーだけが備え付けられている。
自頭がそれに手を掛けて、二三度ノックをすると、ややあって両開きの扉が同時に開かれた。
そして中で俺たちを迎え入れたのは――、