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「黒峰さんは自殺じゃない。そう思ってるんじゃないの?」
まるで俺を試すかのように、目尻を僅かに垂らして、マスクの下に微笑でも浮かべているような表情。
不気味さを通り過ぎ、身体が粟立つような恐怖を感じた。骨の髄までX線のような視線で見透かされている気がする。
ここですべてを話してしまっていいものか。
俺は少しだけ間をおいて、しかし結局は誤魔化すことにした。
黒峰が自殺でないとしたら、おそらくはまだこの中に犯人がいるのだ。この段階で不用意なことは言えない。
「い、いや、そんなんじゃないですよ。西之葉さんこそ、そんな風に考えてるってことは、何かしら根拠でもあるんですか?」
逆に彼女の腹を探ろうとしてみる。
それに彼女はなんだかんだ言いながらも結構鋭い観察眼を持っているようだ。今そこでクイズの答えが発表されてから自分は知っていたと偉そうにのたまうように、自分の“推理”に関して演説を振るっている挟丘とは、彼女は明らかに違う。是非とも彼女の意見も聞いてみたかった。
しかし、それは買い被りすぎだったのか、彼女は惚けた様子で、
「根拠? 別に何か論理的にそうだって思ったわけじゃないから。ただなんて言うか……、しっくりこなかったっていう、感覚みたいなものだし」
「感覚、ですか」
それだけでは流石にそんなことを口にしたりしないはずだ。
俺はもう少し揺さぶりをかけてみることにした。
「……仮にこれも殺人だったとしたら、恐らく犯人は黒峰さんに相当の恨みを持っている人だと思うんですけど、もしかして西之葉さんにはその心当たりでもあるんですか?」
すると彼女は腕を組んで考え込む素振りを見せながら、
「う〜ん、心当たりねえ。黒峰先生って、出せばベストセラーの大作家だから、業界の人間は誰だって彼を必要としていたし、人当たりもいい人だったから、同業者からだって嫌われるどころかむしろ慕われていたくらいだし」
「やっぱり恨んでる人なんていないですか」
期待した分得られるものが全くないとなると、どうしてもがっくりしてしまう。俺のその感情が顔に現れていたのか、西之葉はさらに考えを巡らせ、
「……絶対にいないってわけじゃないわね」
そう話し始めた。
「実は昔……って言ってもまだ今から三年くらい前の話だけど、黒峰先生にゴーストライターの噂がたったのよ」
黒峰にゴーストライターだって?
そんな噂話があったのなら、いくら作家本人にはそれほど興味のない俺だって、絶対にどこかで耳にしているはずだ。だが、俺は完全に今、初めて聞いた。
思わず目を丸めて身を乗り出す。
「えっ、それ本当ですか? でも、そんな話、俺は全然聞いたことないですけど」
「それはそうよ。そんな噂、業界が放っておくわけないし。どこの出版社も、いえ、どこのメディアも、彼にはお世話になってたわけだし。必死になって揉み消したってわけ。
ただ、一時期は本当に凄かった。出版社宛てにゴーストライターがいるって手紙が何通も届いてきたり、電話も何本もかかってきてた」
「それはなかなか大事じゃないですか」
「その上、私がゴーストライターだ、なんていう人まで現れてくる始末だし」
「えっ!?」
思わず素っ頓狂な悲鳴めいた声をあげてしまった。
「まあそういうのは流石に一度きりだったけど。
新時さんも知ってますよね? 黒峰さんのゴーストライターの噂のこと」
俺が訝しそうに彼女を見ていることに気付いたのか、西之葉は傍にいた新時に声をかけた。
急に話を振られるとは思っていなかった新時は、心の準備ができていなかったようで、慌てふためきながら訊き返す。
「えっ、ぼ、僕ですか? い、いきなり、なんですか?」
「だから、三年前の黒峰さんのゴーストライターの噂」
何度言わせるんだと苛立ちを含んだ西之葉の声。
そんな彼女に、新時はすっかりたじろぎながらも、その時のことを思い返すように、視線を宙に彷徨わせた。
「あ、ああ、そういえばそんなこともありましたね。あの頃の僕は出版社に何度も作品を持ち込みに行ってたので、何度か耳にしたことがあります。ただ、世間ではほとんど騒がれてはいなかったですけど。どうせ質の悪いただの悪戯だって、出版社の人もそう言ってましたから」
「え、え、ゴーストライターって、それマジっすか? 俺も知らなかったけど。もう少し詳しく聞かせてくださいよ」
そこへ耳聡く聞いていた轟が、野次馬根性丸出しで割り込んでくる。
「詳しくって言っても……。僕が知ってるのはそれだけで……」
凄い勢いで詰め寄ってくる轟に新時はたじたじだ。
そんな新時の冷や汗をかいた困り顔を前にしても、轟は詰問の手を緩めない。まだ何か隠していると思っているのだろう。
「ええ〜、そんなこと言わないでくださいよ。是非とも聞きたいなあ」
まだ諦めずに情報を聞き出そうとしているところへ、
「ちょっと、いくら殺人犯だからって、故人の前でそういう話はよしましょうよ」
と、片郷が一喝した。
そんな目くじら立てなくても、と呆れるほど図々しく轟が反撃に出ようとしたものの、片郷のまるで獲物を捉えた猛獣のような鋭い睨みに負け、
「すみません、もうやめます」
身を縮めてあえなくすごすごと退散した。
うるさいのがいなくなったのを見計らい、西之葉が小声で付け加えた。
「新時さんの言う通り、あの時は当然私だって悪戯か何かだと思ってた。黒峰先生がそんな事するわけないって。でも、もし今回の事件の真相が他にあるって言うのなら……」
彼女の言わんとしていることは手に取るようにわかった。
「そのゴーストライターが犯人かもしれないってことですか?」
彼女はそれ以上何も言わず、こくりと静かに頷きを返すと、俺たちから離れていった。
俺はもう一度、黒峰の死体を眺め下ろした。さらに一歩下がって俯瞰するように現場を見てみる。そうして、その時ようやく気付いた。
机の抽斗が一つ、完全に外されて床に無造作に置かれていたのだ。
普通の抽斗の二倍ほど底が深い。おそらく、机の最下段に配置されていた抽斗だろう。
中を覗き込んでみたが、中は殆ど原稿用紙。それも白紙の。何かメッセージでも書かれてあれば話は別なのだが。
他に目を引くものはというと、一冊本が入っているだけだった。
ハードカバーの重厚そうな本で、表紙には『夢幻邸殺人事件』の文字。
黒峰鏡一の蒲生鏡一シリーズの最新作。そして、今となっては最終作となってしまった本である。
本を手に取りページを捲ってみるが、何の変哲もない小説だ。そこに何か新しいギミックが仕掛けられているわけでもない。
本は元に戻して、今度は机の方に目をやってみると、そこでさらに異変に気付いた。
「あれ、この机の抽斗……」
「抽斗がどうかしたのか?」
英介が中腰に屈み込んで尋ねてきた。
「ほら、これ、おかしいだろ」
俺が指差した先には確かに抽斗があるのだが、おかしいのはその順番だった。
本来ならばこの床に落ちている深い抽斗が入るはずの最下段に、上段の底の浅い抽斗が二つ、強引に嵌め込まれていたのだ。
重みに耐えきれず真下に抽斗が落下した。と言うよりは、明らかに人為的に、無理矢理押し込まれている。
「ああ、確かに変だな」
英介はそれを見ながら首を傾げていたが、すぐに俺に答えを求めてきた。
「……でもそれが、一体なんだっていうんだ?」
それには答えず、俺は一心に、穴が開くほど抽斗を凝視し続けた。
頭がぐるぐると回転を始める。
やがて、ある一つの解をその中に見出した。
「……そうか、そういうことか」




