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――――――
蒐集室の観音扉を開くと、真正面にその像があった。
石膏でできた戦士と、蛇の頭を持った化け物の女の像。希臘神話によれば、化け物の蛇と目が合うと、たちまちのうちに石にされてしまうという謂れがある。それゆえ、戦士は鏡の盾を持ち、それ越しに化け物を見ながら近づき、その首を討ち取ったとされているのだ。
この像はその一場面を抜き出したものである。
戦士が化け物を押さえつけ、今にもその首を狩ろうとしているところだ。
だが、今その化け物の頭部は、まったくの別物にすり替えられていた。
人形のようなおかっぱ頭に、可愛らしい小鼻とおちょぼ口。眠るように瞼を閉ざした彼女であるが、しかし白雪姫のように王子が接吻したとしても、もはやその肉体に生が宿ることはない。
彼女の首は胴体とは完全に切り離され、代わりに戦士の手中で悶える石膏の化け物の胴が、その首から下にくっついているのだから。
多量の血液を失った黒峰晶の素肌は、思わずはっとするほどの白皙で、石膏の白にも負けず、むしろそれと一体化しているようにも見えた。
その美しさたるや、元の像よりも格段である。
生きている時も美しいものは、死してなおその美しさを放ち続けるのだ。そうでなくてはならない。
*
さて――、
これをもって鏡館殺人事件は終焉する。
書籍に囲まれながら、我が人生に終止符を打てるのだ。作家として、何と幸せなことだろうか。
――――――
すげ替えられて用済みになったメデューサの頭部。そこに貼り付いたその原稿を読んで、俺は不甲斐なさを感じざるを得なかった。まるで黒峰の掌の上で弄ばれているようだ。俺たちの行動は全て、彼には想定済みなのかもしれない。
それだけでなく、この最後の文章――。
最悪の事態が頭を過ぎる。
俺は慌てて挟丘に言った。
「とにかく、このことを他の人たちにも知らせないと」
「多分、もうラウンジのほうに全員集まっていると思いますし、そのほうがいいでしょうね」
彼も同意して、一緒にラウンジまで引き返してくると、やはりそこには全員が集結していた。恐らく自頭の死は、既に湯木や西之葉の耳にも入っているだろう。
華々しい瀟洒なラウンジに充満する、見た目に反した重苦しい雰囲気。互いに会話をするわけでもなく、ただ俯きがちにソファに座り込む面々。壁に掛けられた鏡にその姿が反射し、どこに目をやっても彼らの暗い様子が目に入る。そのせいでより一層沈んでいるように見えるのだ。
そこへさらに晶の死までをも告げなければならないのである。どうしても気を揉んでしまう。
しかし黙っていてもいずれ分かることだ。
「皆さん、大事な話があります――」
俺はコレクションルームで晶の生首を発見した経緯を話した。
*
すべてを話し終えると、ラウンジの中にやりきれない溜息がこだました。ただ一人、西之葉だけはどこか上の空のように無反応だ。
「そんな晶ちゃんまで……」
そう言って落胆の様子を見せる湯木だが、その実あまりショックを受けているようではない。昨日彼女が館内から姿を消したときから、こうなるかもしれない事を予想していたのだろう。
「黒峰先生は一体何人殺せば気が済むっていうんだよ……。俺たちが何したっていうんだよ……」
頭を抱える轟。軽薄に場を茶化すような真似は、流石に今の彼には出来ないようだ。
更に新時までもが、例の発狂めいた怯えを見せ始める。
「皆殺しだ……! や、やっぱり、僕たち全員殺す気なんだ!」
「落ち着いてください!」
俺が一喝すると、幸いにもすぐに騒ぎは収まった。
こんなところでまたパニックを起こされたら、今度こそ全員の不安が沸騰してしまう。
「その現場にもやはり、原稿が落ちていたんですが、そこにはこうも書かれていました。
『これをもって鏡館殺人事件は終焉する。書籍に囲まれながら、我が人生に終止符を打てるのだ。作家として、何と幸せなことだろう』ってね」
「それって……」
意味を察して、英介がはっとする。彼にでもわかるくらいだ。こんなにわかりやすい言葉はないだろう。
「恐らく、黒峰さんは自殺をしようとしているのではないかと……。あるいは、もう既にしてしまったのかもしれません」
そう結論づけても、驚く者はいない。やはり皆、察しはついていたようだ。
「もしそうなら、いずれにしても恐らく彼は今、図書室にいるはずです」
そう付け加えると、挟丘がさっとフォローした。
「『書籍に囲まれながら』がそれを指し示しているってことですか」
俺は頷きを返し、
「取り敢えず、確かめてみませんか?」
そう提案してみた時、ずっと黙りこくって傍から静観していた西之葉が、唐突に口を挟んだ。
「ところで……その、コレクションルームで見つけた死体、本当に晶さんだったんですか?」
何を言っているんだと挟丘が怪訝そうな、ともすれば妄言の茶々なぞ入れるなと威圧しているような眼差しを返すと、西之葉は説明を補足した。
「結さんと晶さんはよく似ていますから。殺害した結さんの首を切り取り、別の場所で発見させることで、あたかも新たな犠牲者として晶さんが殺されたように見せかけた可能性もあるんじゃないかと思うんですが」
なるほど、たしかに彼女の言い分にも一理ある。俺も、コレクションルームにあった首の黒子を見るまでは、そのことを検討してもいた。
「それって、晶ちゃんはまだ生きてるってこと?」
希望を見出した湯木が、縋るように彼女に確認する。
「そうなりますね。そしてその場合、晶さんが黒峰さんと共犯関係にあると言って、まず間違いないはずです」
しかしあくまで冷淡な西之葉のその言葉に、湯木はがくりと項垂れつつも、
「でも、それでも生きていてくれるなら、その方がいいに決まってるわね……」
自らに言い聞かせるように呟いた。
だが、それは西之葉のただの推論に他ならない。
俺は確かにこの目で彼女が晶であることを認めているのだから。
「残念ながらそれはないと思います。コレクションルームで見つけた彼女の頭には、ちゃんと右側の首筋だけに黒子がありました。それでも気になるのなら、図書室に行く前に結さんの部屋に行って確かめてみましょうか」
そう言われると従わざるを得ないだろう。
西之葉は無言で頷きを返した。
そういうわけで、俺たちは三階の図書室に向かう途中、二階に寄り、結の部屋を訪れることとなったのだ。
結の遺体は、変わらず部屋の中に残されたままになっていた。ただひとつ、西之葉が危惧していたように、切り取られてしまった頭部を除いては……。
などということにはならなかった。
結の頭はしっかりと胴体にくっついていたし、一度切り取られて強引に繋げられたとか、そういうこともない。全く昨晩のまま。
やはりコレクションルーム発見した生首は晶のもので、晶は既に死亡していたというわけだ。これで晶生存説は完全に水泡に帰した。
「やっぱりただの考えすぎでした。お騒がせしてすみませんでした」
口では謝っているが、全く悪びれた様子を見せない西之葉。文句を言うわけではないが、僅かに期待を持たせられた挙句に結果晶の死の事実が不変なままだったことに、湯木は面白くなさそうに彼女を睨みつけていた。
これ以上雰囲気が険悪になる前に、さっさと部屋を出よう。
「じゃあ、図書室に行きましょう」
俺たちは上りのエレベーターに乗り込み、一路三階の図書室へと向かった。
図書室の扉は閉ざされてこそいたが、鍵はかかっていない。ノブを回せば抵抗なくすんなりと戸は開いた。
図書室の壁には大量の本が詰められた本棚。それらが切れ目もなく並べられている。図書室の中央には書き物机。一見するとなんの変化も見られないように思えたが、その机の上に何かが乗っていた。
入り口から見ても、それが一冊の手帳であることは見て取れる。
しかし予想に反し、黒峰の姿がない。
「黒峰さん、いませんね」
「また推理が外れたんじゃないの」
嫌味たらしく湯木に言われ、俺は何も言い返せなかった。昨日のことがフラッシュバックする。
また、外れたのか……?
しかしこのまま黙って引き下がるのも癪だったので、俺はとにかく机に向かって歩み寄った。
あの手帳は誰のものなのか。中に何か書いてあるのだろうか。事件と関係あるのか。もしかしたら何かの手掛かりになるかもしれない。
手を伸ばせば届く程の距離まで縮めたところで、俺は視界の端に捉えたそれに一瞬にして目を奪われた。
途端に手帳のことなどどこへやら。頭の中からすっかり消え失せ、俺はそれをはっきり見ようと机の反対側に回り込む。
「なんだ、どうかしたのか?」
「ああ……。黒峰さんを見つけたよ」
入り口からは机の死角になっている、机の下の隙間。
まるでそこに隠れ潜むように丸まったまま、あぶくを吹いて倒れていたのは、紛れもなく推理作家黒峰鏡一その人だった。




