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鏡館殺人事件  作者: 東堂柳
第八章 館には死の嵐が訪れた
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1

 目が覚めて上体を起こすと、鏡の中の自分と目線がかち合う。

 もうこの客室に泊まって四日目の朝だ。その光景にも流石に慣れて、もう何とも感じない。初めてここで目を覚ました時は、それこそ幻覚でも見ているのではないかという錯覚に囚われていたが、思い返せば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 鏡に映っている俺は、俺のコピーでしかない。俺の動きを模倣するだけ。それのどこに怯える必要があるのか。

 俺は自嘲的な笑みを零した。


 その時だった。


 鏡の中の自分が、手を動かした。右手を、まるで挨拶でもするように、軽く上げて。

 自分の両手を見下ろしても、それらはまだ布団の上に置かれたままだ。なのに、今目の前にいる鏡の世界の俺は、右手を上げ、挑発的に指を折ったり伸ばしたりしている。

 奇妙な感覚に陥った。

 カメラ越しに自分の手を素早く動かすと、画面の現実との僅かな遅れで認識のズレが起こり、自分の手ではないように感じることがある。どこかでそんな話を聞いたことがあるが、今の俺はそれに近い状態だった。

 ついさっきまで、鏡は俺の模写しかできないと謳っていたのに、すぐに真っ向から否定されたような気分だ。否が応でも思考が揺らぐ。足元が不安定になる。

 昨晩に味わった、間違いないはずの推理が外れたときのことが想起されて、苦々しい思いに駆られた。

 あそこにいる俺は、本当に俺なのか……。

 もっと近くで確かめてみよう。

 俺は布団を抜け出し、鏡に歩み寄った。

 するとそれに呼応するように、もう一人の俺もベッドから起き上がり、俺のほうに近づいてくる。

 が、その動きは俺と一致してはいなかった。

 俺は鏡の前で立ち止まったが、彼のほうは動きを止めようとしない。

 お構いなしに鏡に向かって進み出てくるのだ。

 心なしか、彼の表情は俺のそれよりも和らいでいるように見える。いや、これは和らいでいるというより、笑っている……? 微笑んでいるのか?

 自分の笑みをまざまざと見ることもないから、なんだか気恥ずかしい気分になりつつも、俺は確かめるように顔を触った。

 しかし、俺自身の口角は上がっていない。

 そのうちに彼は両腕を伸ばし、鏡に突き出した。指先が鏡に触れる。

 それは鏡面に塞がれ、俺のいる世界には届かないはずだった。

 なのに、どういうわけか、まるで水面を通り抜けるように、彼の指はするりと一線を越えた。

 鏡に映る自分は、光が反射してできた単なる像に過ぎない。その虚像が今、隔たりを飛び出し、実像になろうとしている。

 背筋がぞっとした。

 もう一人の自分が自分の目の前に現れたらどうなるのか。

 俺の知っている映画や小説でも、都市伝説でも、その答えは一つだった。

 すっかり腰が引けていた。

 そんな俺を尻目に、虚像の俺が実世界に侵食しつつある。

 もう手首が通り抜けた。

 みるみるうちに腕が、肩が、頭が、ぬうと鏡から突き出てくる。

 悪夢だ。

 俺はまだ、悪い夢を見ているんだ。

 俺は自分の頬を捩じった。

 痛い。痛いのに目が覚めない。

 夢ではないのか……? これが現実? そんなのあり得ない。

 頭の中で否定しても、双眸で捉えた正面の男の存在は、それをさらに上塗りするように否定してくる。

 遂に、虚像の俺は虚像ではなくなった。

 鏡から全身が抜け出たもう一人の俺。その顔に張り付いた、気味の悪い笑み。まるで接着剤で固められたかのように、ぎこちなく堅苦しい硬直した笑み。

 奴は伸ばした手で、俺の首元を捉えた。

 身体が動かない。金縛りにあったように、筋肉が停止している。

 奴は両手で、俺の首を握り始めた。力が込められているのがわかる。

 気管が押し潰される。血管が詰まる。

 そうだ。もう一人の自分が自分の目の前に現れたらどうなるのか。その答えは……。

 息が吸えない。口を開けても息が肺に届かない。頭が痛くなる。酸欠だ。頭に血が来ていない。

 く、苦し……。

 視界がぼやける。もう一人の俺が歪んでいく。

 俺の意識は深い無の水底へと引きずり込まれていった。


 ――がばっ。


 再び意識が戻ってくると、俺は弾かれたようにベッドから身を起こしていた。

 心臓が早鐘を打ち鳴らし、酷い過呼吸に侵されていた。

 だが、空気が吸える。酸素で肺が満たされていく。その嬉しさたるや、生を再び取り戻したような喜びだった。

 やはりあれは悪夢だったのだ。

 今、目の前の鏡にいる自分は、俺と同じように多量の汗をかいて、ぜえぜえ喘いでいる。動作は苦しそうだが、表情はどこか明るく、安堵したような様子だ。

 こんなところで奇怪な殺人事件になど遭遇するからこんな夢を見るのだ。

 奇人島の時も、契鬼の時も、こんな悪夢を見たものだ。

 しかし、夢は夢だ。夢に殺されることなどない。殺人が起きるのは現実だけだ。

 俺は起き上がり、鏡に近寄った。

 そこにいるのは、やはり俺自身だ。意思を持って、独りでに勝手気儘に動きだすこともない。ただの光の像だ。

 鏡に手を触れる。硬く冷たい。拳でノックしてみると、コツコツと乾いた音が鳴る。何の変哲もないただの鏡だ。

 やはり夢だったんだ。でなければ、こんなところから人が現れるはずなんてない。

 ぺたりと手を鏡に貼り付ける。いくら押したところで、向こう側に飛び出るはずなどなかった。

 自然と笑みがこぼれる。小さく笑声が漏れた。

 しかし、俺の顔はそこで凍りついた。

 手首に冷たい感触があった。見ると、今さっきまで鏡越しに掌を合わせるようにしていた鏡像の手が、俺の手首を掴んでいる。

 万力で挟まれているような力で押さえ込まれ、引き抜くことができない。


『末田君』


 名を呼ばれ、はっとして顔を上げた。

 いつの間に入れ替わったのか。鏡の向こうにいたのは俺ではなかった。

 ベージュのコートと帽子を身に纏った鏡館の当主、黒峰鏡一だった。

 その腫れぼったいような無骨な唇が、動き出す。


『面白いものを見せてあげよう』


 ぬるりと鏡から抜け出てくる黒峰。

 手首を掴まれた俺は逃げることができず、彼のなすがままだった。

 黒峰は空いているもう一方の手で、俺の首を捉えた。

 中年男性の力とは思えないような握力で、首が締め付けられる。たちまち血が詰まり、呼吸が止まる。

 黒峰の笑みが俺に迫る。

 意識が途切れる直前、嬉々とした黒峰の声が鼓膜に響いた。


『鏡の世界にようこそ』

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