2
ものの十分もしないうちに、ぐねぐねした山道に胃袋が振り回され、すっかり酔ってしまった。どうにも三半規管が弱くていけない。
しかし隣の英介はいたって大丈夫なようで、けろりとした顔でスマートフォンでゲームアプリに興じている。
画面を覗き込もうとしたら、また胃液が込み上げてきたので、車窓から外の景色を眺めて気分を紛らす。青褪めた情けない顔がガラスに僅かに反射していた。
バスは山に囲まれて、人家の一つとしてないところを走っていた。人家どころか田畑の影さえもない。
車幅ぎりぎりの道路。当然歩行者も対向車も、後続車もない。
右を見れば谷底の見えないほどの急斜面。ガードレールも鉄柱と鉄線で出来た簡素なもので、ちょっとでもハンドルを切り間違えれば、すぐに奈落へ真っ逆さまだろう。
左を見れば樹木の生い茂った山肌。緑から赤や黄へ、彩り始めた木々が立ち並び、季節の移り変わりを感じさせる。
だが、街灯の一本も設置されていないので、夜になれば視界も悪く、危険な山道になるだろう。
人工物はバスの走っている道路と度々通り過ぎる落石注意の看板ぐらいで、あとは山、山、山。視界に広がる大自然。見ているだけでうんざりしてきて、逆に気分が悪くなる。
「ちょっと君、さっき耳に挟んだけど、槻源蔵氏の孫なんだって?」
背後から声が聞こえてきた。英介がそれに反応して振り返る。俺も同様に振り返った。
背凭れの上から身を乗り出していたのは、似合っていない髪型にピアスの男だ。
確か、轟隼人と言ったか。
「そうだけど……」
英介は訝しそうに彼を見返した。
その視線に気づいたのか、轟は慌てて弁解する。
「あ、いや、単純に俺、新潟育ちだから、聞いたことがあってさ。槻家と言ったら、新潟じゃ有名な名家だもの。確か、今年の五月だか六月だかに、源蔵氏の息子が殺されたって新聞に出ていた気がしたんだけど、ってことは、今の槻家の当主が君ってこと?」
「まあ……、そうです」
英介自身、あの事件を思い出したくないのだろう。不快そうに歯切れの悪い言い方をしたが、轟はそれにはまるで気付かずに、無邪気に歓声を漏らした。
「うっわ、すっげ。まじかよ」
予想外に車内に響き渡ったため、周りの冷ややかな視線が刺さった。俺が騒いだわけでもないのに、気恥ずかしく感じる。
ここは轟も察して、小さく咳払いして取り繕うと、
「あ、ごめん。俺、轟隼人。一応今は大学生なんだけど、なんか見た感じ、俺と同年代くらいの人って、君たちしかいなさそうだからさ。いや、ちょっと気が楽になったよ」
並びの悪い歯列を見せてにやっと笑った。
「にしても、こんな辺鄙なところに館を建てるなんて、やっぱり黒峰先生は変わりもんだよなあ」
轟は窓から辺りの山々を見回して、変わらずにやにやしている。
正当な招待客なだけあって、やはり黒峰鏡一とはそれなりに親密な仲なのだろう。
しかし、この一見普通のチャラい大学生にしか見えない彼と、国民的大作家の黒峰との間に、一体どういう関わり合いがあるのか、俺は少し気になって尋ねてみた。
「黒峰さんとはどういう関係なんですか?」
「一応、作家仲間って感じかな。これでも新人賞とか取ってるもんでさ。パーティーや何やらで会ったのがきっかけで、意外に話も合ってね。それ以来の付き合いで」
あっけらかんとしている轟の口から、思いもよらないワードが出てきたものだから、俺はすっかり魂消た。
「新人賞ですか! 作家仲間っていうと、やっぱりミステリーを書くんですか?」
余計に気になったので、酔いも忘れて身を乗り出し、さらに訊いてみたのだが、
「ああ、いや、俺はそういうんじゃなくて、いわゆる文学ってやつ」
予想の斜め上をいく答えが返ってきた。どう見ても轟の風体は、俺のイメージする文学という感じのそれではない。
しかし俺は、同じ小説でも文学には微塵も興味がなかった。
「そうなんですか」
急に熱が冷めたので、適当に相槌を返しておいた。消し飛んだ吐き気が、また戻ってくる。
「他に作家仲間の方はいるんですか?」
とこれは英介。
すると、轟は右側前方――運転席の後ろの辺りに座っている男を指さした。
「えっと、あとは、そこの新時先生ぐらいかな」
新時も酔っているのか、口に手を当てて喘いでいる。
そこには触れずに、轟は続けた。
「確か怪奇幻想小説――まあ、いわゆるホラーとかファンタジーってやつ――を専門に書いてる人だったと思うけど。ジャンルが違うから、あんまり顔合わせたこともないし、よく知らないんだけどね」
「でもそれを言ったら黒峰さんだってミステリーで、ジャンルが違うじゃないですか」
俺がそう突っ込むと、
「いやまあ、それはほら、なんていうか……」
気まずそうに、ちらちらと新時の様子を窺う轟。
しかし新時の方は、こちらの話題になっていることなど気付く素振りもない。己の胃袋と格闘するので精一杯のようだ。
「黒峰先生は人気作家だからね。あの人はまだ駆け出しっていうか、売り出し中って感じみたいなんで。僕自身、あの人の本はまだ読んだこともなくて」
耳打ちするような小さな声で、そう付け加えた。
「他にも知ってる方はいるんですか?」
英介がさらにそう訊くと、轟はぐるりと一通り車内を見渡した。
「そうだなあ、夜熊監督はまあ当然として、他にはいないかなあ」
もちろん彼にはそんな気など毛頭ないのだろうが、夜熊を知らなかった俺に対する当てこすりのような気がして、少しムッとした。
「ああ、でも確か、あの西之葉っていう人」
轟は左前の方に座しているマスク女を示した。
「どっかの出版社で見かけた気がするな。その時もあんな格好だったから、多分そうだと思うけど」
「あれはやっぱり潔癖ってことなんですかね?」
と訊いてみたのだが、それについてはよく知らないのか、曖昧な答えしか返ってこなかった。
「さあ、どうだかね……。ってか、敬語いいから。同い年くらいなんだし、せっかく気兼ねなく喋れそうなんだから、そうかしこまらなくてもね。ここで会ったのも何かの縁だし、仲良くしようよ」
彼は馴れ馴れしく、俺と英介の肩をポンと叩いた。
「はあ……」
俺はどうにも彼の軽い調子についていけなかった。人のパーソナルスペースに、土足でずけずけと踏み込まれているような気がして、あまり快くない。
車酔いで胃もむかむかしているせいで気が立っている、というのもあるが元来の人見知りな性格が影響しているのだろう。
「あれっ」
その時、車内の何人かが小さく声をあげた。英介もまたその一人だった。
「まったく、圏外だってさ」
英介が手元のスマートフォンの画面を俺に見せつけた。
確かに、その右上の電波のマークは、一本も立っていない。画面中央にも、通信エラーのポップアップ。
山の陰に入って、電波が届かなくなったのだろう。
そう思っていたのだが、それからさらに数分走り続けても圏外のまま。
とうとう痺れを切らした若い女が、自頭に向かって文句を垂れた。
「ちょっと運転手さん、ネットが使えないじゃない。どうなってるの」
露出の多い茶髪の女。湯木だ。
自頭は前を向いたまま、声色も平素の調子で、何でもないことだと言わんばかりに答えた。
「この辺り一帯は、どこも圏外でございます」
「この辺り一帯……ってことは、もしかしてお屋敷の方もってこと?」
「左様でございます」
「流石に館に行けば、電話やネット環境はありますよね?」
恐る恐るそう尋ねたのは、無精髭で猫背の男――挟丘拓真である。
しかし、自頭はやはり平然としたまま、
「いえ、旦那様はこの度の集まりで、皆様方とゲームをしようとお考えです。その一環として、館から全ての電話やインターネット回線を取り払ってしまわれたので」
「おいおい、そんなこと聞いてないよ」
「ちょっと横暴すぎやしませんか。せめてあらかじめ一言言ってくれれば、こっちも気持ちの準備くらいはできたってのに」
周りから非難の声が次々と上がる。
「申し訳ございませんが、私は旦那様の言いつけに従ったまでのことですので、私にそう仰られましても……」
大勢に迫られ、自頭も困った様子で返答に窮していたが、
「まあまあ、いいじゃありませんか。せっかくのパーティーなのですから、スマホやPCで独りネットに夢中になるより、この一期一会の出会いを大事にして、私たちも親睦を深めようじゃありませんか。どうやら皆さん、私と同じで、この中に知り合いはあまりいらっしゃらないようですし」
映画監督の夜熊が助け舟を出した。いかつい風貌の割に、まあまあと仲裁役を取り持ち、車中の騒ぎを鎮めようとしている。
しかし彼の言うこともなるほど一理ある。それでこの場は一旦静かになった。
それを見て夜熊は満足そうに腕を組み、背凭れに身体を預けて目を瞑った。
それにしても、またもや携帯の繋がらない場所に来ることになるとは。
どことなく嫌な予感が頭の中を過ぎる。
しかし今は、自分の胃袋の暴走を抑えつけるので一苦労で、そっちに気を向けるような余裕は微塵もなかった。
バスは未だに走り続けている。まだまだ先は長そうだ。
俺も夜熊に倣って、目を瞑ることにした。