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新時はともかく、夜熊を抜きにしてしまうと、ストッパーの外れた轟が止まるところを知らない。
ぐいぐい自分の話を喋り始めたかと思うと、今度は他人を質問攻めにする。おまけにそれがかなり突っ込んだところにまで及ぶものだから余計質が悪い。
正直周りも迷惑そうな顔をしているが、轟とは違ってストレートに文句を言う度胸はなく、オブラートに包んだ上で遠回りな注意しかできない。こういう時は察しの悪い轟にそれが通じる訳もなく、結局ずっと彼の独壇場だった。
いつの間にか、西之葉や湯木と言った女性陣は、彼を説得するのは諦め、こっそり輪から離れてそっちで別の話題を始めていた。一方的に激しい会話の千本ノックを受けているだけのこっちより、緩いキャッチボールをしているあっちの方がよっぽど羨ましく見えた。
コーヒーも飲み終わったし、彼の話にもうんざりしてきたので、そろそろ俺は部屋に退散しようかと思ったその時だった。
――ガタッ。
突如、背後で椅子が倒れる音がした。
「っぐ、ぐふっ」
嗚咽のような噎せたような声が漏れる。
全員の視線がそこへ集中した。盛り上がっていたラウンジが、水を打ったように静まり、すべての動きが止まる。
ただ一人、椅子から立ち上がり、両手で首を押さえた夜熊だけが、周りとは違う時間の流れの中にいた。
目を見張り、鼻の穴を広げ、口を大きく開いた夜熊が、激しく肩を揺らして、空気を吸いこもうとする。その彼の動きは止まらず、むしろ激しくなった。
よろよろした覚束ない足取りで、俺たちの方に近づいてくる。
だが、何を言うわけでもない。いや、何か言おうとしているが、声が出ていない。口がぱくぱくと開閉するだけ。喉から出てくるのは、掠れた声のような音を出す空気の流れ。
一人で唐突にダンスを始めたかのように、足を奇妙に動かしながら、死へのステップを踏みながら、さらに俺たちに近づいてくる。
かと思うと、今度は歩みを止めて皮膚の上から心臓を鷲掴みにするように胸を押さえた。
バランスが崩れ、絨毯の上に跪く夜熊。そのまま、受身も取らずに床に上半身までも倒れこんだ。
一連の動作はまるでスローモーションのように、滑らかで緩やかだったが、それは僅か十数秒の間のことだった。
そのまま瘧のように震えていた身体の動きがようやく鎮まるまで、俺たちは誰一人として、そこから動くことができなかった。
呆気にとられて、夜熊の奇矯な行動に目を奪われて、正常な思考ができずにいたのだ。
俺たちを揶揄って演技でもしているのか、そんな風にさえ思えた。
今、夜熊が完全に静止すると、やっと俺たちはその呪縛から解き放たれた。
「夜熊さん!」
慌てて駆け寄る俺と挟丘と自頭。結と晶が悲鳴をあげる。
他の面々は、未だに眼前での出来事が信じられない様子で、遠巻きにその様子を眺めるばかりだ。
「だっ、大丈夫なのか?」
恐る恐る英介が尋ねてくるが、まだ脈も取っていない。
俺は夜熊の袖を捲り、動脈に指を添えた。同時に、口元に耳を寄せる。
ぴくぴくと指先に圧迫を感じる。だが、耳に当たる風は弱々しい。
「まだ脈も呼吸もあるみたいだけど……」
夜熊の目の前で手を振ってみる。目線が手の動きに応じて左右に動く。意識はまだあるようだが、反応が鈍い。腕を持ち上げてみても、力が全く入っていないようで、重力に逆らえずにだらりとしている。ずっしりとした重みを感じた。
「きゅ、急にどうしたんですか。病気か何かですか? 二日酔いってこんなに酷くなるものなんですか?」
湯木がパニックを起こしている。俺は医学に関しては素人同然だが、これはどう見ても二日酔いなんかじゃない。
「や、夜熊様に持病があるとは聞いたことがございません」
自頭がそう断言した。
「わ、私たちも、そんなことは一度も」
「聞いたことはありませんでした」
肩寄せ合って怯えている結たちもそう同調した。
「となると、可能性があるのは――」
「毒ですか」
西之葉の放った”毒”という物騒な言葉に、自然と場に緊張が走る。
「その可能性が高いでしょうね。今考えてみると、そもそも夜熊さんの調子がおかしくなり始めたのは、朝食を摂った後だったように思います」
挟丘のその意見には、俺も賛同する。
「ってことは、朝飯に毒が?」
轟が気分悪そうに言った。
「そこまではわかりませんが、とにかくラウンジはこのままにして、誰も何も触らないようにしてください。特に夜熊さんが使っていたと思われる食器には、絶対に近寄らないでください。それと、誰か応急処置ができる人はいませんか?」
メンバーを見回すが、誰も名乗り出る者はない。視線を向けると皆逸らしてしまう。
「自頭さんはどうですか? わかりますか?」
困り果てて彼に問いかける。
この熟練の老執事の風貌や佇まいから、彼にはわからないことなどないようにも思える。それこそ、症状から何の中毒かまでも把握できそうに感じた。
だが、そんなにうまい話があるわけもなかった。
「怪我の応急処置ならともかく、毒ともなると……私も門外漢でございますから何とも……」
自頭は申し訳なさげに俯いてしまう。
毒に精通している人間など、早々いるはずもない。それもこんな閉鎖空間でとなると、知っている人間がいる方が逆に不自然だ。
「とりあえず、夜熊さんは一旦部屋に運びましょう」
自頭と挟丘にも頼んで、俺が夜熊の肩を、二人がそれぞれ脚を抱えることになった。
腰を屈めて声を掛け合い、今まさに持ち上げようとしたとき、挟丘が何かに気付いた。
「あっ」
「どうかしたんですか」
夜熊の脚から手を離し、そのまま四つん這いになると、彼は近くのテーブルに這い寄った。床にまで垂れたクロスの中に腕を突っ込み、そこから何かを取り出す。
「こんなものが、テーブルの下に」
それは、四つ折りにされた白い紙だった。
まさか――、
第一の殺人の光景が蘇る。あの時も雉音の部屋から、こんな紙を発見したのだった。
ごくりと生唾を飲み込みながら、俺は紙を開いた。
―――――――
――がふっ。
そんな奇妙な、抑え込んだ笑い声か、軽い咳払いのような声が、社交室に滴り落ちた。
水面に落ちた雫が波紋を四方に広げていくように、その音が室内に広がっていく。同時に、場がしんと静まり返った。
振り返ると、珈琲碗を手に持った一人の男が、背を丸めて首元を押さえている。
再び生を受け、地獄から蘇った屍人の如き足どりで、こちらに歩み寄ってくる。
指の間から抜け落ちるように、碗が滑り落ちた。音も立てずに絨毯の上に落ちたそれは、縁で駒のようにぐるりと回転してからようやく動きを止めた。絨毯の毛に珈琲が染みる。
男は気にもせずに、亡者のように彷徨する。
その足さばきは、さながら舞を踊っているかのような動きだ。死への舞を踊るかのような。
全身の穴という穴から空気を吸い込みたくて仕方がないというように、目をかっ開き、鼻も口も全開で喘いでいる。
その姿を見ながらも、誰も手助けしようとする者はない。
唐突なできごとに、誰も彼も、ただその眼を疑いながら、珍妙な舞を踊るその男を、好奇の目で見るほかにないのだ。
そうこうしているうち、男は苦悶の絶頂に達し、もつれた足のおかげで全身を絨毯に吸い込まれた。
社交室には、息も絶え絶えでもがき苦しむ夜熊保の、掠れた吐息だけが響いていた。
―――――――
その文面で、夜熊の一件が第二の事件なのだと確信した。
原稿を持つ手に自然と力が入る。こんな真似をして、悪戯に人の命を弄ぶ犯人への怒りだった。
しかし、これは重要な証拠品だ。傷つけてしまう前に、俺はそれをテーブルの上に叩きつけた。
「その原稿……やっぱり」
「黒峰さんが、今度は夜熊さんを?」
ラウンジが再びざわつき始める。轟や新時や湯木たちが、憶測を並べ立て始めた。次は俺たちではないかと言う怯えも見受けられる。
立て続けに参加者の命が狙われているのだ。そう思うのも無理もないが、今はそれどころではない。
結や晶も信じられないという顔でいる。自分の父親が犯行を重ねてしまったかもしれないのだ。そして今度は、その瞬間を目の前で目撃してしまっている。ショックを受けないはずがない。
下手に刺激を与えれば、一瞬で暴動でも起きかねないパニック状態だ。
「とにかく!」
俺は柄にもなく大声を張り上げた。急に喉に力を込めたから、声が裏返ってしまう。
しかしおかげで、みんな静かになって、俺のほうに注意を向けた。
「とにかく、今は夜熊さんの命が最優先です。彼を部屋に運びましょう。自頭さんと挟丘さんは、彼に付いていてください。俺は図書室で何の毒か調べてみようと思います」
あの図書室には、多くの学術書や事典があった。毒に関する詳しい書物もいくらでもあるはずだ。
膨大な量だろうから時間はかかってしまうが、ネットがなくとも、なんとか知識を得ることができるだろう。毒に対する応急処置もわかるかもしれない。
「私たちも」
「手伝います」
結と晶が名乗り出てくれた。人手が増えるのはそれだけで有難い。
「俺も手伝うよ」
さらに英介もそれに続く。しかし、彼にはほかにやってもらいたいことがあった。
「いや、お前はここで、夜熊さんの使ってたコップや食器に誰も手を触れない様に、見張っててほしいんだ。頼む」
「わかったよ」
文句を言われるかもしれないと思ったが、すんなり引き受けてくれた。うだうだ言っていられる状況ではないと英介もわかっているのだ。
「では、他の皆さんは、このままラウンジで待機していてください」
俺たちは急いでエレベーターに乗り込み、三階の図書室へ向かった。
図書室に入ると脇目も振らずに本棚に駆け寄る。分厚い学術書のゾーンに片っ端から目を通していく。
毒、毒、毒。
毒に関する本はどれだ。
英語の本もあるが、俺の英語力では毒がpoisonだということはわかっても、中身の精査まではとても不可能だ。漢字のタイトルだけに絞って指さしで確認しながら、一つ一つ確認していくが、なかなか見つからない。
結や晶も手分けして探してくれているが、まだ発見できていないようだ。
気持ちばかりがはやってしまう。焦りで手に汗が滲み出る。
「あった、ありましたよ!」
結、いや、晶か?
未だに彼女たちの区別がついていなかったが、今はそれよりも何よりも急がなくては。
急いで声を上げた彼女に駆け寄る。
「本当ですか?」
「あそこ、あそこです」
脇から彼女が指差す棚を見上げた。毒に関連した本がそこにずらりと並んでいる。
が、俺は舌打ちせざるを得なかった。
こんな時に限って、その本は俺の身長の遥か上方、棚の最上段にある。背の低い彼女たちはもちろん、俺だって手を伸ばしてもあそこには指先も届かない。
慌ててキャスター付きの椅子を机のほうから運んできて、そこによじ登った。
キャスターのおかげでぐらぐらしていたが、結たちが支えてくれた。
淡白な背表紙と小難しいタイトルでは、どの本がいいのかまるでわからない。とにかくごっそり一気に取り出して、下にいる姉妹に手渡していった。
粗方出し終えると、今度は床の上だろうと構わずに本を開き、ページを一枚一枚確認していく。
ばしゃばしゃ音を立てて一心不乱にページをめくりながらも、頭の中に夜熊の事を思い描いていた。
夜熊にどんな症状が現れていたか……。
脳裏に轟と夜熊の会話が再生される。
「これまで以上に慎重な行動をこっ、心掛けた方が良さそうだな。何しろ、ここから出ら、……出られるようになるまで、あと丸二日あるわけだからな」
「おやおや、夜熊監督、二日酔いですか? 偉そうなこと言ってるけど、監督自身もあんまり飲み過ぎるのはどうかと思いますよ」
急に舌足らずになった夜熊。あの辺りから、こめかみを押さえたり、苦しそうに顔を顰めたりしていた。
恐らく、あの時点で既に発症し始めていたのだろう。
となると、朝食を摂ってから既に四十分以上経っているし、食後のコーヒーを飲み始めてからは二十分くらい経っていた。かなり遅効性の毒物であることがわかる。
今度は倒れる瞬間の夜熊が脳内で再生された。
あの時、夜熊は呼吸ができずに苦しそうにしていた。倒れた後も弱々しい息を吐くばかりだった。腕には殆ど力が入っていなかった。つまり、目立った症状としては呼吸困難と四肢の麻痺だ。
この本で調べる限り、これに合致する毒の種類は神経毒だ。
俺はそこから、神経毒に属する毒のページに、特に注意を払って読み進めていった。
時計を確認する。
この作業だけで既に三十分以上経過してしまっている。こうしている間にも、夜熊の容態は悪くなっていく一方だろう。挟丘と自頭が彼についているから、何かあれば連絡してくれるはずだ。しかし、逆に言えば今のところ彼らにはそれしかできない。
とにかく毒が何なのかを特定しなければ、正しい処置もできはしないのだ。呼吸が弱くなっているからと言って、下手に人工呼吸を施したりすれば、今度は彼らのほうが中毒になる危険性も孕んでいる。
俺は急ぎながらも、今一度深呼吸してなるべく頭を落ち着かせて、ページを先に進めていった。
「……これだ」
そうして、ようやく俺は該当するページを見つけ出したのだった。
だが、ここで達成感を覚えている場合ではない。休憩している暇など微塵もないのだ。刻一刻と無情に時間は過ぎ去っていく。もう夜熊の発作から小一時間が経過しようとしている。
俺は散らかした本を片付けもせず、その本を小脇に抱えたまま、姉妹を引き連れて再びエレベーターで階下に向かった。
まだ、夜熊はまだ、助かるかもしれない。




