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鏡館殺人事件  作者: 東堂柳
第五章 図書室を這い回る影
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3

 夜になったものの、どうにも神経が昂って寝付かれない。

 そこで、新時は図書室から本を借りて、少しでも気を紛らわせようと一計した。

 しかしそうなると、夜中の寂とした館内を一人歩いていく他ない。昼間は明るいし、他の参加者も出歩いているから、恐れもそれほどでもなかった。だが、皆が寝静まった深夜に、黒峰先生に鉢合わせでもしたら――新時は完全に黒峰を犯人だと信じて疑わないようだ。そのお陰で、気に食わない様子の姉妹を宥めて話の先を促すのに一苦労だった――、一巻の終わりだ。そう悶々としていたが、ただ布団に包まりながら寝返りだけ打っていても、余計に恐怖が膨れ上がるだけで、何の解決にもならない。

 仕方なしに、図書室へ向かうことにした。

 それが丁度深夜の二時頃だ。

 廊下の電気も既に消灯されていたが、足元を照らす常夜灯のおかげで、苦もなくラウンジへと来ることができた。

 人気のないラウンジは、昼とはまるで印象が違う。館主の邪悪な企みに染まったように、闇を纏った空間。外からの照明の明かりが中途半端にラウンジを照らしているものの、それがかえって間隙に残った闇を濃くしているのだ。

 バーカウンターの中に誰か潜んでいるかもしれない。あるいはグランドピアノの陰に。

 そう考えると、居ても立っても居られない。壁の鏡に映った自分の姿にさえ、不意を突かれて心臓が止まりそうになる。

 エレベーターのボタンを意味もなく連打した。ラウンジから逃れるように。

 扉が開くと、その明るさに、新時は思わず安堵した。ここには暗がない。四方も上下も、見渡す限り明だ。明かりというのは、人を安心させる不思議な力がある。

 そんな感慨に耽りながらも、急いで箱に乗り込み三階へ向かう。

 乗っている間も、扉が開いたら、ホールで黒峰先生が待ち構えているかもしれない。

 そんな不安や恐怖に駆られていたが、そこまでは何事もなく、無駄に怯えただけで済んだ。

 だが――、

 図書室の前まで来た時だ。


 ――ガサッ。


 中で何かが蠢いているような音がする。

 先客か。

 とも考えたが、どうも妙だ。

 ドアの隙間から光が漏れていない。図書室は昼間に訪れたが、壁にこれでもかと本棚がへばりつき、窓が一切ない造りになっている。夜中は明かりを点けなければ、本など読めるはずもないのだが。

 気のせいかと思い直し、ドアノブに手をかけた時、またしても


 ――ガサッ、ゴソッ。ドサッ。


 室内から物音がした。

 ぼそぼそと何か呟いている。ぴたりと扉に顔を寄せて耳をそば立てたが、くぐもっていて聞き取れない。

 だが間違いない。誰かが、確実に誰かが、図書室の中にいる。

 それも、電気も点けずにだ。

 新時は瞬時に察した。

 黒峰先生だ。そうに違いない。

 何をしているのかは知らないが、夜な夜な図書室で、それも人目を憚るようにこんなことをする人は、黒峰先生以外考えられない。

 引き返そうかとどれだけ躊躇しただろう。

 しかし、何の気の迷いか、新時は扉を細く開いたのだ。


 ――ギイッ。


 思いの外、扉の耳障りな軋みはその静かな空間に響いた。

 瞬間、ぴたりと中の気配が動きを止める。

 扉越しに、その何者かが新時の姿を捉えている。新時もまた、扉から目が離せなくなった。

 隙間からその正体を垣間見ようとするのだが、ホールの頼りない常夜灯では図書室の闇を払うことはできない。それどころか、その橙の光は黒に飲み込まれてしまっている。中の様子は毛ほども捉えることができない。

 だが、確かに中に誰かがいる。それだけははっきりとわかった。

 その深淵へと続くドアからにゅうっと手が伸びてきて、常闇の世界へと引き込まれてしまう。

 そんな光景を想像して身を震わせたが、それでも視線を逸らせなかった。

 目を背けた瞬間、それが襲いかかってきそうで、嫌でも釘付けになるのだ。

 再び、その何者かが部屋の中で動く気配を感じた。


 ――ズッ、ズッ。


 まるで床を這い回っているような、床を擦る音。

 それが段々と近付いてくる。


「ひっ」


 思わず悲鳴が口から漏れ、新時は扉から数歩後退った。

 全身を駆け巡る恐怖によって、妄想が加速する。作家というものは、得てして常人よりも想像力が豊かなものだが、こういう場面ではそれが裏目に出るのだ。

 新時の頭の中では、戸口の向こうの世界にいる存在は、既に黒峰ではなかった。

 黒峰に取り憑いた悪霊。黒峰の皮を被った何か。彼岸から迷い込んだ得体の知れない魔物。

 それが今、新時めがけて迫ってきているのだ。


 ――ズッ、ズッ。


 這う音。だが音が大きくなっているわけではない。距離が、音源自体が、近づいている。

 扉越しの恐怖の存在に全身が粟立ち、総毛立った。

 また一歩離れようとするのだが、そこで足が縺れてしまった。

 絨毯に足を取られ、そのまま腰をついてしまう。

 だが、眼前に迫り来るそれが、待ってくれるはずもない。

 来る。来ている。もうすぐそこまで。


 ――ズッ、ズッ。


 自らの終焉を悟った新時だったが、その時はいつまでたっても訪れなかった。

 再び静寂に支配される。

 すっかり腰を抜かした新時だったが、もはや彼には図書室を調べないという選択肢はなかった。

 恐怖の頂点を通り越して、今や好奇心へと変貌している。

 向こう側の存在を、一目見てみたい。

 怪奇幻想をテーマにした小説を手がけている彼にとっては、それはある意味で一つの望みでもあった。

 恐る恐る新時はドアに手をかけ、ゆっくりと扉を開いていった。


 ――キィイイイイイイ。


 木製のドアが軋む高音だけが、部屋中にこだまする。


「だ、誰か、いますか?」


 肺から絞り出すように声を掛ける。

 しかし、暗闇の中からの返事はない。この深い闇を見ていると、そこに吸い込まれそうだ。

 危うさを感じた新時は壁を手で探り、電灯のスイッチを入れた。

 急激な明るさに、思わず目が眩む。しかし、細めた双眸が捉えた部屋の中には、人の姿など存在しなかった。

 図書室には、誰もいなかったのだ。

 だが、中央に配置された机の上には、まさについ先程まで誰かがそこで読書を嗜んでいたかのように、真ん中に分厚い学術書が一冊開かれている。その両側には、これから目を通すのか、あるいは既に読み終わったものか、何冊もの分厚い本が塔のように積まれていた。

 悪霊ではなかった。ここにいたのは、紛れもなく黒峰先生だ。夜な夜な僕たちの目を盗んで、ここで本を読んでいたのだ。

 夜熊さんたちが倉庫で消失した先生の姿を見ている。同じようにして、今度は図書室から煙の如く消え去ったのだ。

 恐れ慄いた新時は読書どころではなく、慌てふためいて自室に戻った。

 まさに神出鬼没だ。あの人が犯人なら、どんな策を講じても、何の意味もなさないだろう。そもそも、ここはあの人の館なのだから。初日のパーティーでも、言っていたではないか。この館には仕掛けがあると。それを使って、出没と消失を演出しているのだ。

 布団に引っ込んだものの、あまりのショックに新時はその晩、一睡もできなかった。

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