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鏡館殺人事件  作者: 東堂柳
第四章 煙の如く消失した当主
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 部屋の四方の壁は、蟻一匹入れるほどの隙間さえなく、天井まである高い棚で完全に埋められて、その中にはぎっしりと本が詰まっていた。それだけでは入りきらないようで、並んだ本の上に空いている間を塞ぐように、さらに本が横に積まれている。

 本のカバーはどれも綺麗だ。年月のせいで色褪せてしまったものもあるが、破けてはいないし、皺もできていない。文字もまだちゃんと読める。ほんの僅かに出来てしまった書架の隙間には、埃も溜まっていない。

 それだけでも、どれほどここの主人が蔵書に気を配っていたか、想像に難くない。

 そしてそのラインナップも、そうそうたるものだった。

 有名どころの江戸川乱歩や横溝正史を始め、海外勢ではアガサ・クリスティやエラリイ・クイーンなども並び、さらには俺でも名前も見たことのないようなマイナーな作家の本まである。

 この蔵書の量には、新時や湯木も度肝を抜かれたようで、唖然としながら部屋を見回している。


「古今東西、ありとあらゆるミステリーが並んでいるんじゃないかな」


 状況も弁えず、思わず興奮してしまっている自分がいた。自然と鼻息が荒くなる。

 まさに宝の山だ。

 あちらこちらに視線を移し、無意識のうちに未読の本を探してしまう。


「旦那様は推理小説をお書きになりますが、もちろん読むのもお好きでして、これは旦那様のコレクションのほんの一部でございます」


 自頭がどこか誇らしげに説明する。


「ということは、東京の豪邸の方には、もっとたくさん?」


「はい、左様でございます」


 いとも平然と言ってのけるものだから、俺も魂消た。

 ここにある量の本でさえ、俺が所有している推理小説の五倍ほどはあるのではないか。東京の自宅には、さらにこれよりも多くの本が所蔵されているというのだから、もう驚きを通り越して呆然としてしまう。


「見てみろよ、ミステリーだけじゃなく、色んな分野の資料もあるぞ」


 英介が目を奪われていたのは、分厚い百科事典や医学、薬学、植物学、建築学など、幅広い分野にわたって取り揃えられた学術書だった。

 俺に言わせれば枕の代わりにする他ない本だが、どれもこれも枕よりもずっと厚みがありそうだ。下手をすると背表紙が表紙に見えてしまう。

 こんなに厚い上に、中にはゴマ粒のような細っかい字で、ずらずらと面白みもないことが書かれているのかと思うと、見ているだけでぞっとするほどの嫌気が差した。


「書くときの参考になるんだろう。ここはネットも通じないし」


 興味深そうに繁々と眺める英介に、俺はぶっきらぼうに返した。

 それにしてもこの部屋は、壁面が書棚で覆われているだけ。

 この大量の本が収められた棚を動かすのは、とても一人では無理そうだ。唯一、人が身を隠せそうな場所というと、部屋の中央にある立派な木製のデスクだけだ。

 暗い茶色の机は、ニスで表面がてかてかとしていて、照明の光を反射させている。

 こうした大きな机の椅子をしまうスペースなど、人が隠れるには相応しい場所だ。だが、回り込んで机の下を覗いてみても、やはりそこには何もなかった。

 机の抽斗は三段あり、一段目と二段目には小物と筆記具が収納されている。三段目は上の二段分ほどの深さがあり、ファイルが収められていた。『鏡館殺人事件』の原稿でもあるかと思ったが、そんなわけはなかった。

 結局、二階と三階では黒峰の姿は見つからず、隠し通路の類もなく、ラウンジに戻って夜熊のグループを待つことにした。

 しかし、エレベーターを降りてラウンジに入ると、そこには既に夜熊たちがソファに腰を下ろして待機していた。


「もう終わってたんですか?」


「ああ、一階の客室は全部調べた後だったから、意外と調査する場所は少なくて済んだからね」


 俺が誰にともなく訊いてみると、答えたのは挟丘だった。

 しかし、彼らの表情も優れていない。わざわざ訊かずとも、容易に回答は予想できたが、それでも駄目元で一応尋ねた。


「それで、何か見つかりましたか?」


「いいや、なあんにも。先生が消えた倉庫ももう一回隈なく調べてみたんだが、隠し通路のようなものも一切見つからなかった」


 夜熊が顔の前で、てんで駄目とばかりに大きな溜息を吐いて肩を竦めた。


「俺たちの方もダメでした」


 そう告げると、夜熊は頭を抱えた。


「しかしそうなるとだ、黒峰先生は、あの倉庫からだけではなく、この館からも綺麗に消え失せたことになってしまうな」


 やるせない溜息とともに、ふと漏れ出たような調子だった。

 外部から孤立しているはずの鏡館から、恰も煙の如く消失した当主。彼がどこへ行ってしまったのか。

 それは恐らく、今この場にいる全員の脳を支配している疑問だろう。もちろん、答えられるものなどいない。

 気まずい沈黙がラウンジに訪れ、皆夜熊と視線を逸らす。

 目線がかち合ったら、何か知っているのではないかと思われそうで、自然とそうなるのだ。

 しかし、静寂を打ち破ったのは、新時の怯えた震え声だった。


「きっと秘密の部屋があるんだ。そこに身を潜めて、機会がきたら僕たちを一人ずつ……」


 先程から、彼のこの徒らに恐怖を増長させるような態度に、些か俺たちも辟易し始めていた。

 秘密の部屋も何も、そんなものがないことは、たった今調べてわかったことではないか。

 またかとうんざりした様子で、彼の妄言を右から左に受け流す。


「そんな秘密の部屋なんかより、もっと現実的でまだ調べていない場所があるじゃない」


「えっ?」


 湯木の言葉に、俺は驚いて訊き返した。

 そんな場所、まだあっただろうか。隅から隅まで調べ終えたような気がするのだが。

 しかし、彼女の口から飛び出たのは、まるで意外でもなんでもない、至極当たり前の答えだった。


「エレベーターの天井裏よ。あそこなら、隠れるのにはうってつけでしょう」


 思わずあっと声を漏らしてしまった。

 まったく、どうして今までそこに思い至らなかったのだろう。

 ミステリーでも、エレベーターの天井裏を犯人が使うトリックはよくあるではないか。

 しかし、それを自頭が否定した。


「それはあり得ないと思いますが……」


 どうしてですかと先を促すと、彼はさらに詳しく喋り始めた。


「エレベーターの天井裏に出るための点検口は、業者が使う特殊な工具でないと開きませんし、この館にはそんなものはございません」


「何も点検口から行かなくても、エレベーターの扉をこじ開けて天井裏に飛び降りればいいのでは?」


 夜熊がそう切り返したが、やはり自頭は首を振った。


「それも不可能でございます。扉を強引にこじ開けると、館中に警報が鳴り響くシステムになっております。その上この警報は、鳴らない様に設定することもできません」


「それを信用してもいいんですか? 自頭さんは黒峰さんに長年仕えてきた執事ですよね。彼を匿っているのかもしれません」


 相変わらず疑り深い新時だ。こんな時だから、そのくらいのほうがいいだろうが。

 自頭は長年仕えてきたからと言って、犯罪者に加担する気はないとはっきりそう言ったが、新時の訝るような顔つきは変わらない。どうしたものかと自頭が頭を悩ませていると、そこへ片郷が助け舟を出した。


「私もそう聞いていますし、実際そうでしたよ」


「実際、と言うと?」


 詳しく聞こうとすると、彼女は少し顔を赤らめて、恥ずかし気に言った。


「実は、皆様が到着される前に、閉まりかけていたエレベーターに、慌てて無理矢理入ろうとしたら、警報が鳴ってしまいまして。すっごくうるさかったですし、多分館内にいればどこでも聞こえたと思います」


 自然にはにかむ彼女の態度から、それが嘘には見えない。


「私たちも」


「それを聞いていましたわ」


 結と晶もそれを裏付ける証言をする。


「自頭さんが皆さんを」


「迎えに行っている時でした」


 自頭とは違って、片郷は今回のパーティーの為に雇われた新人だ。いくらご主人様と言えども、殺人犯を庇うなんてことまではしないだろう。

 新時もそれで少しは納得したようだった。


「つまり、俺たちに気付かれない様に、エレベーターの天井裏に潜むのは無理ってわけか……」


 黒峰の居場所を突き止められそうだったのに、また振り出しに戻ってしまった。

 各々再び考え始めてしまい、ラウンジが静かになった。


「ところで……すみません、朝食の方はどうしましょう?」


 所在無げにしていた自頭が、ワゴンを示しながら尋ねた。

 ワゴンの中には、銀色のカバーを被せられた料理が詰められている。


「そうですね。せっかく用意してもらったわけなので、頂くことにしましょうか」


 夜熊の鶴の一声で、摂り損ねた朝食にありつくことになった。

 時刻は午前十時半。死体発見から、もう二時間半も経っていたのだ。

 自頭がテーブルの上に料理を並べていくと、その匂いですっかり忘却していた空腹感が再燃してくる。

 朝に相応しい、スクランブルエッグやベーコン、トーストにサラダといった重苦しくない洋食。炊飯器に詰められたままの白米と、鍋のままの味噌汁。さらに焼き鮭や納豆などの和食も充実していた。

 朝食もバイキング形式というわけだ。

 自頭と片郷だけでなく、結や晶、それから自然と俺たちも手伝って、あれよあれよという間に準備は整った。

 しかしいざ食べてみると、作られてから時間が経ってしまったせいで、卵やトーストはかなり冷たくなってしまっていた。卵はともかく、トーストが冷たいのはかなり辛い。ベーコンも少し脂が固まってしまっている。

 これだけの量を温め直すのは時間も手間もかかるから、と断ったのが仇になった。

 だが、白米と味噌汁は保温が効いていたようで、まだ温かい。自然と俺の手もそちらの方に伸びていた。英介は朝は洋食派なのか、それでも湿気てふにゃふにゃの食感になってしまったパンに、マーガリンを塗りたくって文句も言わずに頬張っている。

 それにしても、見るからに食の細そうな新時のみならず、既に平素の様子に戻っていたように見えた挟丘の手の動きも重い。殆どサラダだけで、それもまるでガムのように、一口入れたらひたすら噛んでいるだけで、一向に喉を通らないようだった。

 無理もないだろう。あれほどの惨劇の現場を目撃してしまったのだから。

 逆に、平然と白米をかき込んでいる夜熊の方が驚きだ。

 何度もこうした事件に巻き込まれている俺でも、雰囲気に飲まれて食指の動きも鈍るというのに、彼はまるで何事もなかったかのように食事をしている。

 俺は気になって、彼に接近した。


「よく食べますね。その……あれを見た後に」


 彼は口の中のものを飲み込むと、


「ん? ああ、まあ、映画監督だからな。グロテスクなやつにはそれなりに慣れているんだ。本物を見るのは、流石に初めてだがな。それに、腹が減ってはなんとやらって言うだろ。食べないと逆に参っちまいそうだよ」


 と今度は味噌汁を啜る。


「それにしても、詳しいですね。死後硬直とか」


 雉音の部屋での一幕を思い浮かべながら、そこにも言及してみた。だが彼は大したことはないと前置きして、


「あれもミステリーものを撮った時に覚えた知識だよ。全く、雑学も人生どこで役に立つかわからんな」


 また白飯を口に流し込んだ。

 ミステリーと聞いて、黙ってはいられない。どんな映画なのかと突っ込んで訊いてみたのだが、彼が答えたのは耳にしたことのないタイトルだった。

 自分で訊いておきながら反応に困っていると、


「まあ、俺のミステリーは評価されないから、知名度は低いんだ。知らなくとも無理はない」


 そう言って、夜熊は卑屈な自嘲の笑みを浮かべた。

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