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「な、なんだ今の悲鳴は!?」
「とにかく、そっちに行ってみましょう」
しかと確かめたので、そんなことはないと思うが、ラウンジから女性陣が鏡越しに見張っているはずだから、仮に倉庫から誰か出て来ればわかるはずだ。問題はない。
一目散に悲鳴の元へと駆ける。大鏡に、悲鳴を聞きつけ今にもこっちに向かって走ってこようとしている片郷の姿が映っていた。
しかし、黒峰の血塗れの格好といい、今しがたの只ならぬ絶叫といい、俺の脳裏には部屋の中の惨劇が手に取るようにわかるようだった。確実にそうだとまで断言できないが、もしその予想が当たっていたとしたら。
まさか彼女たちに、おいそれと見せるわけにもいかない。
俺は鏡越しに、彼女にその場で留まるようにジェスチャーをしてから悲鳴の音源に向かった。
103号室の扉が半開きになっていた。中からああ、ああ、と力ない呻き声のようなものが聞こえてくる。
入ってみると、すぐそこで新時が床にしゃがみこんでいた。目線は奥にあるであろうベッドの方に釘付けで、俺たちが入ってきたことにさえ気付いていない。
「どうしたんですか?」
「あ、あ、……あれ、あれ」
腰を抜かした新時は、まるで役に立たない。壊れた絡繰人形のように、ただただ同じ言葉を繰り返し、部屋の奥を指差すばかり。
ただでさえ蒼白な顔から血の気がなくなり、ほとんど真っ白だ。その上、目が酷く怯えていて、焦点が定まっていない。膝は強烈な寒気に襲われたように、がくがくと震えていた。
「あれ、じゃあ一体何のことやら……」
呆れた夜熊が、自ら奥のベッドルームに向かう。
仕方なしに、俺と英介も彼の後ろについていった。
そしてそこで目にした光景に、やはり絶句する羽目になった。
新時の異常な反応を見ずとも、もちろんある程度の予想はついていた。それに、これまでにも何度も凄惨な現場を目撃してもいる。
だが、それでもこんなもの、慣れるわけがない。
俺は思わず、ああと溜息を漏らした。しかしすぐにその息を止める。そのまま呼吸していると、その場の悍ましい光景の毒牙にやられて、胃の中を空にしてしまいそうだったからだ。
白い壁紙に、飛び散った大量の血液。それは天井にまで届いていた。
赤黒く固まった血みどろのベッドの上に、仰向けに倒れた雉音定春の死体。その形相は、まるで般若の面のように険しい状態のまま、微動だにしない。かっと目玉を飛び出させんばかりに両目を見開き、ついさっきまで断末魔の叫びをあげていたかのように、口を大きく開いている。そして腔内には血溜まりができていた。さながら、自らの血の海で溺れたかのごとくに。
寝巻き用のガウンを身に付けているのだと思うが、上半身を滅多刺しにされているせいで大半が切り裂かれていて、殆ど原型を留めていない。
胸の辺りに、凶器のナイフの柄が突き立っている。柄の方まで血でべっとりだ。
「そんな……、まさか……」
口元を押さえる英介。
「なんてことだ……」
夜熊は顔を覆った。
死体から目を逸らし、その周りに目を向けると、今にも頽れそうな自頭が、壁に凭れかかるようにしてなんとか堪えていた。しかしその細い目を目頭が裂けそうなほどに、これでもかとひん剥いている。口は水面から顔を出した金魚のようにぱくぱくとしていて、声が喉から出てこないようだ。顔を歪めているせいで、まるで一瞬のうちに十歳も老けたように見える。
挟丘は割と余裕そうな表情だが、それでも直に死体を見ることができずに、両目をあちらこちらへ泳がせている。昨夜のような推理力で快刀乱麻を断つが如くの活躍は、今の彼には望めそうもない。
頻りに顎髭を毟ろうとしている。ストレスを感じた時の癖だろうか。
「も、もう、私たちがここに来た時には、こんな状態で……」
喉の奥からせり上げてくるものを堪えているのだろう。俺たちを認めた挟丘が、声を詰まらせながら言った。
勇敢にも夜熊が死体に近寄った。険しい顔つきながらも、ハンカチで自分の指紋をつけないようにして、その顎に触れる。
「確か、通常人間の体は、死後一時間くらいで顎が硬直し始めるって話を聞いたことがある。これは少し硬くなり始めているな。血ももう固まっているみたいだから、ついさっき、黒峰先生が出てきた直前に殺されたってわけではなさそうだ」
俺は推理小説でその手の知識は漠然と得ていたが、夜熊も知っているとは。映画監督というのは、こんな知識まで兼ね備えているというのか。
俺は驚きつつも、その傍に寄ってみた。同じようにハンカチ越しに、それを確認する。
「確かに……。となると、少なくともまだ死んでから一時間以内ということになりますか」
死体に近づいてみると、死体の肌が変色しているところのあることに気付いた。血がこびりつき色づいてしまったわけではなく、皮膚自体が赤黒く変色している。手の甲や指先、それから首筋や頬のあたりにも見受けられた。何箇所かに水ぶくれのような跡もある。火傷の跡のようだ。まだ赤みが強く、どうやらこの傷を受けてから、それ程時間は経っていないらしい。
その時、夜熊が死体のズボンのポケットから、何かを引っ張り出した。
「おや、これは――?」
それは掌大の丸い懐中時計だった。外側は金色に装飾されているが、ところどころに大きな凹みがある。
「懐中時計ですかね。今時珍しいですけど……。雉音さんのものでしょうか?」
「ああ、君は知らないんだな。昨日のパーティーの前、君が寝ている間にラウンジで、彼がこの時計を持っているのを轟くんが気付いてね。少しだけその話題になったんだよ。確か、何かのお祝いで会社から貰ったものだと言っていたな」
周りの同意を得ようと、夜熊が自頭たちを見回したのだが、誰もそんな余裕がないようだった。かろうじて英介だけが、頷きを返す。
「そうだったんですか……。あ、壊れているみたいですね」
夜熊が蓋を開けてみると、時計は文字盤のガラスが割れて、ひしゃげた針は完全に止まっていた。まるで主人の死とともに、自らの勤めを終えてしまったかのように。
「午前七時五分か。恐らく、犯人に襲われた時に壊れたんだろう。死後硬直の時間ともおおよそ一致するからな」
つまり、七時五分が彼の死亡推定時刻というわけだ。
「すみません自頭さん、ここに入った時、他に誰かいませんでしたか?」
ふと一つ考えが思い至って、そう訊いてみたが、
「は……? い、いえ、雉音様だけでした」
何を言ってるのかという顔で見返された。
当然か。そんな怪しい人物がいれば、彼らだって取り押えるなりなんなりしたはずだ。
それでも一応隠れられそうなバス・トイレ、クローゼットを調べたが、やはり隠れた人の姿はなかった。
俺は視線を他へと移した。
部屋の隅のテーブルには二枚の紙が、置かれていた。
俺は傍に近寄って、紙を手に取った。
――――――
鏡館殺人事件 著:黒峰鏡一
――――――
一枚目はこれだけ。横向きにした紙の中央に、そう印字されていた。
鏡館殺人事件といえば、黒峰鏡一が次作として発表したタイトルだ。現に著作者として、彼の名前が記されている。
これは新作の表紙なのか。ならば、二枚目の紙はその原稿だろうか。
俺はごくりと生唾を飲み込み、次の紙に目を通した。
――――――
部屋に入った途端、感じ取った。
ただならぬ雰囲気。何か、恐ろしいことが起きたのだ。
わずかに室内に漂う死臭を嗅ぎ取り、直感でそんな風に思ったのかもしれない。
奥へと進むと、その光景に思わず立ち竦むこととなった。
寝台の上に横たわった物体――。それは、もはや生命の活力を失い、ただの肉塊と化した雉音定春の死体だった。
死体の状況は、まさに酸鼻を極めていた。
よほど彼に恨みを持っていたのか、何度も何度も凶器を刺した跡が残っている。寝巻きはもはやずたぼろで、変色した地肌が、切れ間から覗いていた。
大仏のような顔は苦悶に充ち満ちており、光を失った瞳には、犯人への怨みが込められているように見受けられる。
流れ出た血液で、濃紅に染め上げられた掛布団。あたかも、それが生き血を啜ったかのように、雉音の身体にまとわりついている。
おびただしい量の血痕が、部屋じゅうに散らばっていた。
――――――
なんということだ。
二枚目はまさに、小説の形で、この現場の状況を克明に描写しているではないか。
それにこの文体は――、俺も目にしたことがある。
紛れもなく黒峰鏡一のそれだ。
「テーブルの上にこんなものが」
俺は原稿を英介と夜熊に見せた。彼ら以外の三人は、とてもそれどころではなさそうで、見せたところで役に立ちそうにない。
「鏡館殺人事件? これは、黒峰先生の原稿か?」
「みたいですね」
「しかし、鏡館殺人事件はこの間制作発表したばかりじゃないか。どうして原稿がこんなところに」
三人で話し合っているところに、やっと立ち上がった新時がやってきて、ぼそりと呟いた。
「多分、もう出来上がっているんだよ」
「何?」
夜熊が訊き返すと、彼は恐怖に怯えた目で、途切れ途切れに喋った。
「きっと、黒峰先生は既に鏡館殺人事件を完成させていて、そ、そして、その原稿の通りに、僕たちを一人一人殺していくつもりなんじゃあ……」
「馬鹿なことを言うな!」
夜熊が一喝する。びくりと新時が怯んだのをいいことに、さらに畳み掛けようとした。
「そんなこと、いくらなんでも黒峰先生がするわけが――」
「でも、現に皆見たでしょう! ここから立ち去る、血に汚れた先生の姿を! もうゲームは始まっているんだ。本当の殺人ゲームが!」
唐突に新時が声を張り上げた。上擦った声が、彼の抱いている不安の大きさを物語っている。すっかり取り乱していて、周りの不安を悪戯に煽るような発言を繰り返している。
もはや理性の箍では抑えが効かないようだ。夜熊に詰め寄り、驚くほど回る舌で胸中の疑念を片っ端から吐露する。
俺はそんな新時を必死に宥めた。こういう時、パニックになるのは最悪の愚行なのだ。
「新時さん、落ち着いてください。とにかく一旦ラウンジに戻って、他の皆さんにこのことを知らせないと。それから、どうするか考えましょう」
ようやく我に返った様子の自頭や挟丘も加わり、新時を窘める。
自分の言い分が聞き入れてもらえなかったことに不満そうな新時だったが、ともかくこれで少し黙った。
そういうわけで、俺たちはラウンジに引き返した。




