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鏡館殺人事件  作者: 東堂柳
第三章 自らの血の海に溺れた
16/63

3

 夜熊の声に釣られて、何人かがその方向に目をやる。

 俺もその一人だ。

 鏡に映った廊下の左側のドアが、こちらに向かって開いた。そのため、ちょうどドアの影になる形になってしまい、まだ誰が出てきたのかまではわからない。まだ来ていない人物で一階に泊まっているのといえば、雉音か轟だ。しかし、雉音のあの泥酔ようでは、こんな時間に起きてくるとは到底思えない。

 廊下に出てきた人物が、扉を閉めた。

 遮蔽物がなくなり、その全貌が明らかになる。

 その人物は、轟ではなかった。かといって雉音でもない。

 あれは――

 その時、誰かがふと消え入りそうな声を発した。


「黒峰先生……?」


 それでラウンジにいた全員が、そちらに注視した。

 冷暖房が効いて、快適な温度に調節されているはずの屋内で、その人物は厚手のコートと帽子を被っていた。襟を立てて、帽子も目深に被っているせいではっきりとは見えないが、あの顔は紛れもなく、作家黒峰鏡一である。


「お父様が?」


「何をしていらっしゃるのかしら?」


 双子が訝しげに首を傾げる。

 黒峰がこちらに向き直った。

 そうして目にすることのできた、彼のコートの前面の様相に、俺は思わず言葉を失った。


「あ、あれは……」


 コートに付着したその異様な模様に、ラウンジの面々もざわつきだす。


「何、あれ……」


「黒いシミ……、いや、血か?」


「へ、変なこと言わないでくださいよ」


 コートのあちこちに赤黒い斑点のような模様がついていたのだ。その無造作なつき方の模様は、どう見ても元からのデザインのようには見えない。ペンキをあちこちに、無闇矢鱈に跳ね飛ばしたようである。

 そのままこちらに来るかと思ったが、俺たちが見ていることに気付いたのか、一瞬ぴたりと動きを止めた黒峰は、慌てて身を翻して奥へと逃げ込んだ。

 黒峰は突き当りの右側の扉に手をかける。ドアを開けると、差し込んだ光の中に飛び込むように、彼は室内へと姿を消した。扉が完全に閉ざされると、廊下の反対側の壁に映り込んでいた黒峰の影が、周りの影と同化して、完全に見えなくなった。

 束の間、ラウンジから一切の物音が消え失せた。まるでその瞬間だけ真空空間にでもなったかのように、何の音もしない。

 それを打ち破ったのは英介だった。


「あれが、推理ゲームの問題……なんですかね?」


「そのうちまたひょっこり部屋から出てきて、説明してくれるんじゃないの」


「掴みとしてはばっちりだったな」


 皆口々に憶測を並べ立てていたが、それから暫く経っても、黒峰が再びそのドアから出てくることはなかった。


「きっと何かの演出だろう。とにかく、見に行ってみようじゃないか」


 夜熊がそう言いだしたことがきっかけで、


「そうですね。もう推理ゲームは始まっているのかもしれません」


 廊下は行き違うだけでも肩身を狭くしなければならないほど窮屈だ。大勢で向かうのも煩わしいだけと考え、女性陣には一旦ラウンジで待機してもらうことにして、俺と英介と夜熊で黒峰が逃げ込んだ部屋の方を、新時と挟丘と自頭で黒峰が出てきた部屋の方を調べることになった。

 しかし、夜熊が廊下の右側の『105』とプレートのついたドアに手を掛けようとしていたので、俺が慌てて止めに入った。


「ああ、そっちじゃないですよ」


「でも確か、黒峰先生は右側の扉に入らなかったか」


 それはちゃんと覚えているようだが、重要なのはあれが鏡越しの光景だったということだ。

 慌てているせいか、夜熊はそれをすっかり失念している。


「あれは鏡に映った姿ですから、実際には左右反転して左側ですよ」


 そう指摘すると、一瞬ぽかんとした顔になったが、すぐに自分の過ちに気付いたようだ。恥じているのか、自分の額をぴしゃりと叩く。


「あ、それはそうか。これは失敬。やれやれ私の部屋に隠れたのかと思って、肝を冷やしたよ」


 つまり、105号室は彼の部屋なのだ。

 夜熊はそのまま左側の扉に身体を反転させ、ドアノブに手を伸ばした。


「さあ、黒峰先生、どういうことか説明してもらいますよ」


 努めて平然とした調子で言っているが、声が若干震えている。何か尋常ならざることが起こっているのではないか、と恐れているのだ。

 だが、夜熊のその予感は的中することとなる。

 彼はそろそろと扉を開けて、隙間から中を覗き込んでいたのだが、ある程度開いたところで、その表情が固まった。


「ば、馬鹿な……」


 そう呟くとドアを一気に開けて、勢いよく中に踏み込む。顔を見合わせていた俺と英介もそのあとに続いた。

 しかし――、


「い、いない……」


 部屋の中はもぬけの殻だった。

 この突き当りの部屋は倉庫のようで、掃除用具や工具が雑然と収納されているのだが、そこに人の姿はない。陽は既に昇っているものの、部屋の中は薄暗かった。この部屋には照明がないのだ。

 右奥にはロッカーが二つ。左側の壁際には棚が置かれている。いずれも動かされた形跡はなかった。奥の壁には少し開いた窓があるが、おそらく換気用と採光用で人が出入りできるどころか、人間の頭がすっぽり嵌る程度の大きさしかない。


「どこかに隠れてるんじゃあ……」


 英介が奥へと歩を進める。

 彼がまず目をつけたのはロッカーだ。というより、大の大人が隠れられそうなところは、ここくらいしかない。

 英介は勢いよく、両手で二つのロッカーを同時に開いた。

 金属の擦れる、甲高くて鋭い音に眉を歪める。開いた勢いでがたがたとロッカーが揺れる。

 だが、中にはバケツやモップ、雑巾などがあるばかり。黒峰の姿はなかった。


「ロッカーの中じゃないとなると……」


 夜熊が首を捻りながら、物陰を覗き込んでいく。

 しかしそこは、到底人の隠れられるようなスペースではない。そんなところにいれば、見つけてくださいと言っているようなものだ。当然、誰の姿もなかった。

 ロッカーと棚の後ろに、抜け穴でもあるのかもしれない。

 そのことを二人にも伝えて、実際にそれらの背後の壁まで調べてみたのだが、見た限りそんな穴はなかった。穴どころか、亀裂の一つもない。実に綺麗なものだった。


「そんな……。じゃあ、一体黒峰さんはどこに消えたっていうんだ?」


 依然として当惑したままの英介は、お手上げとばかりに声を上げる。


「こんな窓から逃げられるわけはないしな。……ん?」


 奥の小窓に近づいた夜熊が、何かを見つけたようだった。


「どうかしたんですか」


 近付いてみると、彼は手に指輪を摘んでいた。小ぶりなダイヤが僅かばかりの光を集約して、寂れた倉庫の中でも高価な輝きを放っている。指輪の内側には、K.K.とY.K.の文字が彫り込まれていた。

 鏡一・黒峰と雪乃・雉音――あるいは黒峰――か。


「これは、黒峰さんの?」


 一応そう訊いてみると、夜熊は神妙な面持ちで、静かに首肯した。

 指輪から目を離し、今度は窓に注視する。

 ほんの少し開いた窓から、心地の良い風が入り込む。

 しかしどう頑張っても、ここから生身の人間が抜け出すのは不可能だ。

 窓をさらに押し開けようとしたのだが、これ以上は開かない設計になっているようだ。隙間からはせいぜい指一本くらいしか通りそうにない。窓の外を覗いてみても、すぐそこが堀になっているため、爪先立ちで壁に張り付くほかはなく、まともに降りられそうもなかった。何れにしても、足跡のような形跡すらないため、ここから外へと逃げるのは無理だろう。

 その時だった。

 けたたましい悲鳴がどこかから聞こえてきたのは。

 まるで喉をきつく締めた鶏の叫び声のよう。平生の時とは随分異質な声だが、男のものであるとはわかった。

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