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目が覚めると、部屋の中はまだ薄暗かった。気分的にはまだ早朝と言う感覚。起き上がりたくなくて輾転反側。
しかし窓側に顔を向けると、カーテンの隙間から眩い光が漏れ出ていた。すっかり陽が出ているようである。
しまった、今何時なんだ?
眼球だけを動かして、壁にかかった時計を一瞥すると、午前七時半。
なんだ、まだこんな時間か。十時くらいまで寝ていよう。
安堵して布団にくるまり、一瞬そのまま二度寝の体勢に入ろうとしたのを、寸前で思いとどまった。
ここは俺の家ではない。鏡館なのだ。黒峰鏡一の別荘。赤の他人の家。
寝ている間に引き出しの奥にしまい込もうとしていた記憶を、寝惚けた頭がようやく引っ張り出してきた。
がばりとベッドから身体を起こす。
えっ――!?
その瞬間、眼前にいるもう一人の自分と目線がかち合った。そいつもまた、つい今しがた俺と同じタイミングでベッドから起き上がっていたのだ。姿形がまるきり俺と同じ、ドッペルゲンガーとも言うべき存在だろうか。
刹那、動き始めた思考が停止する。どくりと心臓が波打つ。
驚いて目をぱちくりとさせると、正面の俺も目を丸くする。狐に化かされているような感覚に陥り、冷や汗が背中を伝う。目の前にいるのは、本当に俺なのか。
俺でないとしたら、それは何者なのか。
荒唐無稽な妄想が脳内で繰り広げられる。
まるでまだ半分夢の中にでもいるような気分を味わった。
だが、気付いてしまいさえすれば、なんということはない。その正体は壁に掛けられたただの鏡であった。
未だに脳内に巣食っている馬鹿げた考えを追い払うように、頭を振って立ち上がる。ベッドの傍に置いた荷物から服を引っ張り出した。
まったく、これでは朝から寝覚めが悪くて仕方がない。
俺はオカルトなどというものが嫌いだ。そんな霊魂だの超自然現象だの、胡散臭いのでまるきり信じていない。とは言っているものの、心が揺らいでいる時に不思議な現象を見せられると、ついふっと頭の中にそんな非科学的なことを思い描いてしまう。
結局オカルト嫌いはただの怖がりの表れだということか。怖い故に信じたくなくて、何かしら現実的な解釈をしようとしているだけなのか。
一日の始まりから、自分の弱さを見せつけられたような気がして、俺はなんだかげんなりとしてしまった。
それでもなんとか服を着替えると、ぼさぼさの髪を適当に撫でつけて、部屋から出た。
確か、自頭は八時からラウンジで朝食だと言っていたはずだ。
この時間なら、もう誰か居てもおかしくないだろう。
そう思って、ラウンジに足を向けようとした時、廊下の大鏡越しに、ラウンジで待ち構えている夜熊と目があった。服装は昨日と違うが、ハンチングとサングラスは変わらずだ。口に煙草を咥えて、煙を燻らせている。
彼は俺に気がつくと、おもむろに軽く手を上げて会釈したので、俺もそれに応えた。
昨日は俺よりもよっぽど遅くまでここで飲んでいたはずだろうに、実に早起きだ。
ラウンジに来てみると、夜熊の他にも英介や新時、挟丘、湯木の姿がもう既にあった。
「よう大将、今日は随分とお早い目覚めだな」
煙草を手に持った夜熊に、またしてもからかわれた。
「大将はやめてくださいよ。めっちゃ恥ずかしいんですから」
すっかり寝坊キャラになってしまった。いや、間違ってはいないのだが、やはりばつが悪い。
勘弁してくれとばかりに眉を八の字にすると、夜熊は悪戯小僧のような笑みを浮かべる。
「はは、すまんすまん」
捻くれた中に、どこか純真さを感じる笑みに、親しみやすさを覚えた。
そしてまた煙草を口に咥え直して、一吸い、一吐き。美味そうに煙を堪能している。しかし、俺はその臭いに思わず顔を顰めた。
この臭いはどうも好きになれない。
横でやり取りを見ていた英介が、
「いやいやいや、昨日の昼寝の分を含めたら、それでも十分寝過ぎだよ。普段も講義によく遅刻してくる理由がわかるってもんだなあ」
と冗談まじりの嫌味で責めてきた。
それでムッとした俺も売り言葉に買い言葉。
「はいそこ、今日は間に合ったんだから、文句言わない」
わざと教師然とした調子で応える。
それがなんだかおかしくて、英介も俺も小さく笑った。
「それにしても夜熊さんこそ早いですね。昨日は随分飲み耽っていたはずでは?」
夜熊に振り返って訊いてみると、彼はわざとらしく肩を竦め、
「いやあ、歳を取ると嫌でも早起きしてしまうものでね。できることならもっと寝ていたいんだが――」
そこでハッと思い出したように、テーブルの上に載っていた紙を俺に見せた。
「そうだ。それよりちょっと見てくれ。朝ここに来てみたら、こんなものが壁に貼られていてね」
A4サイズの白い紙だ。その中央に、縦書きで一文だけ、文章が書かれている。
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社交室から廊下の大鏡を眺めていると、そこに映ったものに、一同は驚愕した――。
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