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「どこもかしこも、見渡す限り鏡ですね。……これは?」
鏡のコレクションが収納された、全面鏡張りの部屋という、幻想的かつ壮観でありながらも、一種狂気じみた光景に舌を巻く英介。彼が真っ先に興味を示したのは、その中でもさらに異様さを放つ球体だった。
人ひとりは余裕で中に入れる程の、大きな球体。全体が白く塗装され、まるで雪玉のようだ。転がらないように、鉄柱で固定されている。
「ああ、それはかの有名な江戸川乱歩の――」
「『鏡地獄』に出てくる、あの球体の鏡か。中に入れば、一分と経たずに正気を失うと言われている」
片郷の説明の先を、夜熊が奪った。
鏡地獄。
それなら俺も読んだことがあった。
レンズや鏡に心を奪われた男が、次第にそれらを利用した奇怪な装置を作り始めるようになる。それがどんどんとエスカレートしていって、最後には自らの作り上げた球体の鏡の中に入り込み、気が狂ってしまうという話だ。
それを聞いて、轟は興味津々。
「うわっ、マジっすか」
周囲を回りながら、好奇の目で観察し始めた。
「おや、中にも入れるみたいだ。君、入ってみるかい?」
夜熊が入り口を見つけたようで、それを指差して訊いたのだが、轟は途端に引き攣ったような笑みになった。
「い、いやあ、遠慮しときますよ。まだまともな頭でいたいんで」
興味はあるが、小説の中の男よろしく、中に入るほどではないらしい。
夜熊はつまらなさそうに肩を竦めた。
「なんだ、若いのに意気地なしだな」
しかし、そう言う自分も球体に入る気はさらさらないらしく、足早に他のコレクションに向かった。
「こっちはなんだ?」
続いて夜熊が指し示したのは、今まさに倒れた相手の首に剣を振りかざそうとしている、戦士の像が持った盾だった。盾の表面が鏡になっている。その戦士に押さえつけられている、もじゃもじゃの髪の毛の化け物の像が、苦悶の表情を浮かべていた。
近づいてよく見ると、それは髪の毛ではなく、蛇の集合体だ。
夜熊に歩み寄った片郷が頷いた。
「はい、ギリシャ神話に登場する、頭が蛇の怪物メドゥーサを退治する際に使われた鏡の盾だそうです。アイギスの盾とかイージスの盾とかいうみたいですけど」
メドゥーサといえば、その目を一度見てしまうと、たちまちのうちに石にされてしまうという有名な魔物だ。俺でもそれくらいは知っている。
「ということは、この戦士はペルセウスということかな。それにしてもまあ、壮観な物だ。ここまでの物を集めるなり作るなりするのにも、相当な費用がかかったんじゃないのかな」
夜熊は感嘆の息を漏らしながら、部屋をぐるりと見回した。
俺もそれに倣って、首を動かしてみたのだが、どこを見ても鏡の中にいる俺が俺を見ている。その視線から逃れられない。
俺はコレクションに意識を注いで、出来るだけ自分と目を合わせないように努めた。
こんなところにずっといたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。鏡地獄を読んだ時は、球体の鏡で気が狂うなんて何を大袈裟なと一笑に付していたが、そう考えると、強ち誇張しているわけでもないことがわかる。
黒峰がどれ程鏡に魅せられた男なのか、この部屋にいれば嫌でも察しがつく。それに、東京の住まいには、これ以上のコレクションが納められているのだ。見てもいないのに想像するだけで気が滅入りそうだった。巻末の顔写真から抱いた黒峰の、頑固で気難しそうな前時代的作家というような印象と、鏡に異様に執着する実際の人物像とは、かなりかけ離れている。
「こっちには古代の鏡までありますよ。どれほどの代物か、私にはわかりませんけど……」
声を上げたのは挟丘だ。
そっちの方に行ってみると、ガラスケースの中に、模様が刻まれた古い円盤が、いくつも飾られていた。
全体が緑色がかっていて、ただの装飾品のようにしか見えない。
所謂銅鏡というやつだろうが、俺が普段目にする鏡とは、だいぶ様相が異なっている。反射していないから、その分気を楽にしてみることができたが。
片郷が説明した。
「確か、自頭さんが言うには、中国唐時代の銅鏡だそうですよ。他にも、弥生時代の日本の鏡もあるそうで。まあ、ぼ……私には違いが全然わからないんですけどね。それに銅鏡って、ただの彫り物って感じで、鏡って感じがしないっていうか。どうしても、鏡って言われると、これみたいな――」
彼女は天井の鏡を指差す。そこには、俺たちとは上下も左右も真逆の世界が映り込んでいた。俺たちが見上げると、蝙蝠のように上からぶら下がった鏡の中の俺たちも見上げる――というより、見下げるといったほうがいいのか。そしてこの天井と床は、巨大な合わせ鏡になっているから、そんな光景が延々と、遥か奥の方まで続いている。意識が朦朧としそうになったので、無我夢中で銅鏡に見入った。
「ガラスでできた鏡の方を想像しちゃうっていうか」
夜熊がそれを受けて、腕を組んでしかつめらしく話し出した。
「そうだな。私も詳しいことは知らないんだが、確か銅鏡というのは、今でこそこんな風に錆みたいなのがついて、ただの彫り物にしか見えないけど、作られた当時は銅の光沢でちゃんと反射するようになってたって話だぞ」
「へええ、そうなんですね。いや夜熊さん、なかなか詳しいじゃないですか」
俺は驚いて感心した。やはり映画監督ともなると、自然とこうした種々様々な知識が蓄えられるのだろうか。
「歴史が好きなものでね。個人的に色々調べたりしたこともあったから」
「監督は歴史物の映画もよく撮ってますしね」
英介がそこに口を挟んだ。映画好きということもあって、夜熊の作品にも精通しているのだろう。
「まあなんとも残念なことに、評価されるのは例によってアクションシーンだけなんだがね」
夜熊は肩を竦め、大きな溜息を吐いた。
「ところで黒峰さんは、鏡がお好きなんですか? こんなにも凄いコレクションがある上に、館自体も鏡張りで、その名前は鏡館ときてる。相当な執念を感じるんですけど」
俺が夜熊にそう尋ねると、彼は意外そうな口ぶりで答えた。
「あれ、君は黒峰先生のファンなんだろ? 知らないの?」
「いやあ、ファンと言っても作品のファンであって、黒峰さんの実生活がどうとかまではあまり……」
「そうかそうか、まあその気持ちもわかるがね。とにかく、黒峰先生の鏡好きは、その筋じゃあ有名なんだよ。名前も本来は恭一って、恭しいっていう方の恭の字だったんだけど、わざわざ鏡に改名しているくらいだからね。確か、八年くらい前のことだったかな」
俺は思わず驚きの声を上げた。そこまで鏡というものに執着するのか、というのもあるがそれだけでなく――、
「それ、蒲生鏡介と全く同じじゃないですか。一応それなりの理由付けみたいなのはありましたけど、シリーズの途中で突然改名したから、ちょっとびっくりしましたよ」
「ああ、流石にそれ以前の過去作についても、名前を全部鏡の鏡介に変えるのは出版社にとっても苦労するだけで得がないから、そんな形になったんだろう」
「にしても、なんでまた、鏡にハマったりなんか……」
「噂じゃあ、亡くなった奥さんの姿が鏡に映るから執着してるとかなんとか、そんなこと言われてるけど、実際のところはどうだかね」
轟が割って入ってきたのだが、彼自身はあまりその噂は信じていないようで、適当な言い方だった。
「確かに、時期的には一致するからな。でもそれが本当だとしたら、あまりに変人すぎるというか。その、なんというかな……」
夜熊が、使用人も近くにいる中で、別荘の主人の悪口をストレートに言うのを躊躇い、口籠っていると、轟がその気遣いを無にした。
「まあ、相当イっちゃってるよね」
本人がいないから気にしていないのか、声を低くすることさえしていない。あまりにも不躾なものだから、ちらと片郷の方を窺ったのだが、どうやら聞こえていなかったようだ。
ほっとすると、ふと頭の中に一つの繋がりが浮かんだ。
「そう言えば、八年前というと、丁度黒峰さんの作品の評価が急に下がり始めた頃ですよね。ってことは、あれってやっぱり……」
「まあ、奥さんの死が影響しているのは、まず間違いないだろうな」
どうやら夜熊もそう思っているらしい。
「あれから三年近くはその状態だったから、今ではすっかりその頃の作品は黒歴史になっちゃってるし」
轟の言う通りで、黒峰の作品は八年前から五年前までの間低評価が相次いでいた。俺の好きな蒲生鏡介シリーズも御多分に洩れず、その頃の作品はどれも、とても蒲生シリーズとは思えない出来だった。論理が飛び飛びで強引だったし、伏線はちゃんと張られていないし、トリックも設定もどこかで見たようなもの。
しかし、黒峰はそのスランプから脱し、今もなお高クオリティの作品を世に送り出している。
「でもそんな状態から、よく元に戻れましたよね」
「うむ、確かにな。そこは流石にベテランの大作家というわけだろう」
夜熊もうんうんと頷きながら感心している。
そこへ水を差しにかかる轟。
「もしかしたら、ゴーストライターだったりして」
とんでもないことを顔色一つ変えずにさらっと言い出すものだから、俺や英介はどきりとした。
「ちょっと、それは言い過ぎじゃあ……」
「はは、冗談冗談」
軽快な笑みを浮かべる轟に対して、俺は冷や冷やしながら片郷を見やった。しかし、やはり彼女には届いていないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
その彼女は今まさに一息吐こうとして、棚に寄りかかろうとしている。
棚は見るからに不安定で、ぐらぐらとしている。
「お、おい君、危ないぞ」
気付いた夜熊が真っ先に注意をしたのだが、それがかえってまずかった。
「へ? あっ――」
そっちに気を取られた片郷の腕が、棚に飾られていた鏡のカップに当たる。
大きく傾いたカップ。棚の奥の壁にぶつかった反動で、今度は手前にバランスを崩す。
あっという間もなく、カップが落下した。
慌てた片郷が手を伸ばす。
「ちょっ、わっ、っと」
指にぶつかり、まるでお手玉のように空中を舞うカップ。だが、なんとか彼女はそれを手中に収めた。
わずか数秒のことだったが、周りで見ていた俺にもスローモーションのように映っていた。
「ふう、危なかったあ」
額の冷や汗を拭いながら、安堵の息を漏らす片郷。
カップを元の位置に戻し、触らぬ神に祟りなしとばかりに、棚から距離を置く。
「ほら、言わんこっちゃない」
実質何もしていないどころか、むしろ夜熊のせいで危うく壊しそうになったというのに、当人はそれ見たことかと、まるで自分が救世主であるかのように偉そうである。
「すみません、お騒がせしてしまって」
ぺこぺこと頭を下げる片郷に、挟丘が苦笑を零した。
「なるほど、自頭さんがそそっかしいって言うのも納得だ」
顎をさすった彼は、左手首の時計を一瞥して、
「おや、もうこんな時間か。私はそろそろ、部屋に戻らせてもらおうかな」
それで轟も時計を見遣る。
「本当だ、僕もそうします。ワインセラーはまた今度って事で」
ただ夜熊はまだ飲み足りないようだった。
「私はもうちょっとラウンジで飲むとするかな」
そういうわけで、俺たちはコレクションルームを後にして、エレベーターで一階に戻った。
俺と英介も部屋に戻って休みたかったので、ラウンジに残る夜熊や自頭、片郷と分かれ、廊下の奥に進んだ。
部屋に入ると、やけに中は明るかった。
それで思わず電灯のスイッチに手をかけたのだが、よく見れば天井の蛍光灯には明かりがついていない。窓から侵入してきているスポットライトの光である。
自頭の言っていた通り、やはりあの光は、この建物めがけて設置されているようだ。
それにしても、この部屋は直に当たりすぎている。
「全く、これじゃあ寝られやしない」
俺は壁のスイッチを押して、カーテンを閉めた。
幕が下がるにつれて、光が徐々に闇に追いやられていく。存外カーテンには厚みがあるようで、完全に下りきると、もうすっかり部屋の中は暗闇に包まれた。
これなら快適に眠れそうだ。
俺はベッドに横になり、目を瞑ろうとしたのだが――、頭が冴えてまるで眠れない。
一度ぐっすり寝てしまっているので、無理もない。
仕方なく起き上がると、電気をつけてテレビを見てみた。テレビの電波は来ているようだ。
誰だかわからないが、芸能人と思しき二人組みが内輪話で盛り上がりつつ、観光地を回るというありふれた旅番組をやっている。
今はどこかの港町に来ているようで、旅館で名産の新鮮な魚を食べているのだが、食べても馬鹿の一つ覚えの如く美味いとしか言わないから、味はまるで伝わってこない。食べ物の紹介はおまけのようなもので、あとは殆ど内輪話。こんなことをして金まで貰えるのだから、羨ましいものだ。
暫くはそんな風に思いながら、ぼうっと見ていたのだが、退屈なので他のチャンネルに変えた。
リモコンで適当にザッピングしてみるのだが、この辺りはそもそも番組数が少ないようで、NHKとローカル局、そして民放が一つの三チャンネルだけだ。当然BS・CS放送など、見られるはずもない。
結局どこも面白い番組はやっていなかったので、テレビは消して眠ることにした。
またしても恐ろしい事件が、これから幕を開けようとしていることなど露知らずに。水面下に潜んでいた邪悪な殺意が、今この館内で急浮上している。水面から顔を出した殺意は、止まることを知らずに、標的の元へと進んで行く。
そしてその時は、まさしく刻一刻と迫っていた。