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ラウンジの柱時計が午後十時を告げた。
まだまだテーブルの上の料理は山のように残っているが、皆そろそろ満腹になったようで、もう食事に手を付けようとする者はいない。俺の胃袋もすっかり満たされた。がっついたせいで、今や食べ物を見ただけで嫌気が込み上げてくる。
他のメンバーは、ちびちびと酒と会話を嗜んでいた。
黒峰を中心にして、参加者たちが会話に花を咲かせているものの、彼自身はそこに口を挟むわけでもなく、ただ時折頷きながら聞いているだけだ。それで楽しいのだろうかと思っていたが、どうやら俺の思い違いだったらしい。
黒峰が眠そうに欠伸を一つした。窪んだ眼窩から覗いている目も、どことなくとろんとしていて覇気がない。会話に頷いていたわけではなく、先程からずっと睡魔と戦い、船を漕いでいたわけだ。
「ああ、自頭くん、私はなんだか少し疲れたから、部屋で休ませてもらうよ」
「かしこまりました」
まだまだ夜はこれからだというのに、パーティーの主催者はこれにて退場のようだ。
彼は俺たちに向き直って言った。
「皆さん、私は一足先に部屋に戻ることにします。私にいちいち許可を取らなくとも、館内は基本的に自由に見てもらって構わないから、これ以降は各自、お好きなようになさってください。それでは私はこれで」
猫背になった彼の後ろ姿がエレベーターに消えると、唐突にきりっとした顔つきになった轟が、待ってましたとばかりに声をかけてきた。
「ちょっと、槻くん、末田くん、いいかな」
轟が柄にもないほど真剣みのある表情で、俺たちに迫ってくる。何かとんでもないことでもやらかしたのか、あるいはこれまでの流れのせいもあって、彼までもが隠し事を告白しようとしているのかと身構えた。
しかし――、
「ところで、どうです? 二人はあの中にタイプの女性っています?」
その内容の下卑たるや、俺は思わず昭和のコントの一場面の様にがくっとこけそうになった。素でこんな反応をする日が来るとは、よもや考えてもいなかった。
「急に真剣な顔したかと思ったら、なんだいそりゃあ」
英介も呆れて拍子抜けしている。
すると轟は、今度は一気に顔の筋肉を緩めて、またあのへらへら笑いを纏った。
「黒峰先生がいなくなったし、せっかくだから俗っぽい話がしたくなってね。堅苦しくする必要はないって言ってたけど、正直あの人の前じゃあ、どうしても遠慮しちゃうっていうかさ」
どちらかといえば、女性陣のいる前の方が遠慮しそうなものだが。
「それに、実際こういう話題って誰でもなんとなく気になるものでしょ。ま、俺が常に出逢いを渇望しているってのもあるかもしれないけどさ」
「ってことは、轟くんは彼女なし?」
轟は顔の前で大仰に手を振ってみせた。
「それがまるっきりダメで。中学の時に好きだった人にコクったら無残に振られてさ。結局それがトラウマで、すっかり奥手になっちゃったよ。二人はどうなんです? 彼女いる?」
「残念ながら……」
英介が苦笑を浮かべると、轟は緩んだ顔を一層破顔させて、
「はっはあ、そうっすよね。彼女がいたら、普通は男よりもそっちを連れてくるはずですもんね。
まあ、それは置いといて、俺はあの中だと結さんか晶さんがいいなあって思うんですけど、二人は?」
「あれ、轟くんはてっきり湯木さんだと思ってたけど」
意外そうな口ぶりで英介が尋ねた。
確かに、先程まで彼は湯木に鼻の下を伸ばしてでれでれだった。俺もてっきり気があるものだとばかり思っていたが。
「ああ……。いやあ、確かに最初はそうだったけどねえ。さっきのあのヒステリーぶりを見たらちょっと……ね。な~んか、すっぴんの姿を見ちゃった、みたいな」
軽い調子で言っているが、至極残念そうだ。
しかし、先程の雉音との一悶着での湯木の豹変ぶりは、俺でもぎょっと度肝を抜かれたから、彼の言い分には同意できる。
「ってか、俺ばっかりに言わせないで、質問に答えてくれよ」
「そうだなあ……」
轟に急かされ悩む素振りを見せる英介だが、俺にはその答えが聞かずともわかっていた。きっとあの使用人の――、
「う~ん、俺は片郷さんかな」
やはりそうだった。
「へえ、槻くんはボーイッシュな感じの人が好みってわけか」
その通りだ。
俺たちと同じサークルの後輩に初刈乃亜という、これまたショートカットで男勝りな女子がいる。彼女と出会った当初、英介は彼女に気があったみたいで、事ある毎に食事や旅行に誘っていた。勿論、サークルの仲間を引き連れてだったが。しかし乃亜は、他人の色恋沙汰には目がないものの、自分のこととなるととんと鈍感になってしまう人物で、彼の好意にもまったく気づいておらず、それどころか同じくサークルの後輩の八逆大地という男のほうに気があるということがわかって、英介はあっさり身を引くことにしたのである。
「まあ俺も嫌いじゃないっすね、表裏なさそうだし。で、末田くんはどうなの?」
などと英介の一方通行な悲恋を思い出していると、自分に話が振られて、しどろもどろになった。
「え、俺? いや……急に言われても……。そういう目で見ていたわけでもないですし……」
「なになに、もしかしてそっちの方面の人?」
それはそれで面白そうだと、余計に轟が身を乗り出す。
もちろんそういうわけではない。昔からモテた試しがないし、自分のような貧相な容姿の人間には、恋愛などおこがましいと現世の色事は諦めているだけだ。だが、このままだんまりを決め込んでしまうと、轟にあらぬ性癖を吹聴されてしまいそうで空恐ろしい。
「そういうわけじゃないですけど」
とあくまで冷静に否定し、ここは適当にあしらっておくことにした。
「……まあ、失礼な言い方になりますけど、別に誰でも……あ、西之葉さん以外ならって感じです」
彼女はあまりにミステリアスすぎて、とてもそういう目で見ることができなかった。
「西之葉さんね〜、あの人は女っ気なさすぎるし、な~んか取っ付きにくいんっすよね」
どうやら轟も苦手な人物なようで、腕を組むと眉を顰めて彼女を眺める。と、そこへ、
「若いお三方で何やら盛り上がっているようですな」
人の良さそうな笑みを浮かべた夜熊が、グラスを片手に煙草を口に咥え、近付いてきた。
流石に彼には聞かれたくない話題なようで、轟は慌てて弁明し始める。
「ああ、いや、別に他愛もない世間話ですよ」
世間話と言うよりは下世話ばなしである。
こういう話はどちらかというと苦手なので、夜熊の邪魔は俺にとってはまさに渡りに船だった。
「そ、それにしても、もうすっかり夜だというのに、妙に外が明るいっすよね」
と轟は、あたふたとしながら窓の外を眺めて、ふと気が付いたそのことに触れた。
しかし確かに、この建物以外の人工物などないに等しい田舎の山中のはずなのに、外は異様に明るい。と言うよりも、光が直接窓に差し込み、窓自体を照らし出しているから、そう感じるのだろう。
俺はそれで、部屋で見た謎の光のことを思い出した。
「ああ、そう言えばさっき俺も目が覚めた時、陽も沈んでいるはずなのに、眩しい光が部屋に差し込んでいて、ちょっとおかしいなと思ったんですよ」
「それは恐らく、外の照明のせいでございましょう」
大したことではないとばかりに、あっさりとその正体を暴いたのは、自頭の掠れた低声だった。
「鏡館は光があってこそ、その美しさを保ち続けることができる。そう旦那様が仰られて、館をライトアップするように照明を立てられたのでございます。陽が暮れ始めて辺りが暗くなると、自動でそのスイッチが点くようになっております」
彼のその言葉で不意に脳裏に過ぎったのは、ここの跳ね橋を渡る際に見た、館へ向けられたライトの数々だった。あの時は光を発しているわけではなかったので、何とも思わなかったが、まさしくあれがその照明というわけだ。
「まあ確かに、光がなければ、鏡もただの板に他なりませんからな。夜分ではまるで映えない外壁になってしまうだろう」
納得したように夜熊が頷く。
「照明のスイッチは堀の向こう側にありまして、こちらから手動で電源を落とすことは出来かねます。ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、そういうことですので、もし照明の光で気分を害されましたら、お部屋のカーテンをお閉めになってください」
懇切丁寧に頭を下げる自頭。
自分よりも三倍以上は長く生きているであろう彼に、ここまで腰を低くして接されると、正直こちらもどう反応したものかと戸惑ってしまう。
「あ、そうそう。ところで、地階には黒峰先生の集めた、鏡のコレクションが収められている部屋があるみたいですね」
唐突に話題を変えて、さらにはぐらかそうとする轟。
「どうです、ちょっと見に行きませんか?」
「ふむ、確かに、気にはなるな」
夜熊も乗り気だ。轟の素振りを不審に思っている様子もない。
鏡のコレクション。鏡館というだけあるのだから、それ相応のものが収められているはずだ。
俺も気になったので、どうせならついていこうと思った。
「自頭さん、見に行ってもよろしいですかな?」
夜熊が自頭に尋ねると、彼は部屋の隅でようやく仕事がひと段落して、人心地ついた様子の片郷に指示した。
「ええ、勿論。ただ、そちらには鍵がかかっておりますので――片郷くん、一緒に行って案内して差し上げて」
僅かばかりの休憩を邪魔されて、一瞬嫌そうな顔をしたものの、彼女はすぐに自分の立場を弁えて笑顔になった。
「はい、わかりました」
そういうわけで、俺と英介、それから夜熊と轟、挟丘に片郷と、結構な大所帯で地下のコレクションルームに向かうことになった。西之葉と新時に湯木、自頭と双子の娘がラウンジに残った。
俺が二つあるエレベーターの扉のうち、右側の扉の前に並ぼうとしたところ、
「あ、そちらは上り専用です。こちらの下り専用エレベーターにどうぞ」
片郷が左側の扉の方に促した。
なるほど、わざわざ二つもエレベーターがあるのは、上りと下りで分けるためだったのだ。
扉が開くと、俺はまた仰天した。
エレベーターの箱は、扉側以外の三方の壁がすっかり全面鏡になっていたのだ。
「さすがに鏡館ですね」
おかげで閉塞感はあまりない。
鏡のせいだけでなく、元々結構大きめの箱なのだろう。エレベーターの中に六人全員が入り込んだが、スペースにはまだかなり余裕があった。
片郷がB1と記されたボタンを押すと扉が閉まり、エレベーターの下降で感じる例の妙な浮遊感が襲ってきた。
「地下にはワインセラーもあるんですよね。あとでそっちも見てみたいなあ」
実に楽しそうに轟が口にすると、挟丘が彼に尋ねた。
「黒峰先生はワインも相当嗜まれるんですか?」
「実は結構なワイン通で、その筋でも有名な人っすよ。きっといいワインが眠っているんじゃないかなあ」
二十歳になりたてで、酒を飲み出したばかりだろう。まだワインの良さがわかるような年頃でもないはずだろうに、轟は舌舐めずりでもしそうなほどに興奮した様子だった。俺はというと、少し飲んだだけで吐きそうになるから、あまりアルコールは好きではないのだが。
エレベーターはすぐに止まった。一階分しか移動していないのだから当然だ。
開いた扉からホールに出る。
地下と言っても、電気で至る所が照らされているから、薄暗くて不気味という印象はまるでない。
こちらもラウンジと同じカーペットが敷き詰められ、壁と天井も同じく白に統一されている。
窓がないのが気にはなるが、明るいおかげもあって息の詰まる感じはしない。
「こちらの廊下の突き当たりが、コレクションルームになってます」
ホール左側に廊下が伸びていて、片郷が先導して俺たちを案内した。
廊下の壁には幾つか扉があるものの、それらは一切無視して、片郷は一直線に最奥の観音扉に歩み寄る。
ポケットから取り出した鍵を使って、扉を開けると、俺たちをその中に促した。
と同時に、その室内の異様な光景に、俺は思わず息が止まりそうになった。
「これは……」
「まさに鏡の間ですね」
口をついて出た言葉だったが、実にその名が相応しいと思った。
あっちを見ても鏡。こっちを見ても鏡。部屋中が鏡だった。
四方の壁はおろか、天井も、さらに床までも、一面鏡になっている。
その中に、いくつものコレクションが所狭しと配置されていた。鏡のコレクションが壁の鏡に映りこみ、延々と続いている。まるでこの空間自体が、巨大な万華鏡と化したような部屋だった。