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鏡館殺人事件  作者: 東堂柳
第二章 鏡に魅入られた男
10/63

3

「え?」


 唐突にそんな打明け話をされるとは思ってもいず、思わず聞き返すと、さらに黒峰はぽつぽつと寂寥感漂う口調で続けた。


「亡くなった妻の連れ子でね。もちろん、今は血の繋がった自分の娘のように可愛がっているがね」


「そう……だったんですか」


 妙な雰囲気が場に流れ、一同なんと返したらいいものかと逡巡しているうち、厨房からその娘たちが戻ってきたものだから、いよいよ気まずい空気になってしまった。もちろん、二人はそんなことなど露知らずで、先程との打って変わったラウンジの気配や自分たちを見る視線に若干困惑しているようだ。

 しかしそれを、気色ばんだ女の叫び声が打ち破った。


「ちょっと、いい加減にしてよ!」


「なんだ、ケチくさい女だな」


 全員の双眸が、その声の主たちに向けられた。

 湯木と雉音が少し離れたところで、何やら揉めている。しかし湯木の傍に座っていた西之葉は、我関せずと言った様子。止めに入るでもなく、迷惑そうな顔をするわけでもなく、平然と静かにワインに口を付けている。


「どうかなさいましたか?」


 慌てて自頭が様子を伺いに行くと、すっかりヒステリーを起こした湯木が、喚き散らした。


「どうもこうもないわよ! この変態オヤジが私の身体に触ってきたのよ!」


 しかし、それには全く動じない雉音。むしろふんぞり返ったような態度で、自分にはまるで非がないといった風だ。余裕綽々でグラスに入ったワインを一気に飲み干す。


「まったく、少しケツを触ったくらいで大袈裟な。大体その気がないなら、そんな格好をするもんか。そっちが誘ってるんだろう」


 もうべろんべろんに酔っ払っているせいか、呂律も回っていない。懲りずにまだ触ろうとして、湯木がその手を心底から拒絶するように、激しく振り払った。殆ど全力で叩いているようなものだ。


「ちょっと、いい加減にしてってば! 冗談もほどほどにしてよね。誰があんたなんか誘うかっての。さっきからじろじろ見てくるわ、息は臭えわ。最初っから眼中にないっての。マジでキモいんだよ!」


 気取っていた彼女も、もはや体裁などどうでもいいとばかりに語気が荒くなり、パーティーにはとても相応しくない、汚い言葉が飛び交い始める。


「なんだと、このアマ! 誰に向かってそんな口を利いてるんだ。売れない音楽家風情が偉そうにするんじゃない!」


 遂に言われてばかりの雉音の堪忍袋の尾が切れたらしい。握っていた拳に力が入り、青筋が浮き出ている。わなわなと震えている肩に、異様なほど真っ赤になった顔。全身の血液が頭部に集中していると言っても過言ではなさそうだ。

 持っていたグラスを床に叩きつけ、胸ぐらを掴んで殴りかかりそうな勢いで彼女に迫った。

 しかし湯木はなかなか肝が据わっているらしい。怖気づく素振りも見せず、それどころか彼女自身さらに頭に血が上って、罵声を浴びせかけた。


「うっさいわね、このクソ爺! あんたが誰だろうと、私には知ったこっちゃないわ!」


 今にも爪を立てて雉音の顔を引っ搔き出しそうだ。

 このまま放っておいたら乱闘は免れないだろう。

 自頭もこれには参ってしまったようで、おろおろしながらも、


「まあまあ、お二人ともどうか落ち着いて」


 と宥めようとしているが、ヒートアップした二人は一向に聞く耳を持たない。

 そこへ黒峰が文字通り、強引に間に割って入った。

 雉音の動きを両手で制しながら、暴れた酔っ払い客を諌める居酒屋の店員のように、静かな物言いで説得しようと試みている。


「お義兄さん、少し飲みすぎですよ。お部屋で休んだ方が――」


「うるさい、誰がお前に指図なんぞ受けるか! この、人殺しめ!」


 雉音はそんな黒峰の言葉を遮り、物凄い剣幕で捨て台詞を吐くと、行き場のない鬱憤を晴らすように、どしどしと床を踏み鳴らしながらラウンジを出て行った。

 その時、俺は見ていた。

 黒峰の娘、結と晶が、恐ろしいほどの冷ややかな目で、その後ろ姿を捉えていたのを。

 まるで道端のゴミか害虫でも見るような、感情のない視線。

 思わず背筋がぞくりとしたが、そこに湯木の怒声が割り込んで、自ずと意識がそちらに向いた。


「何よあいつ、偉そうにして!」


 湯木の憤慨も収まりがついていないようだ。

 黒峰は雉音に代わって湯木に謝罪し、それから俺たちに向き直り、深々と頭を下げた。


「すみませんな、義兄はどうもその、酒を飲むと気性が荒くなる人ですから」


「あの、黒峰さん、さっきの……」


 雉音の捨て台詞に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔した轟が、流石に言いにくそうに黒峰を向いた。だが、その黒峰は、さして気にする様子もなく、さらりとその単語を口にした。


「人殺し、か。私の妻――つまり彼の妹に当たる――雪乃が亡くなってから、ずっとああなんですよ。私を目の敵にして、どうも彼は、誤解しているようなんです」


「と言うと?」


 黒峰は沈痛な面持ちで、過去の身の上話を訥々と語り始めた。


「妻が亡くなったのは、もうかれこれ七、八年程前になりますか。病で急に倒れて、そのままぽっくりとね。当時の私は、仕事が思うように行っておらず、家庭を顧みることがなかった。まったく……酷い夫ですよ」


 胸の内に抱いている自責の念を表すように、彼は項垂れ気味にゆっくり首を振っていた。


「最も彼女の近くにいたはずなのに、その異変に気付いてやれなかった。だから義兄にとっては、私が妻を見殺しにしたと思っているんですよ。……まあ、強ち間違いではないかもしれませんが」


 自嘲気味な黒峰の笑み。

 会場に暗い影が落とされた。

 すっかり場の空気は萎んでしまい、優雅で穏やかなクラシックも、今はただただ虚しく鳴り響くだけ。さながらお通夜のような沈んだ会場に拍車をかける読経のごとく、物静かな旋律が呼応するように部屋中に反響している。

 それを自ら察した黒峰が、ごほんと大きく咳払いして、努めて明るい声音になった。


「やあ、これは失礼。つまらぬ話で水を差してしまいましたな。さあ、暗い話はこれでお仕舞いにして、楽しみましょう。せっかくのパーティーなんですからね」


 そうは言っても、無理して俺たちを和ませようとしているのは明白だった。もっと文句をぶち撒けたそうにしている湯木でさえも、それを悟って黙している。

 次第にどこからかまた会話が始まり、再びラウンジは華やかで楽しげな賑やかさを取り戻したものの、この一件のせいもあって、俺自身は素直に心底からパーティーを楽しむことはできなかった。

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