プロローグ
「なんだ末田、また部室でごろごろ読書に励んでるのか?」
その声に、俺は思わず顔を顰めた。
建て付けの悪い扉を騒々しく開けながら、唐突に槻英介が部室に入ってきたのだ。
「暇があるといつもそれだな」
槻英介――。俺の大学での数少ない友人である。彼は愛想も羽振りもいいから、俺よりよっぽど知り合いも沢山いるのだが、なぜかキャンパス内では俺といることが多い。しかし最近は、彼絡みで幾度も事件に巻き込まれる羽目になっているせいもあり、彼が来ると無意識に少し身構えてしまうようになっていた。
今は丁度三時限目。普段なら授業中なのだが、月曜のこの時間は取っている講義がないので、こうして誰もいない部室のソファに寝転がって、長閑に過ごしていたのだ。それだというのに、邪魔がやってきてしまった。唯一の楽しみである読書の時間くらいは、一人にさせて欲しいものだ。
しかし彼は、そんな俺の思いなど意に介さずという風で、散らかったローテーブルを挟んで向かいのソファに腰を落ち着けた。どうやらすぐに帰る気はないらしい。
暫く黙ってこちらの様子を窺うようにしていたが、俺が読書を止める素振りが一切感じられないと見るや、結局英介のほうから声をかけてきた。
「『夢幻邸殺人事件』? 黒峰鏡一か」
英介は俺の手に持っている本のタイトルと作者を口にした。
知っているような口ぶりだったので、俺は少々意外に思った。彼はこうした推理小説にはとんと疎いはずだからだ。
勉強はできるが、そうした知識を柔軟に活かすことができない英介にとっては、こうしたパズルめいたものが一番の苦手なのである。
「そうだよ。蒲生鏡介シリーズの十九作目でね。新作の『鏡館殺人事件』の制作発表もあったから、せっかくなんで読み直してるんだ。お前も読んだことあるのか?」
しかし、彼は吹き出して笑った。右手を顔の前で振っている。
やはり俺の思い過ごしだったようだ。
「まさか。俺は読書より映画とか見る方が好きだからな。それにミステリーにも興味はないし。ただ――」
トーンを落として急に真剣な顔つきになった彼は、ズボンのポケットを弄って封筒を取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「ちょうど今朝、こんな招待状を貰ってね」
相変わらず寝転がって本を読みながら、横目でちらと彼の差し出した封筒を捉えた。
どんな招待状だろうと、俺には関係ないし興味もない。――はずだったのだが、目に飛び込んできた差出人の名前に、俺は思わず飛び起きて、ひったくるようにその封筒を手に取った。
黒峰鏡一。
確かにそう、サインがしてある。
俺が今読んでいる小説の作者。日本ミステリ界の重鎮。何本もの作品がマルチメディア化され、国内では知らない人間はいないほどの人物だ。
一瞬、我が目を疑った。なぜ英介なんぞの手元に、一冊出せばたちまちベストセラーの人気推理作家から、このような封筒が送られてくるのか。全く理解できなかった。
「開けても?」
とは訊いたものの封は既に開いていたので、逸る気持ちを抑えられずに、答えを聞かずとも中を検めていた。
英介は頷いて、俺の一挙手一投足に注目している。
封筒の中身は、三つ折りに畳まれた一枚の紙と、やけに大きくて太いブリキ製の鍵だった。冒険映画にでも出てきそうな古めかしい意匠で、棒鍵と呼ばれる先端に出っ張りがついているタイプのものだ。鍵の頭の部分には、『mirror』と刻印されている。
俺はまず紙の方を手に取り、広げてみた。
『突然にこのようなお手紙を出しますご無礼、お詫び申し上げます。
私、作家黒峰鏡一はこの度、探偵・蒲生鏡介シリーズの二十作目となります「鏡館殺人事件」の制作発表を行いました。これを記念して、日頃より私のような非常に天邪鬼な人間にもよくしてくださっている皆々様を、この小説の舞台となるであろう「鏡館」に招待させていただきたいのです。
また、そこであるゲームを催す予定にもなっておりますので、併せて四、五日ほどの集まりになると考えております。よくお考えのほど、ご返事をお待ちしております。
なお、同封した鍵につきましては、ご来館くださる際に必要になりますので、それまで大切に保管なさってください』
紛れもなく、黒峰鏡一の主催するパーティーへの招待状だった。
狐につままれたような気分だ。俺は未だに信じられずに、目を見張りながら英介を見返した。身体が自然と前屈みになる。
「ど、どうしてこれが?」
その英介は肩を竦めて、
「それ、元々うちの実家の方に届いたんだ」
とあっさり白状した。
それで封筒を再度手に取り、ひっくり返して表面を見る。裏面の差出人の名前に驚いて、迂闊にもそっちは全く確認していなかった。
封筒に直接手書きされている宛名は彼の祖父、槻源蔵になっており、住所は新潟――英介の実家のものだった。俺も一度行ったことがある。広々とした日本庭園を備えた和風の大邸宅。しかし、その光景を想起しようとすると、否が応でもそこで起こった忌まわしい事件が頭を掠めてしまう。槻源蔵の隠し財産をめぐる、暗号と殺人。
俺は頭を振って、そのイメージを脳から追い払い、封筒に意識を注ぎ直した。
その住所の上に被せる形で、英介の名前と現住所が記された薄い紙が貼られていた。赤いインクで転送の二文字もある。
「なんでも、俺の祖父と黒峰鏡一は、同郷のよしみでそれなりに付き合いがあったらしいんだ。生前に何度かそんな話を祖父から聞いたことがあってね。ただ向こうはまだ祖父の死を知らないみたいで、これを実家の方に送ってしまったみたいなんだよ。ほら、あの事件があって、もうあそこに住む人は誰もいなくなっちゃったわけだし……。あれ以来、郵便物は全部こっちに届くようにしてるからね」
「なるほど、そういうことか」
ようやく合点がいき、俺は少し気持ちを落ち着かせることができた。
「祖父が亡くなったから行けませんって返事してもいいんだけど、なんかそれもあっさりし過ぎてるっていうか、なんだか悪い気がするんだよね。だから取り敢えず俺が代理で行って、祖父のことを伝えようと思ってるんだよ。で、そこでちょっと提案があるんだけどさ――」
話の先が見えてきた気がする。
英介は居住まいを正して、真面目な顔して俺に向き直った。
「俺と一緒に来てくれないか」
驚きはなかった。
予想通りの展開だったからだ。
俺が黙ったままでいると、英介はあたふたと言い訳がましくなった。
「ほら、何ていうかその……、こういうかしこまったパーティーみたいなやつって、俺もそんな行ったことがないから不安でさ……。な、頼むよ。俺たち親友だろ?」
両手を合わせて懇願し始める英介。
しかし――、俺はどうすべきかまだ悩んでいた。
そりゃあ、黒峰鏡一主催のパーティーともなれば、推理小説好きとしては行きたくないわけがない。おまけに場所は次回作の舞台となる場所ときてる。想像しただけで垂涎ものだ。諸手を上げて、はい喜んでとほいほいついていきたいところなのだが……。
俺の脳裏では、自然とこれまでの事件が過ぎる。それが動きの枷となってしまっているのだ。
英介の持ちかけてきたうまい話。また何か起こるんじゃないかという恐怖。しかし紛れもなく心中では行きたがっている。これを逃したら、うだつの上がらない俺がこんな集まりに参加できる好機など、もう二度と訪れることはないだろう。
相反する二つの行動に対する一人脳内討論。
激しいディベートの末、俺はやっとの思いで、その返答をした。
「ああ、是非一緒に行かせてほしいものだね」
結局は好奇心に屈する結果となったのだ。
途端に英介は膝を打った。ぱあっと晴れやかな顔になる。
「だろう! そうくると思った! いや、助かったよ」
しかし、その表情はすぐに曇った。山の天気より変わりやすい顔である。
「ただ、一つちょっと問題があってね……」
困り顔の英介は、こめかみをぽりぽりと掻いて、気まずそうに言い出した。
「実はこの招待状、開催日時も行き先も、どこにも書いてないんだよ」
それで見直してみると、確かにその最も重要な部分が抜け落ちてしまっている。招待状の表面には勿論、裏面も調べたが真っさらで、何も書かれてなどいない。封筒を逆さにして振ったり、目を眇めて奥の方まで覗いたりしたのだが、空っぽだった。招待状と鍵しかない。
「確かにこりゃ変だな」
「それでどうにも困っててさ」
どうやらこれの答えも知りたいがために、わざわざ俺に相談してきたようだ。
だが、これは送り主のちょっとした遊び心のようなものだろう。
頬杖を突きながら、少しの間文面を眺めていると、その答えにはすぐに辿り着く事ができた。
「ふうん。まあでも、答えは多分そんなに難しい話じゃないと思うけどね」
「どうしてそう言えるんだ?」
「だってそうだろ。これはあくまで招待状なんだぜ。誰もわからなかったら、何にも意味がないじゃないか。誰にでもわかるようになってるんだよ」
言いながら、俺はテーブルの上に置いた鍵を摘み上げた。
「まあ、おそらくその答えは、この鍵だろうな」
そのまま立ち上がってテーブルの脇に移動すると、思い切り腕を振りかぶった。
「おい、何を――」
英介が止めに入る間もなく、俺はブリキの鍵を床に叩きつけた。非力ながらも精一杯の力を込めて。
耳障りな音とともに、鍵は脆くも破壊され、真ん中のあたりで大きく真っ二つに割れた。
「何してくれるんだよ! 招待状には大事に保管しておけって書いてあったじゃないか!」
頓狂な声を発して、血相変えて鍵に駆け寄るやいなや、粉々になった鍵の欠片を一つ一つ丁寧に拾い上げていく英介。ああ、なんでこんなこと、などと愚痴を零していたがしかし、不意にその動きが止まった。
「あれ、これは……」
彼は首を傾げながら、鍵の欠片の中から見つけたそれを拾った。
円筒状に丸めて纏められ、広がらないようテープで固定された白い紙。
やはり。それを見て、俺は自分の考えが間違っていなかったことを確信した。唇が自然と緩む。
英介は訝しげにそのテープを剥がし、紙を広げた。理解が追いついていないようで、いよいよ眉間には深い縦皺が刻まれる。
「これは一体なんなんだ?」
彼は俺にその紙を手渡した。視線をそこに移すと、英数字と記号の羅列が黒のゴシック体で印字されている。
始まりがhttps://であることから見ても、これはURLと見て間違いない。
早速俺はスマートフォンにそれを打ち込んで、インターネットで検索してみた。
すると、画面に表示されたのはあるサイトだったのだが、そこからさらに中に入るには、パスワードが必要なようだ。
「パスワードか……」
どうやら半角英数字しか受け付けないようである。となれば、考え得る答えはこれしかないだろう。
その文字列を打ち込むと、パスワード入力フォームはフェードアウトしていき、その代わりに、
『ようこそ、鏡館へ』
白い画面にそう浮かび上がってきた。
画面を指でスクロールすると、パーティーの日時や開催場所、集合場所なども詳細に記載されてある。
英介もそれを俺の肩越しに見て感嘆の声を上げた。ようやく俺が何をしたかったのかわかったようだった。だが、それでもなおすっきりしないようで、困惑した表情のまま俺に尋ねてくる。
「おい、説明してくれよ。どうしてこの鍵の中にこれが入っているってわかったんだ?」
「簡単なことさ。招待状に書かれてある通り、しっかり保管しておいてほしいくらい大事な鍵で、なおかつ館に行った時に必要になるっていうんなら、普通は同封なんかしないで、来たときに直接渡せばいいだけだろう。それなのにわざわざ送りつけてきたってことは、ここに書かれていない日取りや鏡館への行き方のヒントになってるんじゃないかって思ったわけ」
しかし英介はまだ腑に落ちずに反論してきた。
「で、でも、もしかしたら、招待客かどうかの証明に使うのかもしれないじゃないか」
「それはないよ。招待状があるんだから、それを見せればいいだけだ」
ううん、それはそうか、と英介は腕を組んで唸る。この点については納得がいったらしい。だが、彼の疑問はまだ尽きないようだ。
「にしたって、どうして壊したんだ? 何か他の方法で、アドレスがわかる仕掛けかもしれなかったのに」
「招待状では、黒峰さんは非常に天邪鬼だと自称してる。それで、鍵を大切に保管しろっていうのは、イコール鍵を破壊しろ、って意味だと捉えたんだ。それにこの鍵、どう見ても大きいし、いかにも中に何か入ってそうだったからね」
「じゃあ、パスワードは? どうしてわかったんだ?」
矢継ぎ早に質問攻めする英介に、俺は段々呆れてきて溜息を吐いた。
「ちょっとは自分で考えなよ。その頭は飾りじゃないんだろう?」
皮肉を込めてそう言うと、英介はばつが悪そうに口を尖らせた。
その様子がおかしくて、笑いそうになるのを堪えながら、真面目腐って説明する。
「サイトを知る鍵となったのは、まさにブリキの鍵だったわけだろ。そこにmirrorって刻まれているんだから、まずそれを入力しない手はないじゃないか」
「ああ、そっかそっか。なるほどね」
ようやく全て得心したらしい。ぽんと手を叩いた英介は、頻りに頷くばかりだった。
俺は今一度、スマートフォンに映し出されたサイトにじっくりと視線を移した。
開催日は次の週末。場所は――、群馬。どうやら館の近くのバス停まで行けば、そこに迎えの車が来ることになっているようだ。
こうして俺たち二人は、その土曜日の昼下がり、電車に乗り一路群馬へと向かうことになったのであった。