(4)恐怖の正体
傷の状態を確かめるように、おっさんは包帯を巻き終えた腕を軽く動かした。
でも拳を握ろうとして、少し顔をしかめた。
「……えーっと、おっさん、傷はまだ痛む?」
「いや、ずいぶん楽になったぞ」
「そうか、おっさんに効いてよかったよ。なあ、姐さん」
「副作用が少しきつかったが、すごい効き目だな。バズーナ、どこの魔法薬か聞いてもいいか?」
おっさんは顔をしかめながら、拳をぐっと握った。
まだ痛みがあるだろうに、完全治癒を待つ気はないらしい。少しも待とうとしないのは、傭兵特有のせっかちさなのかな。
一方バズーナ姐さんは、うれしそうな顔をして胸を張った。
「これはうちの牧場の特製品だ。これのおかげで、優秀な軍馬を何頭も殺処分から救えている。親方が十年以上かけて開発した究極の治癒薬だから、素晴らしいのは当然だな」
「……ちょっと待て。まさか馬用なのか?」
「ああ、細かいことは気にするな。一応人間でも何度か試していたから。体力のある人間にしか向かないが、あんたなら大丈夫だと思っていたよ」
「……馬用……馬用でいいのか……?」
途中にさり気なく親方賛美を入れたバズーナ姐さんの言葉に、おっさんは微妙な表情で黙り込んだ。どことなく顔が引きつっているようにも見えた。
うん、そうだよな。いきなり親方の事を自慢し始めるようなこと言われたら、普通に引くよな!
……ん? あれ?
おっさんが気にしているのはそっちじゃない感じ?
あ、もしかして、馬用って所で引っかかってる? おっさんって細かい事が気になるタイプだったのか? 豪快そうな見かけのわりに、意外に繊細なんだな!
思わずにやけかけたけど、傷の手当が先だ。俺はおっさんの傷に包帯を巻いていきながら、ふと首を傾げた。
「それよりもさ、なんか凄いことになっているけど一体何があったんだよ? 仕事って一人じゃないんだよな? おっさんのお仲間はどうしたんだよ」
「……まあ、ちょっとな」
おっさんの返事は短い。表情も一瞬消えたようにも見えた。
どうやら秘密にしておきたいらしい。だから俺はそれ以上聞かないことにした。バズーナ姐さんに睨みつけられるまでもなく、深入りは禁物ってことくらい知っている。
傭兵のおっさんと違って、俺は善良な庶民で、平和な牧場の雑用係だからな。
俺は何事もなかったように治癒薬の空き瓶を鞄に戻し、余った包帯を丁寧に巻き直す。バズーナ姐さんは馬たちのところに戻って、馬具の緩みがないかを再確認していた。
おっさんはと言うと、身軽く立ち上がって俺から離れ、ついさっきまで杖代わりにしていた大剣をぶんぶんと振り回し始めた。
まだかなりの痛みがあるはずなのに、傷がふさがれば十分ってことなんだろう。
うーん、こういうところは、おっさんは馬より丈夫かもしれない。
腕の状態を確かめていたおっさんは、やがて表情を改めて鋭い目を周りに向けた。
つられて目を向けた俺は、思わず立ち上がった。
空は、いつの間にかすっきりと晴れていた。
もうもうと立ち上って視界を遮っていた粉塵は、もう完全に流れ去っていた。
かわりに、信じられないほど真っ青に澄んだ空が広がっている。
正体不明の衝撃波やら轟音やらが伝わってくる前は、空には分厚い雲が広がっていたはずだ。それが、どこかに吹き飛ばされたように一掃されていた。
空の様子には全く気付いていなかったから、俺は雲ひとつない空を呆然と見ていた。嘘のようにのどかな空だ。
でも小鳥のさえずりは相変わらず全く聞こえない。見回すと森は一方方向に木々が倒れていて、巨木や岩なども吹き飛ばされてきたようだった。
太い幹が折れ、根ごと倒れたところは土が撒き散らされている。
……いったい何があったんだろう。
これは普通じゃない。どう考えても異常だ。
おっさんに気を取られて忘れていた恐怖が、ぞわりとうごめきながら湧き戻っていた。
「バズーナ、そろそろここを離れよう。せっかく馬が二頭いるから、お前たちも馬に乗っていいぞ」
「それはつまり、この場を早く離れろという事か?」
「……まあ、そういう事だ」
バズーナ姐さんはおっさんの言葉に眉をひそめた。
元々険しい表情だったのが、ますます怖い顔になる。でも美人だ。怖いけど。
俺はバズーナ姐さんをぼんやりと見つめた。
並の男よりたくましい姐さんが、いつにも増して頼もしく見える。俺がこうなんだから、軍馬様たちも姐さんが一緒にいるから落ち着いているんだろうな。
この勇姿、親方が見たらマジ惚れすると思う。
男も惚れる姐さんだし。いや、姐さんは女だから男に惚れられるのは普通か? とすると、姐さんに男前なんて言うのもダメなのか。じゃあ女前? いやいや、そんな言葉はないだろう!
俺はそんなどうでもいい事を考える。
……そうしていないと、じわじわと増していく恐怖心に叫びだしそうなんだ。
だって、おっさんは二頭以上の軍馬を注文しているんだよ。
なのにこの場にいるのは、おっさんだけ。何事もなく、ただのんびり連れていくだけなら、魔導移動を利用する急ぎなんて高額オプションはつけないはずだ。
だから、本当は最低でも二人で仕事をしていたはずなんだよ。
なのに一人しかいない。
おっさんがこの先の山小屋に向かう様子がないってことは、そこにはもう誰もいないんだろう。
嫌な予感がする。
これはかなりヤバイ。おっさんの提案通り、早くこの場を離れるべきだな。
その前に、おっさんに余っている馬用治癒薬を渡しておこうと思いつき、俺は恐怖心を押し殺しておっさんへと目を向けようとした。
その視界の端に、何かが見えた。
「おい、マイル。何をしている? お前は私と一緒に乗るぞ」
「バズーナと同乗できるなんて、羨ましいな!」
「うちの軍馬は頑丈だから、マイル程度ならあんたと同乗しても平気だが、そちらの方がよかったか?」
「いくらボウズがきれいな顔していても、俺は男と同乗するのは好きじゃねぇんだよなぁ」
バズーナ姐さんとおっさんが、ひどくどうでもいい事を言い合っている。
でも、俺は聞いていなかった。
後から考えれば、二人はまだ若い俺を気遣ってどうでもいい会話を続けていたんだと思う。俺を怖がらせないように、と気を遣っていたんだ。姐さんって優しいよな。おっさんも。
でも残念。
俺は、もう見つけてしまった。
「おい、ボウズ?」
「……おっさん、あれは……」
俺はゆっくりとそちらへと歩いていく。
足は重くてなかなか前に進まなかったけど、なぜかソレのことはよく見えた。
おっさんは俺の様子がおかしい事に気づいたようだ。そして多分、俺が見ているものにも気付いた。
「……ちっ! ここにあったのか! おい、ボウズ! もう見るな!」
「なあ、おっさん。……アレはおっさんの仲間だった人?」
俺はソレを指差した。
森の向こうから、太い木の枝と一緒に飛んできたのだろう。ソレは太い木の幹に半分めり込んでいた。だから普通なら原型を留めていないはずだ。
でも、ソレは頑丈な鋼鉄製の兜をかぶっていた。変形しても兜はなんとなく元の形がわかるものだ。ただし、中に詰まっているのは真っ赤に染まっているけど……たぶんアレは、人の頭だろ?
ああ、そうか。
おっさんが探していたのはこの人だったんだ。
ということは、この人の形見みたいなものを拾ってあげる方がいいのかな。それとも、もうそういうものは回収済みかもしれない。吹き飛ばされてきたこの赤い塊の本体は、どうなったんだろう?
ぼんやり考えた次の瞬間、俺はその場で吐いた。立っていられなくなって、両膝をついて何度も吐いた。
気分は少しもよくならなかった。それでも俺はなんとか立ち上がる。足に十分な力は入らなかったけど、変わり果てたアレから少しでも遠ざかりたかったんだ。
震えて強張った足が、やっと半歩ほど下がった。本当に少ししか動かなかったけど、俺は少しほっとした。
だからもっと頑張って、もう半歩だけでも足を動かそうと力を込める。
足はさっきより楽に動いた。……その時だった。
空気が揺れた。
木々が揺れていないから、風が吹いたのではない。音もない。なのに、背中が凍りついたように寒くなった。
左側の頬と首がぞわぞわする。
髪の毛がすべて逆立つような感覚に襲われ、俺は左側へ顔を向けた。
見てはいけない。見ない方がいい。そうすれば……何も知らないままでいられる。
本能が必死で止めたけど、俺はほとんど反射的に振り返って……それを見てしまった。
枝や木の葉が積もる道と、その上に重なる倒木。斜めに傾き、互いを支えあうようにしてかろうじて立っている幹もある。
木々は葉を減らし、痛々しい断裂面を晒していた。
その上には抜けるように青い空が広がっている。俺が見える範囲に雲は一つもない。
そんな青い空に、目をみはるほど巨大な存在がふわりと浮かんでいた。
体表を覆うのは、うっすらと光を放つ黒曜石のような鱗だった。
獣のように四つの脚があったけど、それぞれの指には恐ろしく鋭い爪がある。降り注ぐ太陽の明るい光を浴びながら、それは巨大な翼を広げた。
途端に森は覆い尽くされ、夜闇が流れ込んだように暗くなった。
黒い巨体は暗い影の中に溶け込むように見えた。でも巨大な翼がさらに伸び広がった瞬間、全身を覆う鱗の一部が金色に輝いた。
翼の付け根の辺りから始まった金色の輝きは、ざあっと全身に広がる。俺が呆然と見上げている間に黒い鱗は金色に輝き、またすぐに闇のような黒色に戻った。
薄い皮膜状の翼が、大気をかき混ぜるように動いた。
その直後、突風が大地へと向かう。
あらゆる音が消えた森で、息ができないほどの強い風がごうっと通り抜けた。
でも、俺は立ち尽くしていた。
突風で呼吸ができなくなっても、護符のおかげか体が押されることはなかった。なのに俺は、身じろぎもできないまま空を見ていた。
空に浮かぶ巨大な存在を見ていた。
黒い体の中で、唯一青い炎が燃えているような巨大な目は、なぜか俺を真っ直ぐに見据えていた。
なだらかな首がくいっと持ち上がった。禍々しい牙の乱立する口を開いたのを見ても、俺は総毛立つような恐怖と、ビリビリと肌を刺すような気配以外、何も感じなくなっていた。
感覚が麻痺しているようだ。
それでも、突風を生む翼の動きはとても美しいと思った。
大きく開いた口の奥で、長い舌がずるりと蠢く。
喉の奥からじわりと青い光が漏れて始めても、俺はただうっとりと見ていた。
「ボウズ、逃げろ!」
おっさんの声が聞こえた。
視界の端で、おっさんが動くのも見えた。あのでかい剣を投げようとしている。
……あはは、ダメだよ、おっさん。
投げても、空に浮かんだあれには届かない。というか、剣が届いたとしても無駄だよ。あの硬そうな鱗は伊達じゃないと思う。
おっさんは強いと思うけど、絶対に勝てないよ。
あれには勝てない。
だって、あれは、あれは……ドラゴンだ。
巨大な牙が、ギラリと白く輝いた。
牙の奥の喉から、太陽が生まれてくるような強い光が生じる。その光の塊は今の空よりも青くてまぶしかった。
ドラゴンの口から外へと広がった青い光は、一瞬の停滞の後に、真っ直ぐに俺に向かってくる。
……俺、死ぬのか。
ドラゴン様には何もしていないんだけど。何かしたとしたら、絶対おっさんたちだよな。
ただの通りがかりの配達員が何をしたって言うんだよ。俺の人生、十六年で終わりなんて短すぎる。俺はまだたくましい男になっていないんだぞ!
やっと背が伸びてきて、やっと筋肉がつき始めたってのになぁ。
まだ全てが途中で、全てがこれからだと思っていた。無邪気にそう信じていた。
でも……綺麗な光だな。
光に包まれた。
俺は惚けたように目を見開き続け、そのまま気を失った。