(47)猫よりおっさん <終>
俺の独り言が聞こえたのか、おっさんは俺を振り返った。
何か言おうとするように口を開いたけど、短剣を鞘に収めて髪をガシガシとかき乱した。
「……あー、つまりだな、特に秘密にしていた訳じゃねぇんだよ」
「何が?」
「何って……俺の生まれだよ」
「あ、ああ、そう言えば、うん、ちょっと……いや物凄く驚いたけど。よく考えれば納得したかも。だって、ビザーたん様と仲良いし」
「仲良くはねぇよ!」
「えー、でもビザーたん様のお母様にお世話になってきたんだろ? ビザーたん様は国王様で、そのお母様と言えば前の王様の王妃様だろ? そんな人が親身になってくれるなんて、よっぽど仲のいい人とか親戚くらいだもんな」
俺は改めておっさんの署名を見た。
長いけど、これを見ればおっさんの血統が一目でわかるようになっている。
名前が三つ並んでいて、その内の一つがよく使っているキルバインという奴だ。
その後に続いているのが出自を表す表記だった。
王弟スヴィエインが父親。
ダライズの女領主の妹が母親。
現国王様の従兄弟で、ダライズの次の領主になるかもしれない人だなんて、どんだけ超一流なんだよ。
庶民な俺とは大違いだ。
……でも、両親の顔の良さだけは負けてないと思うけどな!
「……あれ? おっさんが次の領主とか言われるってことは、ダライズの領主様には子供はいないの?」
「あの人には娘が二人いる。ただ、領主向けの性格じゃねぇんだ」
「あー、なるほどね」
初対面の時に女領主様から向けられた冷たく強い目を思い出し、俺はぶるっと震えながら納得した。
あんなすごい人は、貴族様の中でも珍しいらしい。
そう知って、俺はちょっと安心した。
それから、俺はおっさんを見上げた。
まあ、確かに王族様ってことを……王位継承権を放棄しているのなら元王族の方が正しいのかもしれないけど、そう言う生まれを内緒にされていたのはびっくりしたよ
でもおっさんは、お貴族様の生活を十五歳で捨てて傭兵になった、とんでもなくバカな男だ。
二十年……じゃなくて、十七年も傭兵を続けてしまうような男だ。
見かけの割に世話好きで、いきなり懐いてきたガキを邪険に扱えず、並み居る荒くれ者どもを腕っ節だけで従え、十六歳も年下の野郎とも真剣に馬鹿話をして本気で笑い転げる男だ。
時々、お貴族様っぽい話し方をするけど、まあそういうこともあるよなって程度だ。
超絶イケメン貴公子なおっさんも、無精髭とボサボサ髪の傭兵のおっさんも、どっちも変なところで潔癖症で口うるさいおっさんには変わりない。
そんな考えに至り、いろいろ混乱しかけていた頭の中がすっと収まった。
「……うん、やっぱりおっさんはおっさんだよな。あ、でもこれからはキルバイン様って呼ばなければいけないのか? うわっ、気持ち悪いな!」
「……様付けはやめろ。俺も気持ちが悪い」
「でも、超級のお貴族様と知ってしまうとなぁ……何かないかな」
悩んでいると、突然、一度は閉められていた扉がバーン!と開いた。
驚いて振り返ると、近衛騎士様たちを従えたビザイエン三世様……いわゆるビザーたん様が入ってくるところだった。
「将軍家のご婦人方から聞いたよ! ついに結婚を決めたそうじゃないか。おめでとう、キルぽん!」
「……うるさいぞ、ビザー」
「はっはっはっ。そんなに照れなくてもいいんだよ! ん、それが例の結婚承認書かな? よしよし、完璧だよ。すぐに承認書と対になる特別許可証を出して、マイりんに王宮を自由に出入りできる特権をあげよう! しかしこれからはキルぽん、マイりんと呼び交わすようになるのか。素晴らしい。甘すぎて悶絶しそうで最高だね!」
「うるせぇって言ってるだろ! 絶対そんな呼び方はしねぇよ!」
「ええー、つまらないな。ではマイりんだけでも、キルぽんって呼んであげようよ!」
「え、ええっ、俺が? さすがに無理ですよ!」
「そこは無理でも頑張ろうよ。庶民風に『あなた』と『お前』でもいいんだよ?」
「あ、あなた……?」
俺は青ざめながら真剣に考えた。
おっさんが俺を「お前」と呼ぶのはいい。今と同じだ。かなりニュアンスが違うけど、まあそこは目をつぶればいい。
でも、俺が「あなた」って言うの? 想像しただけでも背中が痒いよ!
「……おい、あいつの言う事なんて、本気にしなくてもいいからな?」
「あ、うん。そうか、そうだよな」
「マイりんはいい子だね。では真面目に考えて……キルーはどうかな? はにかみながら、ちょっと舌ったらずに言うと最高だよ。ほら、袖口当たりをそっと握って、キルぽんを見上げながら呼んであげてよ!」
「おい、いい加減に黙れよっ!」
「ひどいな、キルぽん。年上の従兄にそんな態度は良くないと思うよ!」
「そう思うなら、普段から敬意を寄せるに相応しい態度をとれよ! ビザイエン三世陛下!」
おっさんはかなりイラついているようだ。
でも、相手はそんなことを気にして大人しくなる人じゃない。ニヤッと笑ってから、脱力するほどわざとらしいため息をついた。
「キルぽんも罪な男だよね。マイりんのことは、うちの息子もけっこう本気だったのだよ。それをあっさり簡単にさらってしまったね」
「……さらうも何も、こいつは俺が最初から保護してたんだが」
「うわぁ、聞いたかな、ヴァルー。最初から俺のモノだってよ! こんな契約書なんて、ちょっと時間があれば無効にできるし、マイりんの今後を考えたらヴァルーに署名させてもよかったのにね。それなのにわざわざこんな正式名で署名なんてするんだから、キルぽんも可愛いな。うん、つまり始めから勝ち目なんてなかったのだから、ヴァルーもそんなに泣かないように」
えっ?と目を向けると、ビザーたん様のすぐ後ろにいたヴァライズ様がポロポロと涙を流していた。
その隣で、ミハリスさんも拳で涙を拭っていた。
近衛騎士様たちは他にもいたけど、若い騎士様の多くはなぜかむせび泣いていた。
キラキラしたイケメン騎士様たちの異常な姿に、意味がわからなくて思わずおっさんの袖口を掴んでしまったら、今度はこの世の終わりのように身悶えしながら嗚咽を漏らした。
これは……かなり引く。
「……おっさん、あの人たちは何で泣いてるの?」
「お前の結婚が決まったからだろ」
「結婚? ……あ、そうか。署名が完了したってことは、そういう事か!」
……結婚するからと泣くなんて、まさか本当に俺に惚れていたってことか?
いやぁー、参ったな。
俺って美少女すぎるもんな!
……顔だけで俺に惚れるのかよ。特にヴァライズ様なんて、俺の男らしい言動も見てしまっているはずなんだけど。
そんなことを考えて悩んでいたら、突然ぐいっと引き寄せられた。
全くの不意打ちで、俺はおっさんの分厚い胸に顔をぶつけてしまった。
「いてぇよ! 何をするんだよ!」
「……お前なぁ! 自覚が足りねぇにもほどがあるだろ!」
「あれ、俺、変なことした?」
「…………まあ、お前はそう言う奴だったな。だが、無性に腹が立ってきたぞ」
「おっさん、いきなり何を言って……えっ……?」
俺の顔が、首の後ろから回った腕に固定された。さらに顎をつかまれ、ぐっと上向かせられた。
無理矢理固定された俺の顔に、おっさんの顔が覆い被さるように近付いてくる。深い青色の目に間近から見つめられ、俺の心臓はおかしな動きをした。
「お……おっさん……?」
「お前の目は真っ直ぐすぎる。閉じてろ」
「め、目って、お、おっさ……ん、んんっ……!」
青い目がまぶたに隠れた。
その動きに見入った次の瞬間、柔らかなものが俺の口に触れていた。唇の上を滑り、まるで食べられるように挟まれた。
目を閉じろと言われたけど無理だった。
閉じる余裕もなかった唇は何度も吸われ、その合間にぬるりとなめられた。
俺は悲鳴をあげたと思う。
でも口をふさがれているから、言葉にはならない。もごもごと動くだけの唇の隙間から舌が侵入してきて、混乱した俺はおっさんを押し退けようとした。
でも、動けない。
それどころか、もう一方の手でさらに腰を引き寄せられた。
体全体がおっさんに触れているようだ。
さらに煽るようにおっさんは俺の唇をむさぼり、中に滑り込んだ分厚い舌で俺の上顎に触れた。
……何だ、これ。
これは、何なんだよ!
怖いよ! 息が苦しくて、無理やり上向かされているから首も痛いっ! 気持ちも悪……くはないけど、なんかドキドキしてきて、体が熱くてよく動かない……!
全部を持っていかれそうで、足がガクガクと震えた。
気が遠くなりそうだ……!
本気で苦しくなって、俺はおっさんの服をギュッとつかんだ。
それが合図になったように、おっさんの顔が離れた。
呼吸は楽になったのに、息は荒いままだった。足に全く力が入らなくて、おっさんの手が離れるとずるずるとその場に座り込んでしまった。
「……えっと、見せつけられちゃった、かな?」
「嫌なら去れよ」
「うーん、まあ、また後で。マイりん、こんな男がイヤになったらこの契約書は無効にしてあげるからね、いつでも言うのだよ。ヴァルーもいい加減に泣くのはやめなさい」
「……は、はい……」
嗚咽と剣が揺れる硬い音が絶え間なく聞こえる中、ビザーたん様たちはぞろぞろと部屋を出ていく。
でも、俺は見送る余裕はなかった。
……なぜだ。
なぜ、俺がおっさんにあんな濃厚な……キ、キスをされるんだよ!
「この際だから、言っておくぞ」
「……え? 何?」
「お前はまだガキで、頭もまだ男のままだ。だから、今すぐどうこうするつもりはない。だが……」
座り込んだ俺と目を合わせるように膝をつき、おっさんは生真面目な顔をした。
「最近のお前は、美しい女に見えることが増えた」
「……は……?」
「だからな、これからはそのつもりでいろってことだ。俺に食われたくないなら、無駄に煽らねぇように言動に注意しろ」
……俺を食うって、それはつまり……性的に頂きますってこと?
頰が急に熱くなった。
真正面から見つめてくる視線に耐えきれなくなって、俺はぱたぱたと這うように動いておっさんに背を向けた。
視界から消えると、少し落ち着く。
でもおっさんの押し殺した低い笑い声が聞こえた。
「虫みたいな動きだな。……そんなにおびえるなよ、嫌がる女を襲う趣味はねぇよ」
「で、でも、さっきはいきなり……キ……キスしやがったじゃねぇか!」
「ずっとイラついていたから、少し頭に血が上っていた。謝る気はねぇが、次はもう少し理性的に行動する」
「理性的にって、また俺に……キ、キスをするのかよ!」
「あー……悪いが、お前を飾りの妻にしておけるほど枯れてないんだ」
背後からため息が聞こえた。どんな顔をしているのかちょっと気になったけど、怖くて振り返ることができない。
おっさんが動く気配があった。
それを感じて、俺はまた肩をビクッと動かしてしまった。心臓がバクバクと激しく動いて、俺はぎゅっと目を閉じた。
でも、俺がおびえるようなことは何も起こらなかった。
大きな手が、ぽん、と頭に手が乗っただけだ。俺が逃げないとわかると、がしがしと乱暴に動いた。
おっさんの体は体温を感じないくらいに離れている。頭をなでる手の重さに、俺はだんだん落ち着いていった。
俺は頭に手を乗せたまま、くるりと振り返った。
突然の行動に、おっさんは少し驚いた顔をして手を離した。見慣れた深い青色の目を見上げ、俺はおっさんに指を突きつけた。
「俺は、翼竜が大好きなんだよ! カズラム様に誘惑されかかったくらいに好きなんだ!」
「何が言いたいかよくわからねぇが、お前の翼竜好きは知っている。……俺はしばらく北高地の要塞に赴く。お前も一緒に行くか?」
「マジで? 絶対に行く! ……あ、でも襲うなよ!」
「わかってるよ」
「あと、一人部屋じゃなくて、おっさんと一緒の部屋にしてくれ!」
「……おい、お前はいったい俺に何をさせたいんだよ!」
「さ、寒いのは苦手なんだよ!」
「猫と一緒に寝ろ!」
「俺はおっさんと一緒がいいんだよ!」
俺が叫ぶと、おっさんが絶句した。
……どうやら、ちょっと言葉を間違えてしまったらしい。
猫は好きだけど、要塞は壁が厚くて一人部屋だと静か過ぎるから、おっさんと気楽に話せる同室がいい、と言いたかったんだ。
幸い、おっさんは俺のことをよく知っていた。
だから、俺は床に押し倒されることはなかった。でもあっと言う間に抱き上げられて、足が宙に浮いた状態で抱きすくめられてしまった。
「……このクソガキがっ! もう少し考えてから口を開くようにしろ!」
「く、苦しい……! 一人部屋は寂しいから苦手だなんて、いい年してそんな恥ずかしいことを言いたくないんだよ! 察してくれよっ!」
「ああ、そんなところだろうとわかってたよ。お前はそう言うやつだ。だが腹が立つ! ……ところで、この耳の下の跡は誰につけられたんだ?」
「……は? 耳?」
俺はおっさんの腕の中で首をかしげた。
耳……耳の下……?
「……あ、カズラム様に耳になんかされた気がする」
「クソっ、先に言えよ。知ってたらあいつの髪は全部剃り落としてやったぞ」
おっさんは舌打ちした。
そして、いきなり俺の耳の下に唇を押し当てると、ぎゅっと痛いくらいに吸い始めた!
「い、いてぇ!」
「歯型もつけてやろうか?」
「えっ? おっさんが野獣になった! ……うわ……や、やめ……!」
俺が悲鳴をあげた時、扉が再びバン!と派手な音を立てて開いた。
抱きかかえられた姿でおっさんの頭を必死で押し退けようとしていた俺の目に、ずかずかと近付いてくる女の人が入ってきた。
俺と目があった時だけ優しく微笑んでくれたけど、マジで鬼の形相だった。
「……あ、セアラお姉さん」
「セアラだと?」
おっさんは慌てて顔を離して、俺を床におろした。
でも、もうすぐそこにセアラお姉さんがいて、解放されたばかりの俺をぎゅっと抱きしめながらおっさんをにらみつけた。
さらに、バチンッ!と派手な音がして、おっさんの頰が薄っすらと赤くなっていた。
「この変態! こんなにかわいいマイラちゃんに何てことをするのよ!」
「これは、その……」
おっさんが慌てていると、またパシッ!と音が響いた。
スナップが効いた見事な平手打ちだ。さすがセアラお姉さん。まるで鞭だよ……!
「十代の女の子のピチピチのお肌にキスマークなんて、本当にあなたは最低ねっ! いい年したおっさんなんだから、自分の性欲くらい制御しなさいよっ!」
「いや、待て! 先に痕をつけたのはカズラムだっ!」
「……カズラム様、ですって? イケメンのくせにあの方も変態なの? ……でもあの方はまだ二十代半ばだからまだ許せるかしら?」
「許せるわけがねぇだろ! 多分あいつは催眠術か何かを使って、こいつが動けない間にやってるんだぞ」
「何ですって! マイラちゃんったら可哀想にっ! ちょっとあの方の頭を剃ってくるから、もう泣かなくてもいいのよ!」
「……え? いや、俺は別に泣いたりは……」
俺は抗議しかけて、結局口を閉じた。
だって、ぎゅっと押し付けてくるセアラお姉さんの胸が柔らかくて、気持ちよくて。
……やっぱり、抱っこしてもらうのって気持ちいいな。おっさんにされたのは苦しかったけど。その分全部が包み込まれて、暖かかったけど。
俺はそっとおっさんに目を向けた。
セアラお姉さんの怒りの矛先がそれて、ほっとしているようだ。
がしがしと髪をかき乱してため息をつくと、扉口からのぞき込んでいた近衛騎士様たちの方を振り返った。
「仕事に戻るか。……おい、状況はどうなってる?」
「全て順調に完了しました」
「舞踏会はどんな様子だ?」
「異常は察知しているようですが、表向きは何も変化はありません」
「まあ、貴族の連中はそれが仕事だからな。俺も顔を出しておくか。……マイラはもう休んでいいぞ。セアラがいるから安心だろ? ただし、今度は脱走なんてするなよ」
おっさんはそう言って、口の端を少しだけあげて笑った。
それから両手で髪を撫で付け、真っ赤な上着をざっとはたいて、襟元を軽く整える。
たったそれだけで、あっという間に美麗なイケメンが出現するのが不思議だ。
ひらひらと手を振ったおっさんは、大股で歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はしみじみと考える。
セアラお姉さんの前では、絶対に言わない方がいいと学んだから黙っているけど。……俺、おっさんにぎゅっとされるのは好きかもしれない。




