(44)とにかく走る
必死で走る俺の背後から、笑い声と甘い誘惑が追いかけてきた。
「ははははは! 陛下が可愛がるのも納得だよ! 私の妻になったら、贅沢をさせてあげよう! 全身を孔雀火蜥蜴の鱗で飾ろうか!」
「い、いらねぇよ! そんな悪趣味な贅沢!」
「おや、君は知らないのか? 孔雀火蜥蜴はドラゴンの餌の一つと言われているんだよ! 蛟もドラゴンが好むと言われている!」
「餌かよ!」
「そう言えば、君には翼竜がとても懐いてくるそうだね。では、領地で翼竜を飼ってみようか! 私が王になれば、王都の上空を翼竜たちの遊び場にすることも可能だよ!」
そ、それはちょっと……いや、かなり魅力的だけど!
そんなミエミエの誘惑には、ぜ、全然、心は揺れないからな!
翼竜が王都の上空で飛び回るのか……似合うだろうな……王宮の中庭なんて、降り立つのにちょうどいい感じだよな……。
……いや、ダメだ! 聞くなよ、俺!
走れよ!
「さあ、想像してごらん! 今は魔法での転移しかできない長距離移動が、翼竜で可能になるのだよ! 馬車のような狭苦しい空間に閉じ込められることなく、空を飛びながら風景を楽しめるなんて、最高じゃないか!」
「……空……いや、ダメだ!」
「私は寛大な夫になるだろう! 地方で翼竜と戯れて続ける妻でも、必要なときに戻ってきてくれればそれでいい! 必要なときに美しく着飾り、私の隣に立つだけだよ!」
……おお。確かに条件としては悪くないな。
庶民から王族の正妻に成り上がって、翼竜たちと戯れて、義務として必要な時に着飾るくらいだったら、俺でもなんとか……。
「ただし、子供は二人は産んでもらいたい!」
「……やっぱり無理! 子供なんて、それは絶対無理だっ!」
少しだけ揺れていた心が、ガツンと殴り飛ばされた。背筋が一気に冷え切った気分だ。
いつの間にか思い描いてしまっていた王都上空を飛ぶ翼竜という光景を、俺は首を振って無理矢理振り払った。
この人、変態なだけじゃない!
声を聞くだけでヤバいよ!
的確に俺の弱いところをぐいぐい押してきやがる!
ビザーたん様も大概だと思ったけど、王族ってみんなこんな感じなの?
ついてくるなよ、この変態イケメンめっ!
心の中で悪態の限りをつきながら、俺は廊下の角を曲がった。
でも、後ろばかりを気にしていたのはまずかった。
俺が前を向いた時には目の前に人がいて、止まることも避けることもできずにぶち当たってしまった。
「イテッ!」
「だ、大丈夫ですか! マイラグラン嬢!」
「……あ、ヴァライズさん」
俺がぶち当たったのはヴァライズさんだった。
勢いよく体当たりをしてしまったけど、ヴァライズさんは平気な顔をしている。それどころか、俺に怪我をさせていないかと焦っていた。
まあ、俺も怪我はしてないよ?
ちょっと鼻を打っただけだ。
たぶん、とっさに抱きとめてもらって、一歩後ろに下がることで勢いを殺してもらったからだと思う。
けど……白状すると、俺はちょっとドキッとした。
だってこの人、細身のイケメンに見えるくせに筋肉がすごいんだよ!
顔が当たった時の感触では、胸筋とか腹筋とか、かなりあると思う。
外見はさわやかで気のいいイケメンだけど、脱ぐとすごい人のようだ。……ちっ。長身で筋肉もついているイケメンなんて、俺のいないところで滅びればいい!
「それより、なぜこんなところに?」
「あー……ちょっとお散歩を……嘘です、脱走していました。ごめんなさい」
俺が素直に謝ると、ヴァライズさんは首を傾げつつもにっこり笑ってくれた。
どうやら、とがめたりはしないらしい。
でも俺の手元を見て、少しだけ眉を動かした。
「それは、契約書類ですか?」
「あ、契約書類ってすぐにわかるんだ。実はこれは……ってそうだよ、俺は逃げてる途中だった!」
「……逃げる?」
ヴァライズさんの表情が、突然がらりと変わった。
何だか周囲の気温が下がったんじゃないかってくらい、冷ややかな顔になっている。
見知らぬ人のようだ。
でも、そんな顔も誰かに似ている気がした。
気になったけど、ヴァライズさんの横にもう一人、近衛騎士様が並んでいるのを見て青ざめた。
「マイラグラン嬢?」
「……ミハリスさんって……宰相様の次男さん、だよね?」
「はい、父は宰相の地位を賜っています」
「と言うことは……あんたもカズラム様の味方なのかよ!」
「兄の味方? おい、ヴァライズ、何があったんだ」
「わからない。だが……失礼!」
ヴァライズさんはいきなり俺が丸めて持っていた紙に手をかけて、さっと広げた。
もちろん、俺は手を離していない。ほとんど意地で紙の端を握ったままだ。でもヴァライズさんはそんな事を全く気にせず、書面に目を通して眉をひそめた。
「……これを、どこで?」
「宰相様たちがこれを持ってきたんだよ! カズラム様の声を聞いているうちに、なんかうっかり署名しちまったんだよ! なあ、これ、どうやったら無効にできるの? 破ろうとしたけど全然破れないんだよ!」
「この紙は特殊な製法ですから、一晩火の中に置くとか水の中に漬け込むとか、そのくらいしなければ破損もしませんよ」
「マジかよ! 火……は無理だから、水、水……も浸けている間に見つかったら意味ねぇし!」
俺は紙を取り返して、再びくるくると丸めた。
ちょうどその時、バイザイスさんとカズラム様が角を曲がってきた。
「おや、我らを待っていてくれたのかな?」
「ま、待つ訳ねぇだろ!」
俺は言い返しながら、どちらへ逃げるべきかと必死で目を動かした。
でも、その視界は凛々しい騎士様の背中で遮られた。
「カズラム殿、事情を聞きたいのだが」
「殿下がお気になさるようなことではありませんよ」
「マイラグラン嬢との結婚を承認する書類なら、私にも無関係ではない!」
ヴァライズさんは、いつになく厳しい声だった。
空気がびりびりと震えるようだ。
俺まで身動きができなくなってしまった。
……いや、逃げねば!
カズラム様とヴァライズさんは仲がいい訳ではないようだし、この隙に……って、んん?
「……あの、殿下、って誰?」
「ヴァライズ王子殿下のことですよ、マイラグラン嬢」
「…………王子様?」
ミハリスさんの説明に俺が呆然とつぶやくと、ヴァライズさんは肩越しに振り返って、にっこりと笑った。
「気付きませんでしたか? ビザイエン三世が我が父です」
「……マジかよ」
このさわやかイケメン騎士様が、あの変態イケメン中年様の息子?
うわぁ、全然似てねぇな!
いや、目の濃い青色はそっくりだけど。華やかな金髪もそっくりだけど。整った顔立ちもよく見たら似ているし、さっきの冷ややかな表情なんて一般向けな時のビザー様にそっくりだけど。
……あれ? おかしいな。普通によく似ているじゃないか。
雰囲気が違いすぎて、全然気付かなかっただけだった!
とりあえず、俺は頭を整理することにした。
カズラム様たちは、前国王様の妹様の子供らしい。
だから、前国王様の息子であるビザーたん様とカズラム様たちが従兄弟になる。
ヴァライズさん……ヴァライズ様はその息子だから、カズラム様とミハリスさんの兄弟とは……こういう親戚って何て言うんだったかな?
……なんて悩んでいる場合じゃねぇよ!
「よくわからないけど、俺は逃げるから!」
「その契約書に、私が署名をする間はお待ちいただきたい!」
「それは許されないぞ、カズラム殿! あなたにマイラグラン嬢を譲る気にだけはなれない!」
「おや、私と敵対するとでも?」
「あなたがわきまえぬのなら、仕方がない」
俺が逃げ出すタイミングを計っている横で、ヴァライズ様とカズラム様がにらみ合い始めた。
冷ややかな顔をしたヴァライズ様は、はっきり言って爽やかバージョンの時より近づき難いけどイケメンですね! 対するカズラム様も、邪悪なくらいに妖艶です!
……と言うことで、これは逃げ出すチャンスだ!
そんなことを思っていたら、剣を抜く音がした。
はっとして目を向けると、バイザイスさんが剣を抜いていた。
剣を向けている相手は、ヴァライズ様だ。……えっ、近衛騎士が王子様に剣を向けるって、なんだよそれ!
見ているだけの俺は無駄に焦ったけど、剣を向けられたヴァライズ様は意外に落ち着いていて、わずかに眉を動かしただけだった。
「バイザイス、私に剣を向けるのか?」
「お許しを、殿下」
「彼のために弁明しておくと、裏切ったわけではないよ。元々、私に忠誠を誓っていたのだから」
「なるほど。王族への忠誠と言いつつ、正統な血統ではなく傍流を選んだのか。……ミハリス、お前はどうなんだ?」
表情を消したヴァライズ様の言葉に、俺はおそるおそるミハリスさんに目を向けた。
カズラム様とそっくりの美麗な騎士様は、ヴァライズ様の視線を受けながらゆっくりと剣を抜いた。
まっすぐにヴァライズ様を見つめ、それからふっと笑みを浮かべた。
「私は騎士だ。戴くべき主君は自分で選ぶ。父よりも、兄の命令よりも、友情と正統なる主君を選ぶぞ」
そう言うと、マントを脱ぎ捨てながらバイザイスさんに切りつけた。
どうやら、ミハリスさんはヴァライズ様の味方なのは揺るがないようだ。
……よかった。
俺への崇拝を誓ったあの暑苦しい友情は、その場限りの偽りではなかったんだ。
それが何だか嬉しくて、俺は一瞬だけにやけたけど、カズラム様が俺を見て微笑んでいるのに気付いてしまって、全身に一気に鳥肌が立った。
今度こそ、俺は逃げ出した。
激しく切り結ぶ近衛騎士様たち二人から離れ、カズラム様から逃れ、なぜか一緒に走っているヴァライズ様の息遣いを感じながらひたすら走った。
「マイラグラン嬢、どこへ向かうおつもりです!」
「知らねぇよ! とりあえず、おっさんはどこだよ!」
「……おっさん……?」
「キ、キルバイン様だよ!」
「ああ、キルバイン殿なら、少し前まで制圧に協力して頂いていましたよ! ……おかしいな、どこへ行かれたのかな」
「ヴァライズさん……ヴァライズ様も知らねぇのかよ!」
「マイラグラン嬢、私のことは、様などつけずにヴァライズとお呼びください! あるいは、ヴァルーと呼んで頂いても……!」
「それは絶対に無理だからっ!」
俺は思わず叫んだ。
大声で叫んだ分だけ、息が苦しくなった。
もう、いやだ。
この国の王族様って、庶民に親しくしすぎ!
と言うか、走りながらの会話がこれって、緊張感がなさすぎだろっ!
俺は必死で走った。
振り返ると、すぐ後ろにマントを翻しながら走っているヴァライズ様がいる。それから少し離れたところに、複数の護衛を従えて追いかけてくる人がいた。
王子様というより、本職の騎士なヴァライズ様が息を乱していないのはわかる。
でも後ろから追いかけてくるその人の額からは、汗が流れ落ちていた。なのに全然むさ苦しい感じはない。妙に身綺麗だ。
さすが、お貴族様だな。
……いや、違うよね。
お貴族様って、全力疾走するような人種じゃないと思うんだ。
そりゃあ、護衛を引き連れて走っているあの人は、庶民の乙女たちが思い描く夢の王子様のようにキラキラしているけど。
宰相様の長男というより、国王様の従弟様は、汗だくで走っても無駄にキラキラしたイケメンで……ちらっと見ただけで腹が立つ!
それを言うなら、本物の王子様は実は脱ぐとスゴイ騎士様で、必死で走っている俺を見てうっとりと微笑みながら並走しているんだけど。
もう、いろいろ庶民の夢をぶち壊しているよっ!
「美しく稀有なる令嬢よ! 恥じらう必要はない! 我が胸に飛び込んで来てもいいのだよ!」
「今すぐ首をはねられたいのなら、そう言っていただこう!」
「ははは! 必死なヴァライズ殿はかわいいじゃないか! まあ、君もマイラグラン嬢に膝裏を蹴られれば、自分の首を掛けてもいいと思うだろう!」
カズラム様は、微笑みながら優雅に叫ぶという離れ業をしていた。
あれだけ汗を流しながら走っているのに、意外に余裕がある。しかも無駄に綺麗なあの巻き毛まで健在だ。
お貴族育ちのお坊ちゃんのくせに、元気過ぎる!
憤慨している俺のすぐ後ろで、優雅な舌打ちが聞こえた。
「……マイラグラン嬢に蹴られただと? ……やはり、あなたは許しがたい!」
ヴァライズ様は走りながら剣を抜いた。
すでに抜剣して背後から切り込もうとしてたカズラム様の護衛たちは、ぱっと動いてヴァライズ様の剣から距離をおいた。
そんな彼らを尻目に、俺はただ前を向いて走り続けた。
……正直に言おう。意味が全くわからない!
庶民には理解できない世界だ。
貴重なドラゴンの呪い持ちを欲しがる気持ちは、まあわからないでもない。
絶世の美少女をモノにしたいという男の本能も理解できる。
国王様のお気に入りの女を、横からかっさらって娶ってしまえってのも、まあ野心のある男だなって思うんだ。
でも、なんで俺なんだよ。
膝裏蹴られて、カックンさせられたのがそんなに自慢なのか?
そこで、やっぱり許せないって発想は何なんだよ。背後から斬りかかろうとした護衛のこと? きっとそうだよね、そう思おう!
俺はぶるぶると頭を振った。
今は意味不明なことに悩む余裕はない。
ヴァライズ様が護衛たちと激しく切り結んでいる隙に、カズラム様がまだ俺を追って来ている。
男だった頃の俺なら、牧場できたえた体力で貴族のお坊ちゃんなんて余裕で引き離せた。自慢じゃないが、足はけっこう速かったしな。
でも今は、生物学的にかよわい女の子。筋力も歩幅も余裕で負けている。
今さらだけど、なんで女の子になっちまったんだよっ!




