(39)母と子の真実
「……宰相様……?」
「おや、ご存知でしたか。実に光栄だな」
宰相様は人当たりのいい笑顔を浮かべた。
でも、目が怖い。なぜかそう思った。
思わず一歩下がってしまい、ミハリスさんの体に当たってしまった。
「……マイラグラン嬢? お顔色が悪いようだ」
「ああ、そうだった。マイラグラン嬢は喉が渇いたとおっしゃっていたのだよ。向こうの椅子に戻りましょう。どうぞお手を……」
ヴァライズさんが進み出ながら手を差し出してきた。
でも、俺の手は別の手が包み込んでいた。
ミハリスさんでもない。だって、その手は柔らかかったから。
まるで女の人のようにきれいだけど、しっかりと大きいから男の手だ。それに、俺の手を握る力も女の人とは比べ物にならないくらいに強かった。
「どうぞ、こちらへ。美しい人」
ささやくような声は、とろりと甘い。
耳に心地よく響く声だ。つい聞き惚れると、俺の顔を覗き込んでいる耳元で揺れる飾りが、チリリと澄んだ音を立てた。
その音もキレイだ。
キレイすぎて、なんだか頭がぼやけてしまいそうだ。
歩き出そうと足を踏み出した時、俺の首を飾っていた銀の鎖がチャリと鳴って、俺ははっと我に返った。
おい、今の俺、なんかおかしかったよな?
足が勝手に動いたようだった。あの一瞬、何も考えられなくなっていた。
まるで……魔法にかけられたようだ。いや、魔法だろう。一瞬、孔雀火蜥蜴の鱗が光っていたから。
そう思い至って、背筋がひやりと寒くなる。
でも、今は警戒しすぎて悟られるのは危険だ。
だから俺は、何事もなかったかのようにミハリスさんのお兄さんと一緒に椅子へと向かった。
素直に歩くふりをしながら、俺は密かにおっさんを探していた。
ヴァライズさんは心配そうに後をついて来ているから、差し当たっては危険ではないと思う。
でも、ヴァライズさんだって完全に安全な訳ではない。
どこまで行ってるんだよ、おっさん。
早く迎えに来いよ。
こんなに可愛い愛人を若いイケメン連中の中に放置するとか、どんだけ自信のあるお貴族様の設定なんだよ!
内心かなり焦っていた俺は、隣を歩く人が俺を見つめていることに気付くのが少し遅れた。
しまった。
魔法にかかっていないことがバレたかもしれない!
「マイラグラン嬢」
「……は、はいっ、何でしょうかっ!」
「私のことは、カズラムと呼んでいただきたい。……あなたの美しい声で我が名が呼ばれれば、無上の喜びに打ち震えることになるだろう」
……ああ? な、何を言っているのかわからない。
でも、まずい。
またお貴族様に名乗られてしまった。
ミハリス様のお兄さん、で十分なのに!
聞かなかったことにするか迷っている間に椅子に着き、俺だけそこに座る。女性の特権だな。
でも、ヴァライズさんが追いつく前に、カズラム様がささやいてきた。
「マイラグラン嬢の母君の名前は、エリシア、だね?」
「……え……?」
俺は思わずカズラム様を見上げた。不審に思ったから、目つきがちょっときつくなってしまったかもしれない。
おっさんに禁じられた上目遣いか、煽る行為になるかもしれないと気付いたのはその後だった。
母さんの名前は、確かにエリシアだ。
俺自身のことならともかく、十年も前に死んだ庶民の女のことを、宰相様のご子息様がわざわざ調べたのか?
俺はゴクリと唾を飲み込んた。
「……よくご存知ですね」
「父が覚えていたのだよ。あなたそっくりの美貌を持ったメイドがいた、とね。母君は早く亡くなられたそうだが……純粋な人間の女は魔人族の子を産むことで命を削る、という伝承は真実のようだな」
……なあ、この人はいったい何を言ってるんだ?
命を削る? 伝承? ……魔人族?
耳に入っていた言葉の意味を理解して行くうちに、俺は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「あ、あなたは、何を……」
「魔人族が人間か否かという論争は、昔からある。人間である根拠は、普通の人間との間に子が成せるからね。……しかし母体が人間の場合、子を生んだ女は命を削り取られたように急激に衰弱すると伝えられてきた。逆に、母体が魔人族の場合は何の問題もない。魔人族の特殊性をはっきり表していると思わないかな?」
俺は目をそらした。
混乱する頭を整理しようと、俺は大きく息を吸った。
魔人族の特殊性とかは、今は置いておくとして。
この人の言っていることが正しいのなら、母さんは王都にいたことがある。
母さんは決して語らなかったけど、この人の話によれば、俺の父親は魔人族らしい。
魔人族って、ハリューズ様以外にもいるのか?
まさか、ハリューズ様が俺の父親なのか? それとも別の人?
……いや、問題はそこじゃない。
そんなことじゃなくて、つまり俺は……母さんは……。
急激に体が冷えたようだ。手が震える。
そばに来たヴァライズさんが心配そうに何か話しかけてきたようだけど、よく聞こえない。
手の震えを抑えようと、無意識のうちに自分の腕をつかんだ。
でも、体全体が震えていると気付いただけだった。
「おい、どうした?」
覚えのある声が聞こえた。
言葉の意味もわかる。
ガタガタと震えながら、俺は顔を上げた。
目の前に、厳しい表情をした顔があった。
ところどころに白毛が混じる黒い髪に、深く青色の目。
腹が立つほど端正な顔のくせに、目つきが鋭くて頰に薄い傷跡がある。
派手な真っ赤な衣装を着たイケメンが、椅子で身を縮めていた俺の前に膝をつき、俺を見上げていた。
「……おっさん……」
おっさんだ。
やっと戻って来てくれた。
俺は目の前にある顔に手を伸ばした。
きっちりとなでつけた髪に触れ、そのままおっさんの首にぎゅっとしがみついた。
椅子から体が滑り落ちてしまったけど、とっさに受け止めてくれたおっさんに、俺はただすがりついた。
「お、おい」
「……遅せぇよ! 俺を置いていくなよ!」
「ボウズ? 泣いているのか?」
「泣くわけねぇだろ! 俺は男なんだぞ! 人前で泣くほどのガキでもねぇよ! そんなのも忘れるなんて、もうボケたのかよ!」
真っ赤な上質の布に覆われた肩に向けて、俺は小声で悪態をついた。
おっさんは戸惑ったように動きを止めていたけど、俺が頭を擦り付けると背中をゆっくりとなでてくれた。
「おい、こいつに何があったんだ?」
「申し訳ありません、キルバイン殿。私がダンスに誘ったから、お疲れになったのかもしれない!」
「いや、こいつは細くて小さいが、そんなヤワな奴じゃねぇよ。……熱はないようだが、少し休ませるか。部屋に連れていくぞ」
「ご案内します」
「場所はわかる。お前はビザーに知らせてくれ」
ヴァライズさんは何か言いたそうだったけど、結局そのまま早足でどこかへ行ってしまった。
俺をしがみつかせたまま、おっさんは立ち上がった。
俺の位置を少し動かして左腕だけで抱え上げ、右手で自分の服をざっと整える。
それから、あからさまに見ている周囲へと笑顔を向けた。
「お騒がせした。こういう場に慣れないゆえに、疲れてしまったようだ」
「それはいけないね。美しい姿が見えなくなるのは残念ですが、休ませて差し上げてください」
「お心遣い感謝します。……宰相閣下」
宰相、と聞いて俺はつい体を震わせてしまった。
それをどう理解したのか、おっさんは俺の頭を軽くなでて、そのまま大広間から退出した。
王宮の長い廊下をしばらく歩き、俺は静かな区画の部屋に連れていかれた。
小さな足音と衣摺れの音がするから、メイドさんが準備をしてくれているようだ。
ロウソクの灯りに照らされ、ほのかに明るくなった部屋は広かった。落ち着いた色彩の調度は、よく見ればとても上質だ。
でも、俺は今はあまり興味がなかった。
おっさんはそんな俺を長椅子に座らせ、メイドさんが用意してくれた水を満たしたコップを持たせてくれた。
「なあ、ボウズ、いったい何があったんだ?」
メイドさんが退室したのを確かめてから、おっさんはいつもより少しゆっくりとした口調で問いかけてきた。
俺と目線を合わせようとしているのか、おっさんは床に片膝をついている。
水を少し飲んだ俺は、そっとおっさんを見た。
「……おっさんは、俺の母さんの名前を知ってる?」
おっさんは表情を変えなかった。
それが答えなのだろう。
「おっさんも、やっぱり調べたの?」
「お前の母親の名前は親方から聞いていたんだよ。それ以上のことは、保護すると決めてから調べさせてもらった」
「……俺の父さんのことは、何かわかった?」
「可能性は全て調べた。だが、確証は得られていない」
「そうなんだ」
ふうっと息を吐いた俺は、ごくごくと一気に水を飲んだ。
喉が渇いていたのは本当だったから、水はとても美味しかった。
空になったコップを置いてから、おっさんがまだ床に膝をついたままだと思い出して、ポンポンと俺の隣を叩いた。
「おっさんもこっちに座れば? なんか落ち着かないよ」
「……あのな、男を気安く長椅子に誘うな」
「なんで?」
「気楽に押し倒せるからだよ!」
「……あ、そういう事か」
俺は思わずきちんと座り直した。
震えはいつの間にか止まっていた。気持ちもが少し落ち着いたから、頭もまともに動き始めた気がする。
そうだった。今の俺は、最高の美少女だったよ。
「それで、さっきはどうしてあんなに動揺していたんだ?」
「うん……それなんだけど」
落ち着いていた心臓が、また急に大きく打ち始めた。
俺は口ごもったけど、思い切って言葉を続けた。
「魔人族と人間の間って、子供は生まれるんだよね?」
「……ああ、そうだな」
「母体が人間の時は、負担がとても大きいって本当なの?」
「本当だ。だから魔人族の血を入れる時は、必ず魔人族の女と結婚するようになっている」
「……逆の場合は?」
「昔はあったと聞いている。だが……人間の女が魔人族の子を産むことは命懸けだ。一人生むだけでも、寿命を削ると言われている。だから今では、魔人族の血を欲する王族などでも禁忌とされているくらいだ」
禁忌か。
そうなんだ。
……本当に、そういうことがあるんだ。
「俺の父親は、魔人族だろうって言われたよ」
「誰に言われたんだ?」
「さっき、カズラム様にそう言われた。おっさんもその可能性があるって思ってた?」
「カズラム……宰相の長男か。言っておくが、ハリューズ様は違うからな」
「違うの?」
「あの人は、その頃はまだこの国には居着いていなかった。……だが、奴らも魔人族と言ったのなら、間違いないんだろうな」
おっさんは眉をひそめた。
俺はと言えば、ハリューズ様は違うと聞いて、ほっとするような、残念なような、何だか複雑な気分になってしまう。……あの人を「父さん!」と呼べる気はしないけど、キライじゃないんだよ。
おっさんは、そんな俺を見ながら何かを考えているようだ。ちらっと扉を見たから、もしかしたらビザーたん様とか将軍閣下とかに報告することがあるのかもしれない。
でも俺は、ついうっかり口を開いてしまった。
「あのさ、俺の母さんは……本当にどんどんやつれていったんだ。まだ若かったのに、まるで命が穴から抜け落ちていくように弱っていったよ」
母さんの事は、今まであまり人に言ったことはない。
まして、おっさんに話すようなことじゃない。
でも、心の奥にしまいこんでいたことを口にした途端、俺の言葉はもう止まらなくなってしまった。
「子供の目から見ても、母さんの衰弱は早かったよ。髪のつやがどんどんなくなって、やせていって、いつも横になるようになって。……俺、年齢のわりに小さかったんだけど、そんな俺を抱き上げることができなくなったんだ」
「……おい」
「俺はまだガキだったし、不安もあったから、母さんに抱っこをねだったんだよ。そしたら、母さんはごめんねって泣いたんだ。だから、俺は抱っこしてとは言わないようにしたよ」
俺は自分の手に目を落とした。
今の俺の手は白くて小さくて細いけど、記憶の中の母さんの手は俺の成長と反比例するようにやせていった。少し荒れてしっかりとした働き者の手が、ツヤとかハリを失っていって、最後はいつも震えていた。
「でも、やっぱり俺はガキで、いい子ねって言ってもらえるだけで嬉しくて、俺から抱きついてたな。……手が震えて体が震えて、全然ぎゅっとしてもらえなくなっても……俺は母さんに抱きついて、母さんも抱きしめようとしてくれたんだ」
「ボウズ」
「……俺、母さんは悪い病気だったと思ってた。でも、俺のせいだったんだな」
母さんは誰よりもきれいな人だった。
まだとても若かったんだ。
「俺を生んだから……母さんは命を削ってしまったんだな」
膝に乗せていた手の上に、ぽたりと何かが落ちてきた。
水だ。水がぽたぽたと落ちてくる。
拭き取りたいと思っても、手がうまく動かなかった。
「俺……俺は……」
「……もういいから黙れ」
どさり、と隣におっさんが座った。
のろのろと顔を向けると、おっさんはどこかをにらんでいた。
でもおもむろに左の袖口からナイフを取り出すと、抜き身のまま柄を俺に持たせた。
「な……何……?」
「お守りだ。俺が暴走しそうになったらそれで刺せ」
「……は?」
俺が戸惑っていると、おっさんはぐいと俺を抱き寄せた。
俺はとっさに、ナイフを持った手をおっさんの体から遠ざけようと伸ばした。
そうすると俺の顔は無防備におっさんの胸のあたりに押し付けられてしまい、驚いて動きを止めてしまった背中に、極上の布越しに太い腕を感じた。
俺の体が、すっぽりとおっさんに包み込まれてしまった。
頭も、背中も、おっさんの腕に押さえ込まれた。
少し我に返って逃げ出そうと動いた途端、ものすごい力で抱きしめられてしまった。
「……お、おっさん、苦しい!」
「お前はもっと自覚しろ。男の前で、そんなに無防備に泣くな!」
「ちょ、ちょっとでいいから力を緩めてよ!」
「うるせぇ! お前がぐずぐず泣くからだ! 母親を恋しがるのなら、ガキらしく声を上げて派手に泣け!」
おっさんの腕が、さらに俺を引き寄せる。
今度はそれほど息苦しくはならなかったけど、おっさんの体温が直接伝わってくるんじゃないかってくらいにくっついてしまった。
……ヤバイ、おっさんの体、筋肉がすごい!
腕は筋肉で太いと知ってたけど、背中に触れている面積がマジで広いよ!
でも、そのおかげでさっき冷えた体があたたまる。
肌触りのいい上質の布と、あたたかい体温に包まれ、俺は体から力を抜いた。
トクリ、トクリと心臓の音が聞こえる。
それを聞いていると、心の奥底からどろどろとあふれていたものが少しずつ薄まっていくようだった。
そう言えば、母さんにも最終手段のように抱きしめられたことがある。
激しく泣きわめいていたんだけど、ぎゅっと包まれたのが気持ちよくて泣くのをやめてしまった。
あの時と同じように、身動きができなくて温かい。
こんなことで落ち着いてしまうなんて……俺って今もガキなんだな。
そんなことを考えていたら、うなじに何かが触れた。
硬くて少し荒れたそれは、おっさんの指らしい。俺のむき出しになった首にかかる後れ毛を、まるで戯れるように絡めながら動いていた。
……おっさんの呼吸が、いつもより荒い。
心臓の音も、さっきよりずっと速くなっているような……。
「あの、おっさん?」
「……まずいな。こういう時に限って、お前の昔の姿が思い出せねぇ」
「え? 何だって?」
「お前の涙が強烈過ぎた。……おい、今すぐに俺を刺せ!」
「ちょっ……おっさん……危ないってっ!」
俺は握っているナイフを必死で遠ざけた。
それを、おっさんが腕をつかんできて自分の太ももに刺そうとしている。
何考えているんだよ、おっさん!
俺が本気で青ざめた時、前触れなしに扉が開いた。
ノックはなかった。
なのに、扉はごく当たり前のように開かれて、鬼のような形相のイケメンたちが大股で踏み込んできた。
騎士様だ。
ヴァライズさんとミハリスさんが、二人がかりで俺をおっさんから引き離した。おっさんはもう力を抜いていたようで、俺は意外なほどあっさりと脱出できた。
二人のイケメン騎士様たちは、おっさんをにらみながら俺の前に立った。
「将軍閣下がお呼びです」
「そうか」
「……頭は冷えましたか、キルバイン殿」
「ああ、もう冷えたぞ。本気で助かった。お前らも気を付けろよ。こいつはとんでもなく凶悪だ」
部屋の端まで歩いて行ってガシガシと髪をかき乱し、おっさんは深いため息をついた。
俺が呆然としていると、ふと振り返って戻ってきて、俺の手からナイフを受け取った。
「悪かったな。怖い目に合わせた」
「あ、うん、おっさんを傷付けるかと思って怖かったよ!」
「……そっちだけか?」
「俺はまだ人を傷付けたことはないんだよ! それなのに刺せとか、おっさんと一緒にするなよ!」
「そうだな、悪かった。お詫びに屋台巡りにつきあってやるよ」
王都の屋台巡りか。
悪くないな。
きっと楽しいだろう。
一瞬、口元が緩んでしまった。それを見ていたのだろう。おっさんは苦笑しながら俺の頭をくしゃりとなでた。
いつも通りのおっさんだ。
俺はそのことに、なぜかほっとしてしまった。
……でも、おっさん。
そのナイフ、王宮の武器持ち込み規制に引っかかってるんじゃねぇの?
イケメン騎士様たちがにらんでいるけど……まあいいか。