(3)森の異変
俺の体が吹っ飛ばされなかったのは、運が良かっただけだと思う。
軍馬様のたてがみに護符をつけ終えた直後だったから、俺はまだ別の魔物除けの札を持っていた。馬専用の護符だったけど、体に圧力を感じる直前にそれを握りしめたから守護の力が発現したようだ。
そのおかげで、俺は吹き飛ばされなかった。
軍馬様たち二頭と、軍馬の背に跨っていたバズーナ姐さんも無事だった。
俺と軍馬たちの周辺だけ、ぽっかりと変化のない平穏な空間ができていた。でもその周りは木の葉や枝が派手に吹き上げられている。
息ができないまま呆然とそれを見ていると、急に周囲の地面がガツンガツンと波打った。
轟音が届いたのは、さらにその後だった。
「う、うわぁっ……!」
ゴウ、とも、ドン、とも違う音だった。
親方の奥さんがまだ牧場にいた頃、腸詰めを作っている横で遊んでいて、こんな音をさせたことがある。腸の端切れに水をいれていて、大破裂させた時の音に似ているかもしれない。
でも、あの時の何十倍、何百倍以上の凄まじい音だった。
音と思ったのは最初の一瞬だけだった。
あとは頭を金槌で殴られ続けているようにしか感じなかった。そんなものすごい音が、十を数える以上は続いていたと思う。
目を閉じ頭を抱えてしゃがみこんでいる間に、ふっと音が止んだ。
おそるおそる目を開けると、馬たちは全くパニックになっていなかった。
馬用護符って意外と万能だったらしい。姐さんも平然としているから、馬に跨っている人も護符の守護対象なんだろう。
馬の足元の地面も、全く揺れたりした形跡はなかった。
つまり。手綱を引いている程度の人間はほとんど守ってくれないようだ。
……俺、すぐ横にいたんだけど。
頭が壊れるかと本気で思いながら手綱だけは手放さなかったんだぞ。一緒にいる世話係を切り捨てるなんて、この護符、絶対に欠陥品だろ!
ひどい耳鳴りに耐えながら、俺は口の中で罵った。
誰をっていうか、護符そのものにというか、作成者へってのが近いけど、まあ八つ当たりだな。
本当は地面に叩きつけられて骨折とかしていないだけましだ、とは思っている。
……俺が謙虚にそう思うくらい、周囲の状況はひどかった。
太い木があちらこちらで倒れていた。湿った土を抱え込んだまま根もむき出しだ。太い根は大きく深く広がっていたのに、いとも簡単に引き千切られ放り出されていた。
小ぶりな石を敷き詰め、古いなりに整備された道の上には、裂けて折れたばかりの枝や千切れた青い葉が降り積もっていた。
倒木で道が塞がれていないのは奇跡だ。
いや、もしかしたら、旧道と言っても一応しっかりした街道だから、道に保全魔法がかけられているのかもしれない。
でも、道以外は……森そのものが破壊されていた。
しゃがみこんだまま呆然と周囲を見ていると、馬から降りた姐さんが俺の顔を両手で挟んで目を覗き込んできた。
俺の顔色や目の動きを見ているようだ。
「おい、マイル、大丈夫か?」
「……あ、はい、まだ耳鳴りが残っているけど、一応は無事っぽいです。姐さんは大丈夫なんですか?」
「私は何も感じなかったからな。馬たちも大丈夫なようだ。しかし、いったい何があったんだろうな」
「ほんと、何だったんでしょうね。……と言うか、おっさんたちは無事かなぁ。この先の方がやばそうなんだけど」
やっと立ち上がった俺は、改めて周りを見た。姐さんも難しい顔をしながら森の奥へと続く道を見ていた。
おっさんが馬の受け取り場所に指定したのは、この森の先だ。
俺たちがいる場所からは見通せないけど、上空の砂埃は向こうの方がひどいようだった。それ以上のことは何もまだわからない。
元来た道を振り返っても、空は全体的に霞んでいるばかりだった。
「姐さん、どうします?」
「……私の仕事は馬の引き渡しだ。あの男が待っている可能性が少しでもあるのなら、行かねばならない。だが、マイルは引き返していいぞ」
「いやいや、今さら一人になる方が怖いんで、ご一緒します」
バズーナ姐さんは俺の同行にしばらく渋ったけど、結局二人で先を急ぐことにした。
でも先に進むにつれて、森の様子はどんどんひどくなっていった。
道を進めば進むほど、周囲の状況は壊滅的になっていた。
最初の頃は、道に落ちているのは小枝とか葉っぱとか土くらいだったのに、一本二本と倒れこんできている木が出てきた。それがどんどん増えていって、両側からの倒木が道の半分ほどまでふさぐようになっていた。
かろうじて道の中央だけは通れる空間が開いていたけど、馬一頭が通るのがやっとだ。
姐さんは馬からおり、馬たちを引いて歩いた。念のため、馬たちには護符を追加で何枚も貼り付けている。
もし何かがあっても、高価な軍馬様たちだけは無事に帰ることができるようにしないといけないもんな。あとは馬たちが善良な人に保護してもらえば雇い主の牧場に連れ戻されるんだけど、こればっかりはなぁ。
報奨金より、目の前の名馬に目がくらんでも仕方がないといういうか。人間も生きていかなければいけないし。
一応、俺のベルトにも護符を挟んだ。
これは本当にお守り程度にしかならないだろう。死なないくらいにご利益があればいいな、と祈るばかりだ。
バズーナ姐さんにそっと目をやると、平然としているように見えてすごく緊張しているのがわかってしまった。
目の動きが完全な警戒状態だし、周囲に向けている気もピリピリしている。
これは、やっぱりとんでもないことが起きているようだ。親方の男の色気についてを拝聴する方がマシだと思うなんて。
俺は思わずぶるっと震えてしまったけど、姐さんに気付かれないように鼻歌でごまかした。
しばらく進んでいると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
まだ遠いからはっきりわからないけど、とても背が高いようだ。体つきもゴツいから男だろう。
足取りは……少しばかりふらついているようだ。ゆっくり進みながら、時々足を止めて何かを探すように草や木の間を覗き込んでいる。
もう少し近付くと、杖代わりにしているのがでかい剣だということがわかった。
俺が思っている男なら、普段はあんな歩き方なんてしない。
あれは、絶対に怪我をしている。
俺がそう考えるのと、馬の背に付けていた袋を開いたのはほぼ同時だった。丁寧に荷造りしていたから、薬などが入った小袋を取り出すのは簡単だ。
「姐さん! 馬をお願いします!」
「おい、待て! 走るな! もっと周囲を警戒しろ!」
馬の手綱をバズーナ姐さんに預けた俺は、姐さんの制止を無視して走って行く。
ちらっと振り返ると、姐さんは軍馬たちのことを完璧に引き受けてくれたようだ。軍馬様たちも、俺と一緒の時とは別人のように大人しくバズーナ姐さんに引かれていた。
うーん、こんなにあからさまだと、ちょっとへこむなぁ……。
そんな暢気なことを考えたのは、たぶん俺も逃避をしているようだ。
道を走って進むにつれてどんどん嫌な感じが強くなっていくけど、後ろに続く軍馬様は特には動揺している様子はなかった。
だから俺はふらつく男へと意識を戻した。
かなり近づいたから、相手の顔がはっきりと見えた。
「おっさん! コガネムシのおっさんだろ!」
やっぱりおっさんだった。
俺の声が聞こえたのか、足を止めて顔を上げた。そして駆け寄る俺を見て、驚いたように目を見開いていた。
「……ボウズ? お前、なんでここにいるんだ?」
「おっさんが注文した馬を連れてきたんだよ。ほら、急ぎだっていうから、とりあえず二頭だけど軍馬を連れてきてるよ。……っと、まずは手当てだよな」
薬入れの小袋を地面に置き、俺は背負っていた革袋から水と布を取り出す。その間に、おっさんは荒い息をつきながら座り込んでいた。
無理もない。おっさんは血まみれだった。
わりと男前な顔も血で汚れている。
血を拭きながら確かめて行くと、体中に切り傷があった。でも幸いなことに、どれも致命傷にはなっていない。首の血管はそれているし、肩の傷は防具のおかげかそれほど深くない。
ただ、太腿の傷はかなりひどい。肉が抉れている。腕にも木の破片のようなものが刺さったままだ。
比較的散らかっていない場所で馬たちを止め、周囲を警戒しながら歩いてきていたバズーナ姐さんは、俺の頭越しに見下ろして眉をひそめた。
「これはひどいな。あの薬を使ってみるか」
「えっ、姐さん、それは……」
「かなりしみるぞ」
そう言うなり、姐さんは自分のベルトに下げていた袋から治癒薬を取り出して、思い切り良くおっさんの太腿にかけた。
一見ただの水のように見えるけど、あれは超がつくほど高価な治癒薬だ。普通は傷の様子を見ながら一滴ずつ垂らしていくものなんだけど、姐さんは大胆にぶっかけてしまった。
でも、さすがに効果は絶大だった。
深く抉れていた傷が、あっという間にふさがっていく。浅い傷にまで癒えたところで俺は手早く包帯を巻いた。
その間に、バズーナ姐さんは残った治癒薬をおっさんの全身の傷に少しずつ垂らしていった。
木の破片の刺さった場所には少し多めにかけると、肉が見る間に盛り上がって木片がずるりと抜けていき、ポロリと落ちた。
圧倒的な効果だ。さすがは最高級治癒薬だな。
……実はあれ、馬用なんだよね。
体の大きな馬の傷を癒すものだから、人間なんて軽いもんだな。
だけど本来は馬の皮膚にできた傷を急激に治癒するくらいだから、多分途中の痛みは「しみる」なんてレベルじゃないはずなんだけど。
それなのに顔をちょっとしかめただけだったおっさんって、地味に凄いな!
つまり馬並みの体力ってことか? なんかかっこいいな。今度からおっさんこと、馬並みって呼ぼうかな。