(30)追われる人
飛んできた矢は一本じゃなかった。
その矢を全て剣で弾いたおっさんは、鞍に取り付けている小さな斧を一本左手で抜き取った。
手綱は鞍に引っ掛けたままだけど、馬は安定した速さで走り続けている。あの馬ならおっさんの足の動きだけで向きや速度を変えるはずだ。
俺が載っている馬車も、速度を増していた。
普段は乗り心地が安定している馬車だけど、さすがに揺れが大きい。体を支えるために、俺は内部に取り付けられた手すりをつかんだ。
でもその間も、おっさんから目を外さないように扉に張り付いていた。
矢が、まだどこからか狙ってるはずだ。
さっき飛んできた矢……あれは毒を含んでいた。
一瞬で弾き落とされたけど、矢尻は不自然に濡れていたからな。おっさんを本気で殺るつもりなんだ、と思い至って、馬車の揺れで体を振り回されながら俺はぞっとした。
毒には詳しくないけど、種類によってはかすり傷でもダメなんだよ。
治癒薬によっては、毒消しの効能があるのもあるけど、万能薬なんてないんだ。毒の種類がわからなかったら、ほとんど運任せってことになってしまう。
「……おい、ボウズ!」
おっさんの声がして、俺はハッと我に返った。
また飛んできた矢を叩き落とし、おっさんは左手に持っていた小型斧をブンと投げた。
無造作に投げたようだけど、その物騒なものはギュンと風を切り裂きながら飛んで、間近の建物の屋上で矢を放とうとしていた人影に当たった。
引きしぼられていた矢が見当違いな方向に飛ぶ。
周囲に血を飛び散らせながら倒れたのも見えてしまったけど、俺はそのことは忘れることにした。
おっさんが俺を振り返ったからな。
馬を馬車にぴったり寄せて疾走させながらだから、相変わらずものすごく器用だ。
「囲まれている。突破するから馬に乗り移れ!」
「えっ、でも……!」
「俺に任せろ。来い!」
おっさんはそう言いながら、手を伸ばして馬車の扉を開けた。
その後ろでは、別の護衛が網を持って迫ってきた敵を切り伏せていた。
血の臭いが広がった。
今度は近かったから、臭いをごまかすことはできない。
俺は青ざめているだろう。
足が震える。激しい揺れで、俺は開け放った扉口にすがりつくだけでやっとだった。
「来るんだ! 飛べば必ず受け止めてやる!」
「……俺……無理だよ!」
「牧場の川だと思え! よく飛び込んでいただろ!」
おっさんの言葉で、俺の脳裏に懐かしい川の光景が浮かんだ。
毎年夏になると、若い牧童たちに混じって岩場から川に飛び込んでいた。おっさんも飛び込んでいた。
川の音を思い出す。岩場の色と、対岸の木々と、飛び回る虫の羽音も思い出した。
血の臭いが薄れ、激しく流れていく街の光景も薄れた。
ここは川だ。
大丈夫、俺は飛べる。川の流れに体を持って行かれても、仲間たちが受け止めてくれる。
「さあ、来い!」
「……おう、行くぜ!」
俺は足に力を込め、一度馬車の内部に下がってから勢いをつけて飛んだ。
躊躇は命取りだから、思いっきり馬車から遠くを目指して飛んだ。
ガラガラ!と車輪の音が通り過ぎ、俺の体は一瞬の滞空の後に落ちる。
でも落ちきる前に拾われて、鞍の前に乗せられていた。
「よし、運動神経は今まで通りだな! じっとしてろよ!」
ぽん、と一度だけ俺の頭に手が乗った。
でもそれは本当に一瞬だけで、おっさんの左手はすぐに新たな小型斧を持っていた。
疾走する馬の上で、俺は必死に鞍につかまっていた。できるだけ体を伏せて、おっさんの邪魔にならないよう、馬の動きに振り回されないようにした。
落ちないことだけを考えよう。
俺は、こんなに早く走る馬に乗ったことはないんだ。
落ちそうになったらおっさんが支えてくれるだろうけど、その間おっさんは無防備になってしまう。
それはダメだ。
相手は毒を使ってくるヤバい奴らなんだ!
正面に網を広げる奴らが見えた。
先行する護衛が蹴散らし、切り裂いていくけど、それでも排除は十分じゃない。
でも、おっさんは疾走を止めず、さらに馬を早く駆けさせた。
「この馬を覚えているか?」
「う、うん」
「なら、こいつを操れるだろ。目的地はあの門だ。中に入ってしまえば追手は手を出せん」
おっさんが指差す先に、大きな門がはっきりと見えた。
あと少しだ。
でも、そこに至る道は網やら剣やらでふさがれていた。
「俺だけじゃ無理だよ!」
「大丈夫だ。お前ならできる。しっかりつかまれ! 飛ぶぞ!」
おっさんは道をふさぐ網へと向かわせる。
馬は少しも怖がることはなく、指示通りにひらりと障害物を飛び越えた。
「このまま走らせろ!」
「おっさん!」
おっさんは俺の肩にぽんと触れたかと思うと、そのまま馬から飛び降りた。
振り返ると、着地と同時に左右の敵を一気に切り伏せていた。
俺は前を向いた。
門はあと少し。……美味いタダ飯まであと少しだ!
「……こんなタダ飯、もういらねぇよっ!」
門をくぐる寸前に、俺は叫んでいた。
目的の門は、造りは立派だけどそれほど特別なものには見えなかった。
でも、通り抜ける瞬間、俺と馬は一瞬光に包まれた。
まるで壁の中を突き抜けたかのような、とても変な感じがした。
光はすぐに消え、壁のような感覚も消えた。
俺が感じたことは、馬もなんとなく感じたようだ。
振り返って追手が入ってこないことを確認する前に、馬は勝手に足を緩め、ポクポクと穏やかな歩みになってお屋敷の玄関に向かった。
そこには人がずらりと並んでいて、一人が進み出て馬の手綱を押さえてくれた。
「お待ちしておりました。マイラグラン嬢」
完全に足を止めた馬の背で、俺は一瞬悩んだ。
降りるために手を差し出してくれたのは、派手な制服の騎士様だった。
さわやかで、礼儀正しくて、穏やかで、若いのにえらく完璧なイケメン騎士様だけど……信用していいのか?
俺は迷ったけど、軍馬様は「早く降りろ」と言うように振り返っている。
イケメン騎士様も我慢強く手を差し出し続けていて、俺は観念して自分の手を重ねた。
大きな手で、武人らしく手のひらは硬い。
俺が体重をかけてもビクともしないくらいに強い腕で、俺が降りるのにもたついていると、イケメン騎士様は「失礼」とつぶやいて俺をひょいっと抱き下ろしてくれた。
両足が地面についた途端、足が震えてよろけかけた。
でも、いつの間にかもう一人そばに来ていたようで、後ろから肩を支えてもらった。
「あ、ありがとうございます」
「怪我はありませんか?」
「はい。……ちょっと足が震えているだけです」
そう言って、そっと振り返る。
肩を支えてくれている騎士様も、やっぱり若いイケメンだった。
こちらは美麗なお兄さんだ。
華やかな金髪をきっちりと後ろで編んでいる。顔立ちも昔の肖像画のような落ち着きがあって、ちょっと古風な騎士様だ。
さらにちらっと周囲を見たけど、ずらっと並んでいる騎士様は全員が若くてイケメンだった。たぶん平均年齢は二十代前半ぐらいじゃないかな。
粒ぞろいのイケメン衆を前に、俺は一瞬息を飲んでしまった。
……ヤバい、イラつく。
イケメンな上に、礼儀正しくて、生まれが良さそうで、しかも強そうとか……何だよ、こいつら!
でもそんな内心は隠して、俺はにっこりと笑った。
この辺は二週間の特訓の成果だな。
本心がどうであれ、笑うべき時は笑う。これもお作法なんだってさ。
こんな騎士様たちを味方につけられたら、それはそれで頼もしいもんな!
俺を抱き下ろしてくれた騎士様と、後ろの美麗な騎士様にも笑顔を向けた。
近いから、二人の目までじっと見てしまったけど、目の色が鮮やかな青色だから、つい見入ってしまったんだよ。
そしたら……なんか……二人の騎士様の、表情とか顔色がおかしくなったような……どうかしたのか?
「……お疲れでしょう。控えの間へご案内します」
俺の手を持ったままだったさわやか騎士様は、軽く咳払いをした。
でもすぐに丁寧に、でも有無も言わさぬように歩き始める。手を取られているから、引っ張られる形で俺も一緒に歩いた。
重厚な外見のお屋敷の内部は、意外に明るい雰囲気だった。
窓は小さくて少ないけど、どうやら古い時代の建物の特徴らしい。
建国時に建築されたために要塞のような造りだけど、内部は現代風に改築しているんだそうだ。
ちなみに、この説明は俺の手を取ったままの騎士様がしてくれた。
ふーん、なるほどな。
そういえば建国時はまだ王国の領土は今より小さくて、各地で戦争が頻発していたんだよな。アイシスさんの歴史の授業で習ったよ。
普通だったら閉鎖的で息が詰まりそうになるんだけど、巧みな明かり取りの位置と贅沢に灯されたロウソクの光で、内部はとても明るい。
裕福なお貴族様なんだな……と周りを見ていたら、ヴァライズと名乗ったさわやかな騎士様がはっと急に慌てた顔をした。
「あ、こういう話は、お若いご令嬢にはつまらない話でしたね」
「……いや、そうでもないです。最近、歴史の勉強をしたばかりですから」
心からそう言うと、ヴァライズさんはほっとしたような顔をした。
……どんな顔をしてもイケメンだな。
独特の発音がダライズの女領主さまと似ているから、この人もやっぱりお貴族様なんだろうな。
まあ、この人がお貴族様って言うのは納得できる。庶民が思い描く貴族階級の騎士様って感じだもん。
身のこなしは優雅だし、階段ではさりげなく俺の歩調に合わせてくれるし、俺をちらちら見ているし、目があうと真っ赤になって照れているし。
何というか、乙女心をくすぐるイケメンだよな。
ひ弱さとは無縁の体型だけど、ゴツくもない細身で、背も高い。
俺が生まれた時から女の子だったら、間違いなく憧れていただろうし、恋だってしちゃったかもしれない。
……でも俺は、生まれてから十六年間ずっと男だった。
年頃が近ければ近いほどイケメンぶりに腹が立つ、バカで狭量なお年頃なんだよ!
ヴァライズさんの反対側には、ヴァライズさんの補佐役という美麗な騎士様が歩いている。
この人の名前は……ミハリスさんだったはず。
イケメンの名前なんて覚える気力がわかないけど、背に腹は変えられない。
名前を覚えるだけで相手の心証が違ってくるものだから、万が一のために、味方作りは手を抜いてはいけないんだよ。
でも、このミハリスさん、さっきから俺の顔をじっと見ているんだよな。
泥がついてるの?
虫でも止まってる?
もしかして、知り合いに似ている、とか?
何だかよくわからないまま、俺は控えの間とやらにたどり着いた。
そこにはメイドさんが待っていて、ほつれ気味の髪を直したり、ドレスについたホコリを払ったりしてくれた。
さすがにこの間はヴァライズさんとミハリスさんは離れてくれたけど、身支度をしている俺から目をそらしていたけど、退室はしない。
護衛のためかな、と思ってるうちにメイドさんが退室し、俺とヴァライズさんとミハリスさんと三人だけになっていた。
途端に、部屋の空気が変わった。
いや、そんな気がしただけなんだけど……なんでかな?
俺がとりあえず椅子に座ると、ヴァライズさんがすっと近付いてきて、俺の前で片膝をついた。……えっ? そんなお作法ってあったっけ?
「あ、あの?」
「マイラグラン嬢。これは運命でしょうか」
「えっ? 何がですか?」
「あなたの美しい目が、私の人生に初めて意味を与えてくれました。あなたに見つめられて、私はようやく生きる喜びを知ったのです。……どうか、美しい人よ、今一度あなたの麗しき手に触れることをお許しください」
……何を言っているのか、わからない。
これはお貴族様的な婉曲表現ってやつなのか?
いや、違うな。
さわやかイケメン騎士様、いつの間にか俺の手をがっつり握りしめているし! 俺、お許しなんてしてないんだけどっ!
俺が焦っていると、俺の手に口付けをしようとしたヴァライズさんの肩をガシッと掴む手があった。
……えっ、今、手にキスしようとしてたのっ?
ええっ! マジかよ!
俺が今さら動揺している前で、ミハリスさんが美麗なお顔に恐ろしい表情を浮かべていた。
「ヴァライズ。我が友よ。ご令嬢が困惑されている。離れろ」
「邪魔をするつもりか、ミハリス!」
「場をわきまえろ。……いや、それは言い訳だな。麗しき人よ、私もこの恋だけは譲れないのです。あなたのためなら、この命など惜しくはない。……例え、友と決闘をすることになろうとも!」
「ちょ、ちょっと待てよ! お兄さんたち、落ち着けよ!」
片膝をついて俺の手を握っているさわやかイケメンと、その肩をつかむ美麗イケメンが、殺気を漂わせてにらみ合っている。
それを、ただオロオロと見守るしかない俺。
……何なんだよ、この状況!
若いメイドさんたちが、キャーキャー言っていた恋物語みたいじゃないか!
俺は耐えきれずに手を振り払い、立ち上がって叫んでいた。
「あのなぁ! 俺は男だよ! ほんの二ヶ月前まで男だったんだよ! イケメンに手を握られて喜ぶような趣味、俺にはこれっぽっちもないからなっ!」