(23)物騒なお客様
「おっさん? どうかしたのか? 俺、そんなに変な格好になってる?」
「……いや、なんでもないぞ」
なぜか動きが止まっているおっさんに、俺はそっと声をかけてみた。
一応、俺の声は聞こえたようだ。
はっとしたように瞬きをしたけど、視線をぐるっとさまよわせて咳払いをした。あからさまに挙動が不審だ。
ヤバいな。俺、これはかなりやらかしたな。
「何でもないって顔じゃないだろ? なあ、正直に言ってくれ。もしかして、この豪華な首飾りが全然似合ってない、とか? あ、やっぱりそれか? ドレスまではイケてると思うんだけど、さすがに宝石なんて庶民には無理だよな!」
「本当に何でもない。……俺の母親がそんな色のドレスを着ていたのを思い出しただけだ」
「えっ、それは……」
そ、それはマズイんじゃないか?
俺の無様な姿で、おっさんの中の美しい思い出を汚してしまったのかもしれない。軽く焦っていると、おっさんがまた俺をじぃっと見ていた。
「……同じ色のドレスを着た母は最高に美しい女だった。お前、そういう色も顔映りがよかったんだな」
「へぇ、おっさんのお母さんって美人だったのか」
「…………お前も似合っていてキレイだって言ってるんだよっ、わざわざ言わせるな!」
「えっ? そ、そうなんだ、あ、ありがとう」
聞き慣れない褒め言葉に、正直言って動揺した。おっさん半分キレてるし。
でも俺は、努めて冷静に指摘した。
「それより、おっさん。……股間に酒がこぼれてるよ」
「酒? ……うわっ、しまった!」
おっさんは一瞬何のことかわからなかったようだ。
一呼吸空いてから酒杯を持ったままの自分の手を見て、それから慌てて立ち上がった。
うん、立つといっそう場所のヤバさが引き立つな。ちょうど股間だわ。
いわゆるお漏らしな感じ。
……いや、俺は笑わないよ。笑わないけど……我慢すると腹筋が……!
「ご安心ください。キルバイン坊ちゃん。ただの水でございますから、乾けばシミにもなりません。お着替えになるまでもないかと」
「……あ、そうなんだ。酒じゃなくて水を飲まされていたのか。だからあんなに不味そうに……よ、よかったな、おっさん……!」
「クソっ! 笑うならさっさと笑え!」
いつもよりイラついた様子のおっさんは、執事のおじいちゃんから受け取った布で濡れたところを拭く。
かなりの水分は拭き取れたようだけど、水はすでに染み込んでいて局地的なシミは残っている。
でも幸いなことに、今日は天気がいい。
風通しのいい場所で軽く日を当てれば……たぶんすぐに……。
……ダメだ。股間の日光浴をするおっさんを想像してしまって……猛烈な笑いが込み上げてきたっ!
目をそらし、ぷるぷる震えながら新しい布をおっさんに差し出すと、おっさんは舌打ちをしてひったくった。
「今朝は調子が狂いっぱなしだ! しかも、よりによってお前に……いや、見惚れたのは何かの間違いだな!」
「し、仕方ねぇよ。俺って絶世の美少女だし……くっ」
「笑いたければ笑えって言ってるだろ! くそっ、しばらく頭を冷やしてくるぞ!」
「……あ、乾かしに行くの?」
俺が思わずつぶやくと、後ろで控えていた若いメイドさんたちがぷっと吹き出して、慌てて咳払いをしてごまかした。
おっさんはジロリと睨んだみたいだけど、今のは許してやれよな。ほんの不可抗力だよ! メイド長のおばさんだって手を握りしめてあらぬ方向を見ているんだし!
そんな事を考えながらニヤニヤしていたら、おっさんが俺の真ん前に立っていた。無様なシミを隠すことなく、不機嫌そうな顔で堂々と腕組みしている。漢だな。
「……訳わかんねぇな」
「は? いきなり何だよ?」
「……こんなガキが一瞬でも女に見えたなんて、有り得ねぇ。どうかしていた」
さり気なく失礼なことを、ため息とともにぼそりとつぶやくと、おっさんはちらっと窓の外を見て舌打ちをした。
そのまま俺に背を向け、大股で部屋を横切って扉口に向かう。歩調がいつもより乱暴なようだ。これはかなりイラついているな。
こういう時のおっさんは、放置しておくに限る。
でもおっさんが部屋の外に出る前に、執事のおじいちゃんが扉の前で行く手を阻んでいた。
「キルバイン坊っちゃん。お客様をお迎えになるのでしたら、お嬢様もお連れになった方がよろしいかと」
「まあ、そりゃそうだが……こいつはせっかくきれいな格好になったばかりだぞ?」
「女のドレスは男を鼓舞する戦闘服でございます。お役に立てるのであれば問題はありません」
そんな意味不明な事を言いながら、メイド長のおばさんも俺をぐいぐいとおっさんの方に押し出した。
え? なんで?
おっさん、股間のシミを乾かしに行くんじゃないの?
あ、お客様って言ってたから、そっちのお迎えをしに行くのか。……あの格好で?
それより、なんで俺まで一緒に行かされるの? よくわかんねぇよ!
でも、おっさんはがしがしと頭をかき乱すと、俺の手首をつかんで大股でグングン歩きだした。こうなると引っ張られるから、俺も後を追うしかない。
俺は半分走りながら、おっさんと一緒に部屋を出た。
おっさんは居心地のよかった部屋を出ても足を止めない。長い廊下を抜けて、さらにどこかへ向かっている。
どこに行くのかわからないけど、俺は今、裾の長いドレスを着ていて、お貴族様らしい柔らかい室内履きしか履いていないんだよ。おっさんの歩幅は大きすぎるよ!
「おっさん、ごめん! 悪かった! もう笑わないから、もっとゆっくり歩いてくれよ! 俺はドレスを着てるんだよ! それに足! 足が痛い!」
「ああ、そうだったな。だが、もう少し頑張れ。せめて向こうの中庭まで……ちっ、面倒だから運んで行くぞ!」
そういったかと思うと、おっさんはいきなり俺を抱き上げて走り始めた。
荷物かよ!って言うくらいに無造作に抱き上げやがった!
……ただし、横抱き。いわゆるお姫様抱っこだな。
まあ、俺はずるずるしたドレス姿だし?
肩に担ぎ上げたらひらひらドレスで視界を遮られて邪魔だろうし?
だから、まあいいんだけど、なんで俺を抱えているのに、そんなに走るの速いんだよ! おっさんの腕力、マジでスゲェな!
不安定な体勢に身を硬くして縮こまっている間に、おっさんは中庭の真ん中で足を止めた。
やっと下ろしてもらったけど、ちょっとふらついてしまったのは内緒だ。
でも見苦しく尻餅ついたりしない。
だって、おっさんが俺を片腕で支えてくれたからな!
「……お、おっさん?」
「お客様だ。大人しくしてろよ」
「え? お客様なら俺は遠慮した方がいいんじゃね?」
「お前目当ての客だから、お前がここにいないと意味ねぇよ」
そう言われて、俺はようやく周囲の異常に気が付いた。
木陰とか物陰とかに、メイドさんとか従僕さんとは全く雰囲気の違う気配が潜んでいた。
たぶん半分以上は武器を持った人間だ。
いや、人間なのは間違いないのに、獣に囲まれているように錯覚する。そのくらい人間らしい感情が見えないし、そもそもとして気配がしない。
俺たちに気付かれたとわかると、武器を手に取ったようなんだけど、その動きにも音がしなかった。木の葉の向こうに抜き身の刃がチラリと見えたけど、その鋼の色は嫌な輝きだ。
血を吸ったことのある鋼の色なんだろう。
俺たちを見ている目も、冷たい金属のように感情を含んでいなかった。
そして囲んでいる残りは人間ではない。こちらは獣そのものだ。恐ろしく獰猛そうな生き物ではあるけど、俺が知っているいかなる動物とも違う。
まだ木の影とかに隠れて形態も能力もわからないけど、俺の背筋がずっとぞわぞわしているから普通の動物じゃない。この逃げたくなるような独特の気配は……魔獣だと思う。
どう考えても友好的とは言えない雰囲気がにじんでいて、その吐息を感じた気がして俺は足が震えた。たぶん一瞬でも油断を見せたら、俺は簡単に食われてしまうだろう。
怖い。
俺は単純に怖くてたまらなかった。
生まれた時から父親を知らなかったり、母親を早く亡くしたりしたけど、俺は平和な暮らしをしていたんだ。
なのに、なんでこんな殺気を向けられているんだろう。
決して楽じゃなかったけど、それなりに呑気だったあの日々は幻だったのか?
俺は普通に生きたかったんだ。普通の生活を夢見てきたんだ。大それた願いなんて、一度もしたことはなかったんだ。
……怖い。俺が知っている日常が遠すぎて、俺は怖くてたまらなかった。
俺は無意識のうちに一歩下がっていた。
室内用の柔らかい靴底が幾つかの小石を踏んで、少しバランスが崩れた。思わずもう一歩下がったら、今度はドレスの長い裾を踏んでいた。
裾が引っ張られて体がぐらりと揺れたけど、頭がぼすんと何かに当たってそれ以上よろけずに済んだ。
上を向くと、おっさんの顔があった。
とすると、俺の頭が当たっているのはおっさんの肩……じゃないな。俺の今の身長を考えると、たぶん胸だ。
「大丈夫か?」
「……あ、うん」
そうだった。
俺は一人じゃなかった。おっさんがいたんだった。ちょっと呆れたような顔を見上げた途端に、足の震えは止まって落ち着いてきた。
……ふむ、精神安定剤の代わりにもなるなんて、おっさんって便利だな。
いや、違うな。
おっさんが俺をこの怖い場所に連れてきたんだったよ。
なあ、おっさん。もしかして、お客様ってあの人たちなのか?
人間っぽくない人間も、人外の魔獣も、はっきり言って喧嘩腰すぎるお客様じゃないか。お客様はもっと相応しい場所でお迎えしろよ!
……あ、そうか。
そういうヤバイ「お客様」だから、メイドさんたちを巻き込む心配のないここでお迎えするのか。なるほどな。
囲まれているのも、俺たちがここにきたから集結しちゃったんだな。
……いやいや、ちょっと待ってくれ。もっと根本的な問題があるじゃないか!
「おっさん! なんで俺が狙われたりするんだよ!」
「お前はドラゴンの呪い持ちだろ? 何があろうと手に入れたがる狂った連中がいると言ったはずだ」
「じゃあ、えっと……もしかして俺たち、命の危機、とか?」
「普通はお前には手を出さねぇだろうな。俺については知らん」
「えっ、おっさん、大丈夫なのかよ! あっ、そうなると従僕さんたちとかメイドさんたちも危ないよ!」
「大丈夫だから、落ち着け。お前がここにいれば向こうは安全なんだよ」
「そうか、よかった。……いや、でもやっぱりおっさんが危ないんじゃねぇか! うわ、そう言えばおっさん、酒を飲んでたよ!」
「おい、ボウズ」
青ざめてきょろきょろしていたら、おっさんはぽんと俺の頭に手を置いた。
びっくりして俺が一瞬動きを止めると、腰を屈めてニヤリと笑った。
「こうなると思っていたから、麦酒と水しか飲んでねぇよ。心配してくれるのは嬉しいが、俺をナメるなよ。本職はこっちだ」
「……お、おっさん」
姿勢を直して周囲に目を戻したおっさんは、呆れるほど落ち着いていた。
取り囲むように現れた連中を見据える目は鋭い。
ゆっくりと剣を抜く動きは滑らかで、軽く剣を一振りした瞬間は冷ややかな顔をしていた。左腕だけで俺の腰を抱き寄せる動きは、素っ気ないほど無駄がない。
でも、ちらっと俺を見た時、唇の端を少し吊り上げる薄い笑みを浮かべた。
突然、ドキン、と俺の中で何かが高鳴った。
……おかしい。
おっさんが超絶イケメンに見える。
じっと見上げていると、なぜか頰が熱くなる気がした。
「よし、いい子だ。口は閉じてろ。舌を噛むなよ」
「う、うん。……うわっ!」
おっさんの動きは突然だった。
ぐんっと腰を落としたかと思うと、そのまま一気に数歩退いた。でも左腕は俺の腰を抱えているから、俺はおっさんに引っ張られて振り回される。
まだ口を閉じていなかったから、引っ張られながら歯がガチンと派手に鳴った。
なんか喋ってたら、舌やってたな。危ねぇっ!
今度はしっかり歯を噛み合わせて目を上げると、物凄い勢いで何かが降ってきた。
口の中で悲鳴をあげた瞬間、ガキンっ!と耳障りな音がして降ってきた何かは弾き飛ばされていた。
それは木漏れ日を反射して銀色に輝いていた。




