(20)一夜が明けて
舞踏会の翌日の朝は、いつもより気怠いものらしい。
真昼間からはまだ遠い心地よい午前のひとときに、俺は開放された窓辺にある椅子に座っていた。
俺がいるのは、王都の一画のお屋敷だ。敷地内にはちょっとした林並みの木々が繁っていて、かわいい小鳥たちが餌を求めて飛び回っている。
貴族の邸宅というものは、どこも自然が豊からしい。
気を抜くと、今いるのが王都にある大邸宅だってことを忘れそうになるくらい長閑な光景だ。
でもここは王国の首都で、このお屋敷はダライズの女領主様の別邸で、俺は青い髪の絶世の美少女だ。
ほっそりとした自分の手と、肩から滑り落ちてきたサラサラの青い髪を見ながら、俺ははぁっとため息をついた。
「…………俺、もうダメかもしれない」
「はぁ? 何だって?」
俺が深刻な顔でつぶやいたのに、差し向かいの椅子にいたおっさんは気の抜けた声を出しただけだった。
しかも、ぐしゃぐしゃの髪のまま朝から麦酒を飲んでいる。
何だよこのクズっぷり。
俺が女の子になったばかりの頃は、ちょっとため息をついただけで熱があるのかとか気分が悪いのかと心配してくれたのに、今はこれだよ。
せめて酒を飲むのはやめろよ。
欠伸してもいいけど、いかにも面倒臭そうに頭をぼりぼりかくなよ!
「おっさん! 美少女様が落ち込んでいるんだぞ! 義理でも『どうした?』くらい聞けよ!」
「ボウズの事だ。どうせつまんねぇことを考えているんだろ?」
「あー? おっさんって女にもてないだろ! つまんねぇ事と思っていても、女のため息にきちんと対応するのが男の礼儀だよ!」
「知らねぇよ。お前は男なんだし」
「男だけど、今は女なんだよ! 女の体に引きずられて女の思考になるんだよ!」
「ふーん、そうか、そりゃ大変だな」
おっさん、また欠伸をしやがった。
昨日の舞踏会ではあんなにイケメンだったのに、何だよこの別人ぶり。一瞬トキめいた俺の立場がないだろ!
今のこの姿、昨日の女性陣に見せてやりたいっ! 百年の恋も覚めるダラけたおっさんぶりだぞ! 一生もてなくなるぞっ!
俺が心の中で呪っていると、おっさんはふうっとため息をついた。
……あ、また心の叫びを声に出してしまったのかな?
でも俺は悪くないぞ。貧乳差別をするおっさんが悪いんだぞ!
「で?」
「……へ?」
「だから、何があったんだ? また変なネタを見つけたのか?」
「変ってなんだよ。変じゃない。深刻な問題なんだよ」
「だから何だよ」
おっさんは酒杯を置いた。
そしてまじまじと俺を見つめる。遠慮のない視線が真っ直ぐすぎる気がして、俺は急に落ち着かなくなった。だから目についた酒杯を奪い取って、まだたっぷり入っていた麦酒をぐいっと飲んだ。
おう、これはお上品な麦酒だな。
さすがに美味い。苦味もすっきりしていて、朝から飲むのも悪くないな。
「……おい、俺の酒を飲むな!」
「美少女様が悩んでいるんだから、酒ぐらい譲れよ。ケチだな」
「ケチじゃねぇよ! 女が男の飲みかけを飲むなって言ってんだ!」
「あ、そっち?」
「相手が俺だから、躾のなってないガキだなって思うだけですんでるんだぞ。いいか、他の男の前では絶対するなよ。気があると思われて、そのまま個室に連れ込まれるぞ」
「……えっ……まさか、おっさんもそんなこと考えたりすんの?」
「お前の耳はただの飾りかっ! 俺以外って言っただろう! 俺には人懐っこいガキにしか見えねぇよ!」
おっさんはそう叫び、それから高い天井を見上げてふうーっと長いため息をついた。
あれ、今日の説教は短いな。
それによく見たら、今朝のおっさんはかなり疲れてるようだ。体力の塊のようなおっさんにしては珍しい。
「おっさん、もしかして寝不足? それとも疲れが取れないお年頃ってやつ?」
「……年は年だが、寝不足と言うより単純に疲れてるんだよ。お前、いきなりハリューズ様にさらわれただろ? 急だったから王都への直通の魔導移動が利用できなくて、ダライズから馬を飛ばす羽目になったんだ」
「……そうなの?」
「俺が魔法の資格持ちとかだったら申請に時間はかからないんだが、生まれはともかく、俺は公式の肩書きなんて持っていないからな。おかげで久しぶりに汗だくになるまで馬を飛ばしたぞ。それから水をかぶって着替えて、入り口で押し問答やって……はっきり言って疲れた。ギリギリ間に合ったからよかったけどな」
「そうだったんだ。おっさん、マジでありがとう」
俺は素直に礼を言った。
昨夜の姿からは、そんな苦労は微塵も感じさせなかった。
ハッタリも実力のうちと言う傭兵っぽいというべきか、さすが見栄っ張りが仕事のお貴族様という方がいいのか……。
そんなことを考えて、俺はふと首を傾げた。
「あれ、でも、ダライズから王都まで、馬車で三日って言ってなかった? それを馬で半日足らずで来れるもんなの?」
「……あー、正確には馬によく似た魔獣だな。軍や領主くらいになると飼ってるんだよ。馬鹿みたいに速いぞ。ただ、並みの技量や体力では振り落とされるから、あまり実用性はないけどな」
へぇ、そんなのがいるのか。
俺がお世話していた軍馬たちよりすごいかも。
でも、軍馬様って意外にいい奴ばっかりで、よっぽどの事がない限り騎乗者の技量に合わせてくれるんだよ。それこそ命が懸かっていない時なら、一度乗せた騎手を落とすことはない。俺は馬術はたいしたことないけど、お願いして乗せてもらったら、勝手に無理な速度で走ったりしないし、絶対に振り落とされることもなかった。
そういう安全性もあって、親方の牧場は一目置かれていたんだよな。
……でも、今さらっと言ったけど、つまりおっさんはすごいってことか?
おっさんはその実用性のない馬のような魔獣に騎乗して、振り落とされることなく目的地まで来たんだろ? それはつまり……。
……んー、ま、いいか。
俺が思っていた以上に、おっさんは苦労していたってだけにしておこう。
これ以上おっさんのチートっぷりを知っても仕方がない。憧れを通り越して、うっかりイラッと来たら大変だもんな!
でもお貴族様に生まれても、いろいろ制約はあるんだな。
ハリューズ様がものすごくあっさりと色々やるから、そっちを基準にするところだったよ。そう言えば、昨夜の舞踏会の会場でも色々焦った顔で走り回っている人がいたんだよな。
胃を痛めた人もいっぱいいたんだろうなぁ……。
「なあ、おっさん。ハリューズ様って王都基準でもぶっ飛んでるの?」
「ぶっ飛んでると思うぞ。建前上はただの魔法研究者だが、実質的にあの人に逆らえる奴なんていないからな。ドラゴン研究を好きなだけさせるという条件で、王国内で大人しくしてもらっているだけって話だ」
「ふーん、あの人、そんなにドラゴンが好きなんだ。そう言えば変な物にものすごく目敏かったな」
「目敏い?」
「うん、あの大広間の中にいた人たちの持ち物とかを、全部把握してたっぽいんだよ。しかもレア物ばっかり。肉食系蛟の骨とか、見た瞬間にホンモノとかニセモノとかわかるんもんなの?」
「……いや、普通はわかんねぇな」
「そうだよな! と言うかさ、蛟ってなんだよミズチって! 普通の森にうじゃうじゃいる馴染みのある動物じゃないよな!」
椅子から立ち上がって叫ぶのを聞きながら、おっさんはわずかに眉を動かしたようだった。
でもすぐにのんびりとした表情に戻って、俺から酒杯を取り戻した。
「わりと気の荒い生き物だが、まあ、普通の森にはいねぇな。……他に、ハリューズ様が目をつけていたものはあったか?」
「あーそういえば、どっかのご婦人の持ち物にナントカの鱗ってのがあったな。拾ったのか、生きたやつから剥いだものなのかとか興味を持っていたよ」
「……ああ、孔雀火蜥蜴だな。恐ろしく綺麗な火蜥蜴だが、その綺麗な鱗は生きた状態で剝ぎ取らねぇと艶がなくなるんだ。そうか、本物が紛れていたのか。よく出来たイミテーションばかりだと思っていた」
「へぇ……そんなすごい物だったんだ」
確かに色はキレイだったけどなぁ。
生きているうちに剝ぎ取るとか、よく考えると怖いんだけど。
鱗を剥がれたら普通は痛いだろ? ギャーっとか騒いだりするんだろ? 血なんかもダラダラ流れたりするんじゃねぇの?
……そんなものを装飾品にしてしまう感覚がわからない……知ってしまったら怖いよ!
「それで、お前自身が気になったことはなかったか?」
「えっ、俺? そうだなぁ……俺が目茶苦茶見られまくってたことくらいで……あ、でも、だいたいの男が俺の顔と胸とケツを見てたのに、髪ばっかり見ている奴がいたかもしれない」
俺は昨日の記憶を手繰り寄せながら、ぶるりと体を震わせた。
あの場にハリューズ様がいなかったら、俺は興味本位の連中に直接囲まれていただろう。そう考えるとハリューズ様に感謝しそうになったけど、そもそもの話として、ハリューズ様が王宮の舞踏会なんて場所に連れ出した張本人だ。
感謝するのは何かが違う。
でも、おっさんの見解は少し違うものだった。
「……いろいろ報告を受けたんだがな。ドラゴンが呪いの吐息を発現させた時、ドラゴン研究をしている魔法使い連中には、離れていてもその兆候がわかるそうだ。独特の波動があるらしい。つまり、お前がどんなに逃げ隠れしても、ドラゴンの呪いの吐息の痕跡を辿っていくうちに必ず発見されることになる」
「え、マジで?」
「研究者に良識があればいいんだが。中には狂信的なドラゴン崇拝者もいて、無理矢理さらっていく事もよくあるそうだ」
ドラゴン崇拝?
もしかして、あの気まぐれで八つ当たり野郎のドラゴンを崇拝するの?
なんか物騒な予感しかしない。
俺が顔をしかめながら考え込んでいると、おっさんも嫌そうな顔をして空になっていた酒杯に新たに麦酒を注いだ。
「いきなり王宮の舞踏会に連れ込んだのはやり過ぎだと思うが、ハリューズ様がお前を連れ歩いたのは面倒な連中への牽制にはなったはずだ。魔導師関係はハリューズ様とアイシスでだいたい抑えられる。貴族連中に関しては、一応俺がお前の現時点の保護者として認識されたと思う」
ハリューズ様の気まぐれかと思っていたけど、実は深い意味があったらしい。
いきなり引っ張り回されたりしたから嫌われているのかと思ったけど、実はそうでもないのか?
「……そう言えば、ハリューズ様に命だけは守ってやるって言われてた」
「ふぅん、だったら命だけは安泰だな。よかったな」
おっさんは皿に盛られていた葡萄を房ごと持ち上げて、一粒口に放り込んだ。
何となくジィッと見てたら、おっさんは俺にも一粒分けてくれた。いや、俺、欲しいから見ていたわけじゃなかったんだけど、美味いからいいか。
さらに何粒かもらって食べていたら、おっさんは水まで注いでくれた。おう、いたせりつくせりだな。
「で? お前の新しい悩みはなんだって?」
「あ、うん、ええっと……」
俺は一瞬言葉に詰まってしまった。
餌付けれた後では、なんか言いにくいよな。
でもしばらく迷ったけど、俺は正直に言うことにした。
「……俺、なんか女の子っぽくなってきた気がするんだよ」
「どの辺が?」
俺の渾身の告白に、おっさんはいかにも意外そうに首を傾げやがった。
ちょっとイラッときたけど、俺は辛抱強く言葉を続けた。
「どの辺って、動作とか歩幅とか……」
「それはダライズ夫人に矯正されたからだろ」
「そういうのだけじゃねぇんだよ! 頭の中が乙女っぽくなってるんだよ!」
「そうなのか?」
「そうなんだよっ! だって、だってなぁ! ……俺、昨日のおっさんにときめいちまったんだっ!」
はははっ!
ついに言ってやったぜ! ……はぁ。




