プロローグ
この話は「性転換」「TS」「女体化」「精神的ボーイズラブ」の要素を含みます!
苦手な方はご注意ください!
俺は必死で走っていた。
振り返ると、やっぱり必死に追いかけてくる人がいた。汗だくになっているのに、妙に身綺麗なところはさすがお貴族様。
……お貴族様って、全力疾走するような人種だったか?
いや、違うだろ。俺たち庶民が考えるお貴族様は、綺麗な格好をして優雅にダンスなんかやってる姿だもんな。
走っているのに、庶民の乙女が思い描く夢の王子様のようにキラキラしている。
そのキラキラ男が、汗を光らせながら微笑んだ。
「待て! 待つのだ、美しい人よ! 恥じらう必要はない。さあ、我が胸に飛び込んでおいで!」
キラキラ男が優雅に叫んでいる。
あれだけ汗流しながら走っているのに、意外に元気だ。しかも無駄に綺麗なあの巻き毛まで健在だ。
……というか、なんだよあの人!
お貴族育ちのお坊ちゃんのくせに元気過ぎるだろ! 俺が必死で走っているのに、なんであんなに涼しい顔をしてついてきているんだよ!
俺はまた前を向いて走り続けた。
二ヶ月前までの俺なら、牧場できたえた体であんな貴族のお坊ちゃんなんて余裕で引き離せたのに。でも今は、どんなに体力があっても生物学的にかよわい女の子。筋力も歩幅も余裕で負けている。
畜生っ! なんで俺、女の子になっちまったんだよっ!
「実に可愛いよ、マイラグラン嬢! 結婚承認書を持って逃げるなんて、実は内気なのかな!」
「内気じゃねぇよ! 俺は男だったんだよ! 男相手に何やってんだよ!」
「ははは、残念ながら過去の姿は知らないからね! 今の貴女は美しい令嬢でしかない!」
「うわぁ! 気持ち悪いから黙ってろよっ!」
俺は振り返って叫び返す。
そのついでに、ざっと目測した。
キラキラ男は涼しい顔をしているけど、さすがに息が上がってきているようだ。お坊ちゃんらしからぬ意味不明な体力は、さすがに本職の武人ほどではないらしい。それに無駄に豪華な衣装も走りにくそうだ。
でも俺には、小柄な女の子というハンデがある。差し引きすると……もう少しで追いつかれてしまうだろう。
追いつかれたら、あの人は俺が持ち逃げしている結婚承認書を取り戻し、署名をすることになるだろう。
つまり待っている未来は、お貴族さまの嫁だ。
庶民生まれの庶民育ちな俺がお貴族様の正妻になるなんて、マジでどんな玉の輿だよ。普通の女の子なら泣いて喜ぶかもしれない。
衣食住への不安がなくなるって、すごく重要だもんなぁ……。
……いやいやいやいや!
無理だよ、無理っ!
俺は男なんだよ! 花嫁なんて無理無理、絶対に無理だから!
そりゃ確かに、キラキラ男は世間一般的にはイケメンかもしれないけど、あの唇が、俺に……絶世の美少女な俺にキスするなんてあり得ない。神様が許しても、俺様が許さない、というか許せるはずがないし、考えたくもねぇよっ!
全力疾走のために汗だらけだった背中が、ぞわりと一気に冷えた。ついでに足が絡まりそうになったけど、俺は懸命に足を動かし続けた。
後ろで何か言っているのが聞こえた。でも俺は無視をする。正直言ってもう全然余裕がないから、ただ必死で走り続けた。
俺は廊下の角を曲がって建物の外に出た。足音がすぐそばまで迫っているのを感じながら、中庭の奥へ向かう。
息が苦しい。
口を開けて息を吸っているのに、苦しくて苦しくてたまらない。
手も足も重くて、うまく動かない。背後の追っ手は、息遣いまではっきり聞こえる距離になっていた。
そんな絶体絶命の状況で、俺はまるで走馬灯のように二ヶ月前のことを思い出していた。