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ダッチワイフと初恋

 空が白んでくるのに伴って空気がどんどん軽くなるのを感じる。風船が膨らむみたいにむらなく広がって、薄く、薄く、透き通っていくようだ。初夏だというのに少し肌寒い。僕はいつも思う。朝が訪れる前というのは妙だ。無条件で訪れる今日という日をただ指をくわえて見ておくしかないのだ。やめてくれと叫んでも、逃げるように走り回っても、無意味であり、どこにいても何をしていても、暗い押入れに閉じこもっていたって、朝は、一日は訪れる。先ほどからぼけっと電信柱の前に突っ立っているこの僕のもとにも、もちろん朝がにじり寄っている。

 つくづく、嫌になる。いや、情けなくなって、悔しくて、そして、たどり着くところは羨ましい、の一言だ。

不器用な人間というのはその不器用さから捻くれた人間になってしまい、一通り器用にこなせる人間は、何の疑いもなく素直な人間になるものだと思う。それは手先の器用さなどではなく、生き方の問題だ。僕はどちらだろうかと考えてみるが、考えるまでもなく答えは出ていた。

 朝が訪れる。新聞配達のカブ号の、乾いたエンジン音が空に響いている。僕は電信柱の前で立ち尽くしている。ただ突っ立っているのではない、立ち尽くして、打ちひしがれているのだ。




 山根からの電話は突然やってきた。山根とは中学のときから面識がある。面識があるも何も山根とは同じ中学で三年間同じクラス、挙句の果てには共に野球部で過ごした。しかし、学年のクラスが二クラスしかない生徒数の少ない学校であったので、偶然的というには過言である気がする。山根以外に、そんな人間はざらにいたものだ。

「俺、俺。久しぶりやね。元気にしとったや」

 山根と話すのは半年ぶりだった。それでもそんなことを感じさせなかったのは山根から出ている図々しいほどの馴れ馴れしさのせいであったと思う。

「久しぶりやね、元気よ。どうしたと」

「いや、どうもせんけどさ、元気かいなと思って。そうそう、こないだ会ったときに言っとったけど、やっぱり田所ってさ」

 山根は同級生の近況報告や、最近の近所の出来事などをぺらぺらと話しはじめたが、所々、変な間が空いたりした。それは電話をかけてきた本題に入るタイミングを計っているように感じられて、案の定、

「けっちんさあ、今からうちに来んかね?」

 と言ったその言葉だけが今まで並べてきた長ったらしい前置きとはまるで異質のものだった。

 山根も僕も一人暮らしだ。そしてともに福岡市の郊外であるこの地域に幼少の頃から住んでいる。大学のときに山根の父が大阪に転勤になった。それで両親だけが大阪に移り、一人っ子の山根は大学があるということで福岡に残ったのだ。一人で一軒家に住むのは広すぎるし借家だったということもあってアパートを借りることになったのだが、なぜだか同じ町内のアパートを見つけて住み始めたのだった。もうかれこれ四年は住んでいるはずである。僕は母親の再婚相手とうまくいかなくなって一人暮らしをはじめた。どこに住んでもよかったが母親の強い要望で実家の近く、昔通った中学校の裏にあるアパートに住んでいる。

 今から来いといっても時刻は午前二時を回ったところである。かなり遅い時間ではあるが、明日の予定も特にない僕は承諾した。しかし、山根のアパートには行ったことがないので住所を聞くと、大体のところはわかった。歩いて二十分ほどの距離であった。

 山根と会ったのはここ三、四年のうちで半年前にあった同窓会のときだけだ。大学を卒業して三年。二十五歳という中途半端な時期に突然、中学三年のときの同窓会が行われたのだ。場所は天神の小洒落たバーだったが十年ぶりに顔を合わすことになった同級生は結局十人ほどしか集まらなかった。意外と皆、未だに実家に住んでいるという事実に驚いたが、それより何より驚いたことは皆きちんと定職に就いていることだった。とりあえず思い出話に花を咲かせてはいたが、やはりどこか肩身の狭い思いをしていたのが僕と、そして山根だった。長髪で無精ひげを生やして、さらには下唇にピアスをした山根に皆、少々戸惑っていた。小奇麗な格好で現れた皆と違い、よれよれのスウェットに軍パンという服装は、どうしようもなく浮いており、僕もシャツの上にカーディガン、スラックスといった服装でかなりフォーマルなつもりでいたが、水玉の丸襟シャツにロングカーディガンはやはりどこか皆と噛み合ってはいなかった。そんな僕と山根であったので、二人で話しはじめるのは至って自然な流れだった。久しぶりに話すにも関わらず、最近の映画や音楽の話になって、音楽はともかく映画は駄目だということで意気投合しているところに酔って顔を赤らめた女の子――名前は忘れたが、すらりとした美人になっていた――が山根に興味を持ったのか話しかけてきた。卒業して何をしていたのか、今は何をしているのか、その日一日で何度となく繰り返されてきた話題が山根にあてられただけだったが、その女の子の、酒のせいで緩んでいるのであろう口元がどこか嘲笑しているように感じられて、僕は少し閉口した。それは山根も同じだったらしく、あのさあ、相川さん、と言う山根の表情は、突然、死んでいて、普通ではない無表情さだ。経験上、急激に表情を変えるということはその場の空気をがらりと変えてしまうことだと僕は知っていたが、そんなことは気にせず、ああ、そうか、相川さんか、と一人勝手に納得していた。

「相川さんさあ」

 なになに、と興味津々といった具合のその相川さんに僕はやはり憤りを感じたが、かわいいなあと思ってしまうのだった。

「相川さんさあ、水子の霊が憑いてるよ」

 へ、という情けない声とともに相川さんの表情は山根の表情と同じく、死んだ。

「水子。なんとかしたほうがいいと思うよ、それ」

 相川さんの右肩を指差しながら言う山根に相川さんの目は泳ぎ始めた。もう、何言いようとー、と作り慣れているだろう笑顔で取り繕ってみせたが、そんな相川さんはかわいくともなんともなかった。記憶というものは突如蘇るもので、相川さんという名前から、僕は中学三年の夏休み明けに友人に付き添われてカンパを集めていた相川さんの姿がやけに鮮明に思い出されたのだった。それから相川さんは、つーっとごく自然に何事もなかったようにその場から去っていったのだった。また二人になった僕と山根はやっと昔話やクラスメイトの近況など、同窓会に相応しい話をはじめたのだった。

 電話で聞いた住所の近所まで来たところで電話してみると、なかなかわかりやすく説明をしてくれ、その通りに歩いていくと昔自転車で何度か通ったことのある路地に山根の住むアパートを見つけることができた。おそらく木造で二階建て。一階と二階に四室ずつ部屋がある。トタン屋根のついた階段を上ると、外からでもわかったが等間隔に並んである廊下の電灯は一つしか点いておらず、その明かりの下にルイガノのクロスバイクが置いてあった。電話で言っていた「チャリが置いとる部屋」はこのことだろう。光に吸い込まれるようなかたちで山根の部屋へと向かった。ベルは壊れているということなのでノックをすると、思いのほか部屋の中で響いており、がちゃりという音とともに金属製の丸いノブが回って、山根が出てきたが、それより何より、ドアの前から微かに感じていた臭気が、ぐんと強まって鼻を突いた。

「悪いね、夜遅いとに。へへ」

 と、へらへらとうすっぺらい笑顔を浮かべている。入ってよ、と言うので上がらせてもらったが、やはり妙な匂いがする。はっきり言って悪臭である。どこか甘く、それがとても不快だ。それもそのはず、玄関にまでゴミが溢れている。足の踏み場がないとはこのことである。大半は弁当の空箱や、空き缶、ペットボトル。雑誌類も多く目に入る。玄関のすぐ横にある流しは完全につぶれていて、生ゴミが溢れている。その上を幾匹ものショウジョウバエが窓から漏れる光を浴びて飛んでいる。臭いの原因はこれが大きいのではないか。

「悪いね、散らかっとって」

「いや、いいよ、別に」

 気をつけりい、と言って山根は居間だろうスペースにずいずい進んでいった。そこしか部屋は見受けられないので、居間なのだろう。足を大きく上げて進む山根は雪山に挑む登山家のようであった。

「俺の歩いたところは大丈夫やけん、へたしたら割れたガラスとかあるけん気をつけないかんよ」

 床に割れたガラスがあるってどんな生活をしているんだと思ったが、姿格好に相応しいといえば相応しいのかもしれない。ガラス戸である居間の入り口のところにきたところで山根は立ち止まったが、僕はまだ玄関から二歩しか進めていなかった。

「けっちんさあ、驚かんでよ」

 居間の明かりが逆光になって表情がわからないが、神妙な声からして自ずと想像はつく。僕は何も言わずに頷いた。軽く、二、三度頷きながら歩を進めた。もう既にこのゴミ屋敷に驚いてしまっているのだ。

「あ、ちょっ、ちょっと待って」

 あと二、三歩で居間というところで山根は開いた両手を僕のほうに突き出した。

「なんで?」

 予想だにしない要望に大きな声を出してしまった。ここまで来て、待てはないだろう、と少しばかり憤りを覚えたのだった。

「いや、ちょっと、まだそこにおって。すぐ呼ぶけん」

「いいけど、早くしてよ、ちょっと寒いけん」

 わかった、と言って山根は居間に入って磨りガラスになっている引き戸を閉めるとガラス越しの山根の影は幽霊のようにすっと消えた。僕は中途半端な位置に突っ立っていた。居間の明かりに照らされて、周りは大体把握できるが、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。手を伸ばせば届くところに電灯のヒモが垂れていたので、ひいてみた。しかし、電球が切れているのか、明かりはつかなかった。ガラス戸の向こうでがさがさと山根が動いている音が聞こえる。足元に目をやるとフローリングの上でぐんぐん芽を伸ばしているジャガイモが転がっていて、うっすらとした緑色が不気味であった。

「もういいよ。来て。来てえ」

 僕は返事をせずに引き戸まで近づき、少し開けた。覗き込むと部屋は思いの外片付いていたが、キッチン付近に比べて、といった具合であり、やはり散らかっているほうではあった。万年床なのだろう布団がしいてあり、大抵のものがそこから手の届きそうなところにお置いてある。テレビもノートパソコンも布団のしいてある部屋の奥隅に配置されている。奥も何も六畳ほどしかないスペースである。適当に座って、と言う山根は布団に少し体を乗せて座っている。大体そのあたりが山根の定位置なのだろう。見ていてしっくりとくる。少し重たい引き戸を体が入るほどの隙間で開くときゅるきゅると鳴った。この部屋もこの部屋でさっきとは違う妙な臭いが鼻につく。

「悪いね、こげん遅くに。明日、何かあると?」。

「いや、特になかよ。前話したときとそんな変わらん生活やけん」

 気を使ってとかではなく、本当に何もない。僕はここ半年というものほとんど何もしていないのだ。

「そうね!そりゃいい。へへへ」

 山根は昔もこんな下卑た笑いをしていたかなと思い返しても、思い出せない。少しの沈黙のあと、あのさあ、と言った山根の口調に覚えがあると思ったら、それは同窓会のとき、相川さんに言い放った、それと同じだった。表情も死んでいる。嫌な予感がした。

「あのさあ、けっちん。俺、人を殺したんやけど、どうしたらいいかね?」

 それを聞いて、引き戸に指をかけたままだった僕はそのまま閉めようとしたが、堅くて動かずに指だけが外れてしまい、少し体勢を崩した。

「殺したんよ、どうしようかね。まいったよ、へへへ」

 ウソやろ、と反射的に言葉が出たが山根は急にへらへらと笑いはじめた。笑ってはいるが動揺が隠せないといった具合である。目じりの皺が、妙に深い。冗談だろうと思うが、こんな夜中に呼び出しているので冗談にしてはちょっとやりすぎである。

「ウソやろ、いつ、どこで、誰を」

 矢継ぎ早に質問を投げかけたが、山根はとりあえず部屋に入れと言った。僕はまだ引き戸の間から体を覗かせている状態だったのだ。言われるままに部屋に入ると、肌寒かったダイニングとは違って、生温い嫌な空気が漂っていた。それが気持ち悪くて、正直、僕はなんだか怖かった。

「ちがうんよ」

 山根は俯いたまま、へへへと笑ってみせて、ちがうんよ、ともう一度言った。

「なんや、冗談ね。驚かさんといてよ」

 嘘であってほしいが、どうもそんな感じはしない。

「ちがう。殺したんは本当なんよ」

 そして、山根は座ったまま腕だけ動かして掛け布団をすこし捲った。やや膨らんでいた掛け布団からは女だろう後頭部が覗いており、僕はそれを見て絶句した。キューティクルが妙に奇麗で、蛍光灯の明かりをうけて輝いている。微かに敷布団に沈むその後頭部は重力なんていうものとは無関係なような、とてつもない存在感を持っていた。しかし、その光景をなぜだかうそ臭く感じてしまったのは、僕の深層心理とかそういうもので片付けられるのだろうか。

「ちがうんよ、殺すつもりはなかったんよ。そりゃ、首は絞めたけど、ちがうんよ、そういうつもりやなくて、その、絞めてって言うけんさ、こいつが」

 ぼそぼそと言う山根は目だけが異様に動き回っている。明らかに狼狽している様子だが、人を殺しているならばそれは至極普通な態度に感じられる。

「こいつが、首を絞めてって言うけんさ、俺も興奮しとったし、そしたら、なんや、もう動かんくなって、へへへ」

 笑いを漏らす山根を不謹慎だとは思わない。

「・・・だれや、これは」

 やっと出た言葉だった。しかし、山根は答えずにまだ言い訳なのか何なのかわからないことをへろへろと口走っていた。もう一度聞いてみたが、やはり同じことだ。僕は布団の隙間から覗く後頭部に歩み寄った。じめじめとした畳の感触が足に伝わる。一歩一歩と踏み出すたびに恐怖心にも期待感にも似たものが体中を巡った。途中、テレビか何かのリモコンを蹴ってしまい、それにひどくびくついた。布団に手が届く距離に来たところで、

「おい、捲るけんな」

 声をかけると山根は頷いた。少し落ち着いたように見える。布団に手をかけると意外に厚手の布団であった。勇気を振り絞って、といった感じでその布団を捲ろうとしたが、僕はそのとき、随分とへっぴり腰だったと思う。純粋に恐ろしかった。きらきら光る死体の後頭部は赤茶けている。僕はその頭から視線をはずしてうな垂れた山根のうなじを見た。そして、こういうときは警察に連絡すべきだろう、と少しは冷静な考えが浮かんだが、僕の中を巡る様々な感情の中に潜む好奇心が布団を捲らせた。布団の動きに合わせて、空気が動いた。死者の空気を浴びたように感じて、鳥肌が立った。ぱっと視線を死体に向けた僕は思わず、あ、と声をあげてしまった。自分が出した声とは思えない、それが部屋の空気に浸透していくのが目に見えるようだった。声を出すのは当たり前かもしれない、その死体は人ではなかったのだ。僕がはじめにうそ臭いと感じたのはまんざらではなかった。それは、巨大な人形。はじめ、マネキンかと思ったが、ちがう。これはダッチワイフだ。初めて目の当たりにするが、ダッチワイフに違いない。妙な空気をかもし出して、性具のにおいを感じる。話に聞いたことのある空気式のもではなく、マネキンのようにしっかりとしたつくりであった。そして僕は笑った。山根はなんて暇な人間なんだろうと、あきれた。手の込んだ悪戯であると、なかば感心してしまった。

「山根、なんや、これは」

 笑いながら山根の肩をばしばし叩くと、山根は恐る恐る顔を上げた。

「何で笑いようと」

 山根は非難の目を僕に向けた。それで僕の笑いは一瞬で消えうせた。何かがおかしい。

「覚えとうね」

 今まで笑っていた僕と違って、山根の表情は硬い。ダッチワイフを前に昔話だろうか。山根はゆっくりとダッチワイフに触れて、両手で仰向けにした。ダッチワイフの顔面にはうっすら微笑んだ童顔が作り上げられており、僕はついついそれに見入ってしまった。その顔は粗雑なようでいて、緻密だ。柔らかな頬は触らずともその感触には予想がついた。蝋人形のような正確さではなくて、いくらかデフォルメされてあるがそれが妙にリアルであった。ダッチワイフは魂の抜けた視線を天井に投げかけている。

「お前はもう忘れとうかもしれんけど、木村さんなんよ。無理もなかよね、十年も経っとうけんね。ほら、中三のとき同じクラスやったやろ。木村恵子たい」

 木村恵子、と聞いて背中に冷たいものが走った。と、同時に頭が熱くなる。動揺した。混乱した。何から十年経っているのか、僕が木村さんと会わなくなってから十年ということだろうか。山根は何を言っているのか、頭がおかしくなりそうだった。覚えているとかいないとかの話ではなく、僕にとって木村恵子は忘れようがない存在であり、他の同級生などは殆ど覚えてなくても木村恵子は忘れたことがないし、これからも忘れる気がしない。それというのも木村恵子は十年前、僕が中学三年のときに死んだのだ。交通事故で死んだのだ。山根は何をとち狂ったことを言い出したのだろうか。

「俺、二年前から木村さんと同棲しとったとって」

 山根が言葉を発するたびに僕は混乱した。何を言い出すんだ、木村さんは死んだのだ。

「ごめん、こんなかたちで再会になって」

 そんな意味不明のことをぽつりぽつりと話す山根に僕は憤っていた。山根は気が狂ったのか何なのかしらないが、それは僕にとっては耐えられない状況だったのだ。

「いいかげんにせえ!木村さんは死んだやろうが!」

 思わず声を荒げた。

「やけん、俺が殺してしまったったったい!」

 そう言って山根は泣き出した。

「俺が殺したったい!」

 山根は泣き崩れて、僕はそんな山根を見下ろしていた。憤りを通り過ぎて困ったことになった、とその情けない姿を見つめてあきれていたのだった。

 長いこと二人とも何も話さずに、身動き一つとらなかった。僕はその情けない山根の姿とダッチワイフとを交互に見下ろしていた。見下ろして、面倒くさいことに巻き込まれたのではないかと思っていた。

 蛍光灯の音が感じられるほどの静寂の中、

「俺、自首するわ」

 ぼそりと山根は言った。それから這って部屋の隅で充電してある携帯を取り出したので、僕は慌ててそれを奪い取った。

「なんするとね!」

山根は立ち上がって携帯を取り返そうとしたので、僕は携帯を両手で握ると頭の上に持って身を捻った、するとタイミングよく肘が山根のこめかみに直撃した。山根は、うう、と畦って、

「殴ることなかろうもん!」

 と言ってつかみ掛かってきた。僕は、落ち着け、落ち着けと声をあげながら、山根は返せ、返せ、と言ってしばらく争うかたちになった。

「け、警察に電話してどうするつもりか!」

「自首をするったい!罪を償うったい!」

「何言いようとか、ダッチワイフやろうもん!」

「そりゃどういうことや、きさん。こら、恵子に謝れ!」

「やけん、ダッチワイフやろうもん」

「お、お前、気でも狂ったとか、こら!」

「そりゃ、お前のほうたい」

 そうこうしているうちに互いに手を放して、向き合った状態になっていた。二人とも興奮して、息を荒げている。携帯はまだ僕の手にある。

「お前、恵子ばダッチワイフ扱いするとはどういうことや!」

 僕はやはり山根はダッチワイフを木村恵子と思い込んでいるのだと、やっと飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。僕はそれには答えずに、ダッチワイフを見つめた。

「とにかく、警察に電話するけん、携帯返せや」

「警察に電話とかしたらいかんって。お前は何も悪いことしとらんのやから」

 そう言うと山根の目が、変わった。少し間をおいて、

「そんなことなかろうもん、俺は人を殺したとぞ」

 そうは言うが、山根のその目は逃げ道を求めているような、そんな目だ。僕も必死に山根を説得する方法を、山根の逃げ道を考えていた。

「頼まれたんやろ、首絞めてくれって」

「そうやけど」と言って山根は俯いた。

「やったら殺人やないって、大丈夫やけん」

 山根は、はっとしたように僕の顔を見た。

「やけん、お前は悪くないと」そんなことは絶対にないはずだが、言ってみる

「ほ、本当かね、本当に俺は悪くないんかね」

 山根はとうとう希望を見出した、といった表情だ。

「僕は法学部出とうから、本当や。そういう勉強してきたけん」

「でも、俺、殺したんよ」

「やけん、大丈夫やって」

 そう言うと山根は泣き崩れた。それからダッチワイフのところまで這っていき、覆いかぶさるようにして泣いた。ごめん、と漏らしながら、泣いた。硬い肌色の肢体、魂を感じないその体が本当の死体のように感じられ、蛍光灯を浴びて、ぺかりと光る肌が、不気味だった。そして僕はそのダッチワイフとは似ても似つかない木村恵子のことを思い出していた。



 木村恵子は中学二年の夏に転校してきた。なぜ季節まで覚えているかというと、木村恵子の、夏服の半そでから伸びるすらりとした腕を僕は今でも思い出すことがあるからで、初めて廊下ですれ違ったときの甘い香りも、振り返って見つめた豊かに揺れるポニーテールも、教室に入っていく端正な横顔も、今でも思い出すことがあるからだ。美少女というよりは、美女と言ってしまいたい、大人びた容貌の彼女はテニス部に入っていて、健康的な褐色の肌をしていた。あのダッチワイフのような薄っぺらな光でなく、奥深い光を放つ肌だった。そう、僕はそんな彼女を今でも思い出すのだ。それなので、山根の口から木村恵子の名前を聞いたとき、心を見透かされたような気がして、ひやりとした。

 中学三年になると、彼女と僕は同じクラスになった。もちろん、山根も一緒だったし、学年は二クラスしかないので運命的とは程遠いながらも、それがわかったとき、僕は声をあげて喜んだ。しかし、木村恵子が隣のクラスの山口という男と付き合っているということを知ったのもそれとほぼ同じ時期だった。山口は木村恵子と同じテニス部で、全国大会に出場するほどの選手であり、学業の成績も学年トップレベルであった。顔も良く、性格も明朗快活。学年には一人くらいいるタイプの人間だ。それでも僕には関係の無いことだった。僕は木村恵子を好きだったのではく、木村恵子の姿を眺めることが好きだったのだ。随分と歪んだ考えで、不健全なのかもしれないが、実際にそうだったのだ。そのため、僕は彼女と殆ど話したことはなかった。

 それから夏休みに入り、僕の所属していた野球部は中学最後の大会を一回戦で敗れたため、それからすぐに僕は受験勉強に取り掛かっていた。といってもただ親の言われるままに塾に通い始めただけだった。そんな矢先にクラスメイトから電話があったのだ。受話器の先から聞こえる、木村さんが死んだ、という言葉はどうにも信じがたく、他のクラスメイトに確認してみたが、やはり、死んだ、と言うのであった。新聞にも載ってあると言われたので、新聞を開くと地方欄の隅に「中三女子トラックにはねられ死亡」という見出しで、事故の詳細が書かれていたが、それでも現実味は感じられなかった。「木村恵子さん(十五)」という見覚えのある名前を見ても、しっくりこなかった。しばらくして正式な連絡網が回ってきて、今晩通夜があるので出席するように、とのことだった。そして、やっと僕が木村恵子の死を実感できたのはその通夜会場に入ってからだった。白い花に飾られた木村恵子の写真を見て、僕はやっと実感したのだ。死者が入るあの写真の中に、遺影の中に、彼女の姿を確認して、ああ、木村さんは本当に死んだのか、と認知したのだった。バックが青の安っぽい合成がされた木村恵子の写真はいい表情をしていた。いつ撮ったのだろうか、白いブラウスが、とても似合っていた。

あちらこちらですすり泣く音が聞こえた。見回すとそこかしこで女子が幾人かに集まっては泣いている。木村さんと大して仲が良くなかった女子も泣いていて僕はくだらない、と思った。

「山口君、来てないんだって」

「来れないよね、辛いだろうね」

 そんな話し声を聞いてまた、くだらない、と思ったが遺影の横で木村恵子の親族が泣いている姿には同情をした。そして、僕はこの場には相応しくない存在なのだと思った。僕だけでなく、ここにいる生徒の大半がここにいる資格はないと感じた。住職が現れて、お経をあげるのを僕らは座って聞き、それから焼香をあげたのだが、担任の教師が、生徒に指示をしながら順番に焼香をあげさせにいくのが卒業式の練習のようで、あさましく、僕の順番が回ってきて木村恵子の遺影を前にした際、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そして、僕は心の中で彼女に別れを告げた。最後にお別れをしてほしいという親族の要望で、棺桶の扉が開かれて、希望者のみということであったが、殆どの生徒が棺桶に列を作って順々に扉を覗いていた。それは見物、というべき行為に見え、珍しい動物を見る人の列、と言っても過言ではなかった。しかし、悔しいことに僕もその列に入っていたのだった。僕は好きだった木村恵子の姿を最後に見ておきたいという気持ちがあったのだ。だが実は、それよりも、死体を見てみたいという気持ちが徐々に膨らんでいっており、驚くことに列が進むにつれ胸が高鳴っていた。そのとき、僕ははじめて好奇心は怪物だと、思ったのだった。列が進むにつれて高鳴る胸の鼓動が恐ろしく、順番がまわってきて、棺桶から覗いた木村恵子の顔は、整えていたものの美しい顔を崩していた。彼女はトラックにはねられたのだ。

 式場を出ると、男子生徒が木村恵子の顔について話しており、それを聞いた男子が、見てくる、と言って式場に入っていった。僕はやはり、くだらない、と思った。そして、木村恵子の通夜をとおして、僕は産まれて始めて生きている、と実感したのだった。葬式は死んだ人間のためにあるのではない、生きている人間のためにあるのだ、と気づいたのだった。悲しみながらも皆どこかで生きているという喜びを得るのだ。

 僕は何百回、何千回と彼女との出会いと別れを頭の中で繰り返しているのだ。


 

 突然、扉が激しく叩かれ僕はひどくびくついてしまった。時計を見ると間もなく午前四時だ。

「け、警察や!どうしよ!」

 山根はひどく狼狽している。たしかに警察かもしれない。騒いでいたので誰かが交番に苦情を言った可能性がある。息を潜めていると、

「何時と思っとうとか!いい加減にせえよ、こら!」

 どん、と扉を強く叩いて声の主は去っていった。隣人か何かだろう。山根のほうを見ると、かちりと目が合った。

「たぶん、大家のおやじや」

 山根はへへへ、と笑った。

「ちょっと騒ぎすぎたな。お前、少しは落ち着いたや?」

 そう言うと、ああ、と頷き山根は布団のそばに置いていたタバコを取り出して、吸った。銘柄はJPS、つまりはジョン・プレイヤー・スペシャルだ。山根のタバコが中学のときから変わっていないことに気が付いた。吸い始めの中高生が格好つけて吸うタバコだ。僕もシャツの胸ポケットからタバコを取り出したがマイルドセブンのソフトはさっきの小競り合いで何本か折れていた。パッケージの中に入れてある百円ライターで火をつけて、一口二口吸うと、山根の部屋に来てはじめて座った。座って、山根の使っている灰皿に灰を落とした。しばらく黙って互いにタバコを吸っていると山根はテレビを付けた。こんな時間だが番組はやっていて、キャスターがなにやら神妙な顔つきでニュースを読み上げている。一昨年起きた放火殺人の裁判についてだった。キャスターは、美人だ。

「俺、やっぱり捕まるんやろうか」

「やけん、捕まらんって」

「なんでや」

「なんででもたい」

 もはや山根に理論とかそういうものは必要ない気がしてきた。

「ああ、もう俺の人生は終わりたい」山根はひどくうな垂れて言った。

 もうとっくに終わってる、と喉元まで出かかったが、なんとか堪えた。それに僕が言えた立場でもない。山根には、そんなことはない、と適当な慰めの言葉をかけたが、それもそれで自分を肯定しているように感じて、嫌な気持ちになった。ダッチワイフを見ると薄ら笑みを浮かべて天井を見つめている。

 それから二人でぼうっとテレビを見ている間に空が白んできているのが感じられた。テレビ画面に表示されている時刻は午前五時をすぎていて、さきほどからやっていた単調なニュースから無駄に元気のある朝の情報番組に変わり、若くて可愛らしい女子アナが流行りもののワンピースを着てなにやら笑顔を振りまいている。先ほどから山根が何か言っているがしびれるような眠気が頭を支配していて、まったく頭に入らない。相槌をするのも面倒だ。僕は限界だと思い、帰るわ、と言って立ち上がると、すかさず山根が手を取って引っ張たったので、よろめいてダッチワイフの上に倒れてしまった。変にやわらかくて、気味が悪い。シリコン製だろうか。

「何で帰るとって!」

 乱暴な行動に苛立って、

「帰るけん帰るったい!」

 小学生みたいなことを言ってしまったが、頭が働かないので仕方ない。この気味の悪いダッチワイフの上でも寝てしまいそうだ。

「お前は俺を見捨てるとか!」

 山根は僕に覆いかぶさった。山根の長髪が顔にはらはらと当たり、下敷きなっているダッチワイフの感触は、やわらかい。眠気のせいもあって、なんだか、もう、どうでもよくなってしまった。どうせ明日も明後日もない生活なのである。僕は「わかった」とだけ言った。もう、どうなってもいい。


 山根のチャイサーは国道三号を走っている。運転しているのはもちろん山根で僕は助手席に座っている。ちょっと前に四時間ほど大型ショッピングセンターの駐車場で休憩をしたので、少しは気分が良くなっていた。そこで僕らは大型のスコップを二本購入した。

 窓から入る風が心地よく、日が沈み始めてあたりは薄っすら赤く染まっている。バックミラーで後部座席に座っているキムラケイコに目をやると彼女もやはり赤く染まっていた。

「どうしようかね」

 と、山根は正面から目線を外さずに言った。僕はそんな横顔を見ながら今日何回目のどうしようかね、だろうかと考えていた。

 山根の家を出たのは朝の七時前だった。山根は「木村恵子の死体」を埋めることを提案してきて、僕はそれに賛成した。いや、賛成せざるをえなかったと言ったほうが正しいかもしれない。それで山根の気が済むのならばそうしたほうがいいと思ったし、協力しなければ僕のアパートに火をつけると言った山根の言葉は聞き流せなかった。

「恵子に服を着せてやるけん、ちょっと向こうに行っとって」

 と山根が言ったので、僕はきゅるきゅると引き戸を開けて流しの前に立つと、悪臭がするものの朝の空気が微かに感じられた。居間のほうを見ると、昨晩よりは明るくなっているのですりガラス越しに山根が動いているのが分かった。蠢く山根の影を見つめながら僕は山根の生活を考えていた。山根は一体どんな生活をしていたのだろうか、あのダッチワイフを死んだ木村恵子だと思い込むに至った経緯はどこにあるのだろうか、あの人形と暮らしていた生活とはどういうものなのか、疑問が次々と浮かんだ。山根に呼ばれて居間に戻ると、キムラケイコは黒いワンピースを着て布団に寝ていた。半そでで、ちょうど膝が隠れる長さの丈の、仕立てのいい服だった。真っ裸だった先ほどと比べて随分と人間味を増しているが、その分、不気味さが際立つ気がした。

「似合っとろ、恵子が気にいっとった服なんよ」

 それを聞いてやはり山根の生活は普通ではないと再確認した。この人形と向かい合って暮らす山根の生活が垣間見られ、僕は言葉を失っていた。

「車を回してくるけん、ちょっと待っとって」

 山根は立ち上がって外に出ていったが、引き戸のところで突っ立っていた僕とすれ違うときに体が少し触れ、僕はぞくりとしてしまった。居間に入ってキムラケイコのもとに歩み寄って膝をつき、まじまじと見つめたが見れば見るほど人間とも人形ともかけ離れた物体のように感じられる。彼女は一体何を見つめ、何を笑っているのか。しかし、なぜだかあのとき棺桶の窓から覗いた木村恵子の顔とだぶってしまう。似ても似つかないはずだが、重ねてしまう自分がいたのだ。木村恵子も棺桶のなかでこんな軽薄で空虚な笑顔を浮かべていた気がしてしまう。そして、僕はすでに心の中でこの人形をダッチワイフと呼ばずにキムラケイコと呼んでいたことに気が付いた。僕も山根と同じようにこのダッチワイフに木村恵子を重ねているのであろうかと、胸がざわついた。果たせなかった欲望が蘇ってくるような気がして慌てて立ち上がりベランダに出ようと窓を開けたが、ゴミが溢れていて足の踏み場も無かった。視線を正面に向けると空はすっかり明るくなって、一日が始まりを迎えていた。しばらくそのままでいると下の道路に白いセダンが停まり、山根が出てきた。



木村恵子と山根をつなぐ記憶は、ある。

 山根は木村恵子に対して執拗な思いを寄せていたことを僕は知っていた。部活が終わると同学年の部員は固まって帰っていたが、山根はひとり別行動をとっていた。そして家とは違う方向にふらりと消えていくのだった。山根は何を考えているのかわからない人間で、意思疎通をとることが苦手らしく、野球でも能力は高かったが万年補欠であった。僕も同じく補欠であったので、山根はわりと近い存在に感じていたのだった。そんな山根の行動を不思議に思った僕はある日、あとをつけたことがある。そして、山根は木村恵子の家の前で立ち止まっていたのだった。それは木村恵子が死ぬ前の話で、木村恵子の死後は部活を引退していて下校が同じになることはなかったので山根がどうしていたかは知らないが、当時、山根が木村恵子に好意を寄せているということはちょっとした噂であり、木村恵子のリコーダーが無くなったり上靴が無くなったりするとそれは大抵、山根の仕業という話になっていた。山根はそれを否定も肯定もせずにひょうひょうとしていたのを覚えている。相手にしてない、といった感じだった。山根にはそういうところがあった。話しかければ普通に返すし、話題も変に偏ったところはなかった。しかし、それでも何事にも興味が無い、そんな感じが出ていた。授業中にもぼうっと何を見るでもなしに教室の隅を見つめていたし、教師にそれを注意されても、にやにやして俯くだけだった。しかし、木村恵子に関しては違っていたのだ。授業中には木村恵子を見ることもなく、教室の隅を見つめているくせに、廊下ですれ違うようなことがあれば食い入るように見ていた。その場の空気の色までも記憶するように、立ち止まって凝視していたのだった。そんな姿を目撃した生徒は噂を立てたのだった。

 木村恵子に頼まれたのか、気に食わないと思っていたのか、当時、木村恵子と付き合っていた山口は山根を呼び出して文句を言ったそうだが、山根は俯いたままにやにやとしていたらしく、それで頭にきた山口は山根を殴ったが、それでも態度を変えない山根に重ねて二発、三発と殴ったらしい。人づてに聞いたことなので脚色がされていたかもしれないし、何をさせても人並み以上にできる山口のような生徒はいわゆる「正義」の象徴のような存在になっていたので、僕は話半分に聞いていた。何があろうが手を上げるのはよくないはずだが、それを正義としてしまう中学生の浅ましさが馬鹿らしいと思っていたのは覚えている。



 どうしようかね、と山根はぼそぼそ言っている。僕は答えるつもりはなかった。アイポッドを繋いだカーステレオからはフィッシュマンズが流れている。ダブが、心地よい。この妙な小旅行を通して山根と僕の音楽の趣味は似ているのかもしれないと思っていた。山根はどうしようかね、と言いながら今までひたすらに運転をしているのだ。熊本県に入って阿蘇山まで行き、今はまた福岡に向かっているのだ。後部座席で笑顔を浮かべて座っているキムラケイコを阿蘇山に埋めてしまおうという話になったのだが、二人とも阿蘇山には展望台しか行ったことがなかったし、実際に三時間ちかくかけて展望台まで行ってみると人が多くてそれどころではなかった。駐車場に入るのにもキムラケイコの存在が気になって仕方なかったほどだ。それで僕らはそのまま引き返したのだった。なかなかハードな移動だが、僕はほとんどの間、寝ていた。

「ちょっと休憩しようや」

 ほとんど寝ていたといっても座りっぱなしでは随分と疲れてしまう。

「なんか店があったら停めて」

 山根は答えずひたすらに前方を見ている。後ろに座るキムラケイコも真っすぐ前方を見つめているのでなんだが僕だけがひどく不真面目なように感じてしまって、居心地が悪い。いや、そもそも居心地などはじめから良くない。山根とキムラケイコの間には付け込めない空気が流れていて、それはもはや異次元空間の産物のように思える。

「恵子、もうすぐお別れやな」

 ぼそりと言った山根はときどきそうやってキムラケイコに話しかける。犬に話しかける愛犬家のような、生易しくて馬鹿げたものではなく、空気を濁して車の行き先をあやしく歪曲させる嫌な力がはたらく。本当にこの車はどこに向かおうとしているのか。僕もいいかげん、嫌気がさしてきた。

「どうしようかね」

 山根はまた言った。今度は僕が答えずにフロントガラスの隅に流れる灯りはじめた街灯の明かりを見ていた。どうしよう、キムラケイコ。もしよかったら山根に教えてもらえはしないだろうか。僕はバックミラーに映るキムラケイコの、その死んだ瞳を見つめた。起きている間は無闇矢鱈にキムラケイコを見ていて、彼女から目を離せないときだってあるのだ。見ては行けないけれど見てしまう、街を徘徊する浮浪者を妙に意識してしまうときに似た感じがする。無視すべきかもしれないが、できない。

ねえ、丸山。

 突如、木村恵子の声が頭の中でこだます。これは記憶の中の声なのか、それともたった今記憶を捏造して作り上げた声なのか、わからないがとにかくキムラケイコが話しかけてきているような錯覚に襲われた。

ねえ、丸山。

ねえ、丸山。

これはきっと数えるほどしか話しかけられたことがないが、木村恵子の声だ。本当は声なんて忘れてしまっているが、木村恵子の声にしか思えない。人はその人を忘れるとき、声から忘れていくのだと、僕は木村恵子の死を通して知っていた。でも、そこから先は難しい、声だけを失って、あとは頭のなかでデフォルメを繰り返し、似ても似つかない姿に変わっても頭の中に存在し続けるのだ、いつまでも。



 木村恵子が死んで間もなくして夏休みが終わり、二学期が始まると学校は彼女の話で持ちきりだった。塾へ行く途中、家の目の前を走る道路を渡っているときにトラックに轢かれたらしく、見送りをしていた彼女の母親はその一部始終を目撃したという話。棺桶の中のドライアイスの話。彼女の鼻腔に詰められていた白い綿の話。そしてやはり崩れた彼女の顔面。僕にとってはそれが一番ショックだった。皆が騒ぐ、そのグロテスクだったとかいうことではなく、あの木村恵子の顔が無残な形で最期を迎えたこと。それを僕が見てしまったこと。それがショックだった。正直、しばらく眠れない日が続いた。木村恵子の顔はあれを最後に僕の頭にこびり付いて離れなかった。もう更新されない彼女の情報が、僕には耐えられなかったのだ。

 始業式の次の日、ホームルームの時間が設けられ、教師が木村恵子に宛てて手紙を書くようにといって便箋と、それから封筒を配った。僕は教師が木村恵子の死をいい機会だと利用して生徒に「死」について考えさせようとしているようにしか思えず、反吐が出そうだった。反吐が出そうとはこういうことなのかと、はじめて理解した。木村恵子の死は僕に多くのことを教えてくれたのだ。紙を走るシャープペンシルの音が、軽快に幾重にも重なって、躍動感のようなものが教室いっぱいに広がっていくのは、定期試験の時とほとんど変わらず、違うことと言えば何人かの女子の鼻をすする音が聞こえることくらいだった。僕は何も書かずに便箋を封筒にしまった。いままでまともに話したこともなかった彼女に対して、こんな機会に手紙を書くなんて調子が良すぎるように思えたし、何を書けばいいのかも分からなかったからだ。斜め前の女子の便箋がちょうど見えていたので、覗き込むと、紙一面に色鮮やかなペンで書かれた丸文字が賑やかしく踊っていて、僕は喪に服すということについて考えてた。僕はその女子生徒の書いた丸文字と便箋の下に書かれた彼女の名前を思い出すことがある。その手紙の山がどうなったかは知らないが、おそらく木村恵子の親にでも渡したのだろう。放課後、有志で木村恵子の事故現場に花を置くことになったが、僕は行かなかった。みんなでこぞってすることではないと思うし、そういうイベント感覚が気持ち悪かったからだ。それに前に何度か通った事故現場にはすでに寄せ書きや花束、菓子やジュースがいっぱいで、これ以上物を置くのは考えものだった。そして、これをいつまで続けるのだろうかと僕は考えていた。それが終わるときこそ悲惨なことはない気がした。皆が木村恵子を忘れ去るカウントダウンのようなものだ。何も無くなったとき、それが本当の木村恵子の死なのだろうと僕は考えていた。木村恵子の死は僕に様々なことを考えさせた。さらには、木村恵子の死を通して考えることの無意味さを知った。木村恵子の家族は事故から半年後に引っ越していき、それと同時に献花もなくなった。今では花瓶代わりに使われていた電信柱に針金で括り付けられた錆びだらけのスチール製の空き缶が所在なさげに存在しているだけだ。しかし、それでいいのだと思うし、宙吊りになった空っぽの缶は「死」に相応しい気がしてならない。僕は時折、頭の中でその空き缶を覗いている。妙に落ち着く、その口を広げた空虚を覗いているのだ。



 突然、急ブレーキがかかって、前のめりになった僕の胸にシートベルトが食い込んだ。すかさず、がくん、とシートに打ち付けられて一瞬何がなんだか分からなくなった。事故ではないようではあるが、あたりはすっかり暗くなっていて詳しい場所は分からない。おそらく、もうすぐ久留米というところの山道だった。さいわい、まわりに車はない。

「どうしたとや!」

 僕が声をあげると、山根は、もう駄目や、駄目やと言っていて、慌てた仕草でシートベルトのロックを外そうとしている。カチャカチャという軽い金属音が車内の空気をひっかいていた。

「なんで急に止まるんか!危なかろうが!」

 僕は叫んだ。しかし、山根はぐしゅぐしゅと呟きながら、カチャカチャいわせてシートベルトの留め金を扱っている。その動きは尿意に耐え切れず道端で慌ててファスナーを下ろす仕草の三倍増しくらいに焦りが滲み出ている。

「落ち着けって!」

肩をつかむと、山根は肩をいからせて弾き、それと同時に留め金が外れ、ドアを開けると躓きながら車外に出た。「おい!」と叫んだ僕の声が闇に吸い込まれていく。すぐさま前方を見るとフロントガラス越しにヘッドライトを浴びた山根が情けなく走っている姿が闇の中に浮かんでいる。僕はその後姿にもう一度声をあげたが、車内に響いて開けっ放しの運転席側のドアから外に漏れていくだけだった。山根の影が小さくなっていくので、舌打ちをして運転席に移るとアクセルを踏んだがギアがパーキングだったのでエンジン音だけが山道に響いた。咄嗟にも関わらず山根はいちいちギアをパーキングに入れていたのだ。ドアを閉めてギアをドライブに入れ車を進めると、すでに見えなくなっていた山根の姿は少し走るとすぐに確認できた。ヘッドライトに照らされる山根の後姿は逃亡者そのもので、僕は妙に胸が騒いだ。窓を開けて身を乗り出しながら山根の名前を呼んだ。途中、後方からやってきた車が僕と山根を訝しそうに抜いていったが気にせずに山根の名前を呼んだ。山根は聞こえているようで次第に中央線に寄っていき、追いついた僕と山根は並走するかたちになり、マラソンみたいだと思いながらアクセルを微調整し、山根を説得した。

「はよ、乗れって。どこに行くつもりや」

「どこでもよかろうもん」

「いいけど、よくないったい」

「なんやそれ」

「とにかく乗れって言いよろうが」

 山根は大分疲労が回っているようで、時折、言葉に詰まっている。

「いやたい!」

そう言って山根はとうとう立ち止まったので僕も車を停めて、しばらくは荒い呼吸の山根を見ていた。しかし、そんな山根の強情さにいい加減、怒りを覚えて、

「じゃあ、いいたい、ずっとそこにおれ!もう、死んでしまえ!」

 吐き捨てて車を走らせた。少ししてサイドミラーで山根の様子を見てみるとしゃがみこんでいた。僕は少しばかり冷静さを取り戻して、この状況はさすがにひど過ぎると感じ、後部座席のキムラケイコの処分のこともあるので五百メートルほど進んだところで車を道の端に寄せて停車するとエンジンを切った。ヘッドライトが消えると、まわりは驚くほどに暗かった。光がひとつも見えない、本当の暗闇だったのだ。車内の様子も分からないので、ポケットから携帯を取り出して、ぱかりと開くと眩しくて、目が痛んだ。その明かりでバックミラーに映るキムラケイコを見ると微かに、ぺかりと光っていた。

ねえ、丸山。

 彼女はまたそうやって語りかけてくるが、それから先に続く言葉は、無い。僕はシートを倒して、目を閉じた。こんなところで何をしているのだろうかと今頃になって本当に後悔をし始めたのだった。しかし、そんなことは山根の部屋に入った瞬間にすべきだったのかもしれない。窓越しに虫の音と木々のざわめきが聞こえる。目を開けると慣れてきたのか、車内の様子くらいはわかるようで、ポケットからタバコを取り出して吸うことは難なくできた。ライターの火を点けても先ほどの携帯のように眩しいとは思わない。むしろ、僅かながらの平穏をもたらせた。途中、コンビニで買ったマイルドセブンは残り三本になっており、もう一箱買っておくべきだったと思いながら、紫煙を吐いた。灰皿はすでにいっぱいだったので空き缶を灰皿代わりにして、吸いがらを缶の口に落としたところで、タス、タス、タスという足音が微かに聞こえてきて、サイドミラーを見ても暗くて何も分からないが、山根だろうと検討がついた。山根しかありえない。足音は次第に大きくなって、だん、とフロントガラスを両手で叩いて車内を食い入るように見つめる山根の目はやけに白くて、ホラー映画のように鬼気迫る、俊敏な動きだった。ドアを開けると車内灯に照らされた山根はグシャグシャに泣いていて、

「なんで置いていくとか!」と、叫んだ。

僕は、頼むから死んでくれないかな、山根。本気でそう思った。

山根は、助手席でしゃくりあげながら泣いていて、僕はカーステレオのボリュームを大きくしてウィーザーのグリーンアルバムを流した。洋楽の登竜門的存在と言ってもいいかもしれないその有名なアルバムは、なんだか今の僕と山根にはちょうどいいように思えたからだ。泣き虫ロックだなんてダサいことを言われているバンドだ、僕らにはちょうどいい。そのくせ、妙にメロディーが明るくて、嫌になる。僕らが中学生や高校生のとき、いわゆる多感な年頃に流行った音楽なので、ダサかったあの頃をそっくりそのまま引っ張ってきてしまう。しかし、それこそ今この場に相応しいと思えた。ウィーザーはそんな僕らの忘れたい過去を引き受けてくれている、特別なバンドなのだ、きっと。

「ウィーザーげな、何年ぶりやろうか」

泣き止んだ山根は鼻声で言った。そして案の定「懐かしいばってん、なんか、ダサかね」そう続けた。そやね、と僕はハンドルを握っている手でリズムをとって時折、口ずさんだ。キムラケイコは満足そうに微笑んでいる。

車はすでに福岡市に入っていた。とりあえず福岡を目指して運転していたが、これからどうするべきだろうか。助手席の山根はフロントガラスの遥か向こう、想像もできないくらいの向こう側を見つめているような、途方もない目をしている。長い髪が、口の端にへばりついているが気にならないようだ。

ねえ、丸山。

「何、キムラさん」

 僕は答えてみた。何も返ってこない、それはそうだ。もう一度、言った。次はキムラケイコのほうを振り返って言ってみた。そこにいるのは薄ら笑みのダッチワイフだった。しかし、もうキムラケイコにしか思えない自分がいた。



木村恵子が死んだ後、彼女と付き合っていたという山口はその年の冬には木村恵子と非常に仲の良かった吹奏楽部の女子と付き合い始めていた。その彼女は葬式のときに弔辞を読んでいた人物で、僕はその弔辞にひどく心を打たれたし、必死に涙をこらえ、読み終わると同時に泣き崩れた彼女の姿に尊敬の念すら覚えていた。そんな彼女と山口は木村恵子の死を嘆き、ともに慰めあううちに惹かれあい恋に落ちた。それは木村恵子が彼らを惹き合わせたのだという美談まがいの戯言をクラスの女子が話しているのを聞いたとき、僕は笑った。

それから僕は高校受験をして、見事に第一志望の県立高校を落ちて、滑り止めの私立の男子高に通うことが決まり、卒業式を迎えた。卒業証書授与のとき、教師は最後になって、木村恵子の名前をあげた。あちこちで鼻をすする音が聞こえた。それは父兄席からも聞こえて、とんだ悲劇ごっこだと僕は思った。そして、生徒代表として生徒会長をしていた生徒も続くように、木村恵子さんがここにいないことを残念に思う、と言うのだった。その光景は今でも僕の頭にこびり付いている。少し、間を空けて、観衆をひきつけておいて言ったあの言葉を、三文役者の茶番劇を。

いんちきだ!

僕は叫びだしそうだった。いんちきだ!木村恵子の死が卒業式という晴れ晴れしい日のちょっとした感傷の一部にされてしまうことが耐えられなかったし、思い出したように死んだ人間を引っ張り出しては感傷の起爆剤に使う人間の気がしれずにいた。それは生きている人間のエゴに過ぎないのだと思っていても、僕は「いんちきだ!」と叫ぶこともできなければ何も言うこともできずに、ただ俯いて、うす汚れた上履きの、よれたゴム生地をじっと見つめていた。三年二組と書かれたゴム生地部分を見ながら、これを履かなくなるということが卒業するということなのだろうかと変な気持ちになっていた。

高校に入った僕は部活もせずに只単に日々を過ごして、教師の言われるままに予習復習を繰り返して、定期試験を受けてはそこそこの成績を残し、従順な僕を教師は悪く思っていなかったらしく、系列の地元大学に推薦してくれ、僕は難なく大学に進むことができた。

高校には自転車で通学をしていたが、雨の日などは電車を使っており、家から駅に行くにはどうしても木村恵子の家の前を通らざるをえなかった。木村恵子の家の前はすなわち、木村恵子の事故現場であり、すでに引っ越した彼女の家族のかわりには他の家族が住んでいた。事故現場の献花はなくなり、例の電信柱に括り付けられたスチール缶だけがそのなごりとなっており、雨の日に通ると缶はきまって多かれ少なかれ雨水を蓄えていた。高校に通う三年のうちにスチール缶に書かれた「つぶつぶ」の文字とみかんの絵は色褪せて、口の縁には錆が一周していた。それでも取り外されることはなく、いつ見ても缶は存在していた。

大学に進むと同時に僕はバイクを購入し、時には家の車を運転していたのでめっきり電車を使うことはなくなったが、たまには木村恵子の事故現場を通った。僕は大学にいる間に二人の女の子と付き合ったが、それは彼女の事故現場から足を遠ざける理由にはならなかった。



今でもふらりと木村恵子の事故現場を通ってみることがあるが、道路を隔てた位置で眺めるくらいだ。ここ何年はどうもあまり近くには行くことが出来ないでいる。時計を見ると午後十時を回ろうとしていた。ステレオでは再びフィッシュマンズを流していて、

「時の流れは本当も嘘もつくからね」

 という柔らかな歌声に、本当だな、とバックミラーに映るキムラケイコに話しかけてみた。話しかけて、何をしているのだろうと恥ずかしくなった。山根もはじめはこんな感じだったのだろうか、こんな具合に抵抗があって、それが次第に自然にできるようになって、現実との区別がつかずに今では人形を殺してしまったとまでいうわけのわからない結果に繋がっているのだろうか。当の山根は口をあんぐりと開けて寝ている。口の端から少しよだれが垂れていて、間抜けだ。これがまがりなりにも殺人者の顔だろうかと思うと、おかしかった。

 車はすでに福岡市は天神の渡辺通りを走っていた。

 山根を置き去りにしたとき、エンジンを切った車中で決めたことだが、僕はこのキムラケイコを葬ることにしていた。山根の意思などは置いといて、僕にも山根にもこのキムラケイコとの決別は必要なように感じられて止まなかったのだ。このままでは僕の方もおかしくなりそうであったし、このキムラケイコに情がわいてきているのも確かだった。現に僕は何度か彼女に話しかけてしまっている。山根の肩を揺すって起こすと、ひゅっと、涎を吸い込んで、口元に手を当て、不機嫌そうに「いま、どこね」と言った。

「天神たい。今から俺んちに行くけんな」

 正確には僕のアパートの裏にある山へ行くつもりだ。そこにキムラケイコを埋めるのだ。天神からなら四十分程度で着く。小学生のときにはカブトムシやクワガタを採りに行っていた山なので、大体の地理はわかる。そもそも阿蘇山にまで行く必要はなかったのだ。

「なんでけっちん家に行くん?恵子はどうすると?」

「俺んちに車を置いて、そこからあの山に埋めるったい」

 地元が同じ山根には「あの山」で通じる。

「ああ、せやったら、阿蘇山なんて行かんでよかったね」

 山根のその一言にカチンときたが、どうこうする程のこともなく苛立ちは通り過ぎた。阿蘇山に行くと言い出したのは山根で、キムラケイコとの思い出の場所だとかいう、たっての希望だったのだ。山根の言葉は無視して僕は車を走らせ、助手席の山根は再び目を閉じてシートに凭れたがしばらくすると、はっと起き上がりキムラケイコのほうを見て、

「やっぱ、夢やなかよね」

 と言った山根の「やっぱ」に何が含まれているのか想像はついたが深く考えないことにした。とにかく、僕も山根も死者を運んでいるのだ、それでいいと思った。山根は大きくため息をした。横顔を覗くと、随分疲れているように感じる。それは僕も同じである。

 途中、コンビニに寄って煙草とコーラを買った。山根は車に残っていたのだが、コンビニから戻るとキムラケイコと並んで運転席の後ろに座っていた。後部座席の真ん中に座っていたキムラケイコは助手席のほうへ少し動いており、山根とキムラケイコはぴたりと体をくっつけていて、今朝車に乗ったときからそういう風になっていたのではなかったかと思える程に、協和している。僕はそんな二人のことには触れずに山根の煙草、JPSを渡した。JPSなんて買うの恥ずかしかったわ、と言うと、そうかなあと言って、へへへと笑っていた。キムラケイコの隣に座っているせいか、山根の表情は随分と柔らかい気がする。しかしそれはオレンジ色の車内灯がそういう風に見せているせいかもしれないとも思った。

 車を走らせると山根はシートに体を預けて、目を閉じていた。力の抜けた、だらりと伸びた左手がキムラケイコの膝の上で居心地良さげにしているのがフロントガラスにうっすら映り込んでいて、その半透明な像がこの車内空気を絶妙に表しているように感じた。僕はコーラを一口飲んで煙草に火を付けた。窓を開けると、湿っぽい風が入り込んできて、今、この瞬間が崩れてしまいそうだった。それがもったいないような気がして、あわてて煙草を消すと窓を閉めた。

 僕は車を急がせた。疲労もかなり溜まっていたし、こんな馬鹿らしいことをさっさと終わらせたかったからだ。夜も更けてきたので道路はすいている。アクセルを踏み込む。前方車両を片っ端から抜いていった。車線変更を繰り返し、ぎりぎりのところで赤信号になっても構わず進んだ。山根はそんな運転に何一つ文句は言わなかった。言わないというより興味がないようだ。むしろ僕の方がはらはらしていた。何かに追われるようにスピードを上げた。こんなに荒い運転をしたことは久しい。というか、初めてかもしれない。しかし、それがいけなかった。後方からサイレンが聞こえてきたと思ったら案の定、僕だった。調子に乗り過ぎたと反省したが、それより何よりまずいことになったと心底思った。この状況をどう説明していいかわからない。パトカーはすみやかに車を停めるように言って、僕はそれに従った。逃走できるかどうかなんて考えるまでもないことだ。僕はスピードオーバーをしただけなのだとわかっていても後ろの二人が厄介だった。サイレンが鳴ったときから山根はがくがくと震えている。キムラケイコを死体と思い込んでいる山根にとって警察は禁物だ。警官がパトカーから降りてこちらに向かって来たので窓を開けた。

「はい、何で停められたかわかるね」

 言い慣れた口調の警官は四十代くらいの短髪で体躯のいい男だった。僕が頷くと彼は僕の出していたスピードと減点数、罰金を告げた。免許証を出すように言われて気が付いたが、この車は山根のものなのでこのままだとややこしいことになるのではないか。それでも、言われたままに渡す。その間にちらちら山根のほうを見るが、ダメだ。完全に正気を失った目をして、聞こえないくらいの音量で何やらつぶやいている。薄暗い中、渇いた口が震えるように開閉している。とにかく、最悪だ。この状況のこともあるが、点数はともかく貯金を切り崩して生活している僕にとってこんな出費も痛い。今日のガソリン代、途中で買った大型スコップなどは山根が支払ったのだ。僕の財布にはすでに札など一枚も入っていない。貯金だってもう底が見えはじめていた。煙草を二箱買わなかった理由もそういうことがあるからだ。そんな僕と山根をよそに後部座席中央のキムラケケイコだけは余裕のある笑みを浮かべている。僕はそんな肝の太い彼女を羨ましく感じてしまう。彼女みたいな何事にも動じない鉄の微笑みを持っていたならば、世の中をもっと器用に生きていけるような気がして止まない。僕は頭を抱えた。ツイテナイ。その一言で言いくるめられてしまうが、それは僕の人生そのものにかかってくるように感じて、嫌な気分になった。しかし、本当にツイテナイ。ツイテナイ人生。今この状況がまさにそうだ。正気を失って人形を殺してしまったと勘違いしている男と、おそらくそいつの初恋の相手だろう名前をあてがわれて死んだことされている人形。そんな奴らと愉快にドライブをしている僕はどう考えてもツイテナイ。死んでしまいたいな、なんて思うが、窮地に陥っているときに死にたいなんて考えるときは、きまって死ぬなんてことなど一ミリたりとも考えていないものだ。

 結局、僕はパトカーの中に入るように言われ、書類に名前を書いたり、既知であったが罰金の支払方法を説明されて開放された。車については山根の免許証を提出して事なきを得たし、山根が精神疾患で病院に向かう途中だという、半ば本当の虚言をするとさほど咎められることはなかった。

 しばらく走るとアイポッドの電池が切れたので車内から音楽が消えた。ラジオなんて聞く気分ではなかったし、CDも無かった。みるみる車内の空気が硬くなっていくのを感じるが気にせず車を走らせた。車内の空気に気をかける必要なんて全く無いのだ。僕がまだ会社員をしていた時ならば、頭を十二分に働かせていろいろと取り繕っていただろう。そういうことは必須だった。その場にいる全員が嫌な気を起こさないように細心の注意を払っていたし、様々な改善方法も心得ていた。それは処世術などという調子のいいものではなくって、生きぬく術であった。そういうものは体に染み付いていて自然に出てきてしまう。躓いたときに出てくる両手のようなものだ。そしてそれは大抵の人間が持っていて、その場にいる人間同士が見えない触手を絡み合わせるようにして取り繕っていく、見えない共同作業であった。しかし、ある時からその空気を作り上げるということが僕には煩わしくなってしまった。躓いても手を出すのが煩わしくなって、そうなると途端に駄目になった。仕事だけなら良かったが、同僚や上司とどうでもいい話をしたりすることが面倒に感じた。無断欠勤を繰り返すと会社は僕を解雇にした。当然の結果だった。しかし、僕は安堵した。そして一人きりの澄み切った空気を吸ったのだ。何の味気も匂いも無い、澄んだ硬い空気だった。自由と安息を手に入れて悦に浸った。それが七、八ヶ月前である。しかし、二、三ヶ月もそんな空気の中で生活しているとさすがに飽きてきて、そんな矢先に山根と再会した同窓会の知らせが来たのだった。それで僕はふらりと同窓会に行って後悔をしたのだった。

 山根は落ち着いたのか、タバコを吸い始めた。そういえばタバコ代をもらい損ねたなと思いながら、山根に声をかけた。

「なんか食べようや。朝からまともなもの食べとらんやろ」

「そやね」

 気の無い返事だった。

「ファミレスでいいけんさ。あそこにあったやろ、中学校に行く途中にさ」

「そうやね」

 やはり気の無い返事だったがしばらくして山根は口を開いた。

「けっちんさあ、さっきの焦ったよね。警官」

「ああ」今度は僕が気の無い返事を返した。

「いやあ、もうどうなるかと思ったね。あの警官も馬鹿やな、死体に気づかんなんて。へへへ」

 山根が笑って、なんだか僕もつられて笑ってしまった。

「もうさ、サイレンが聞こえたとき、心臓が止まるかと思ったもんね。けっちん、このまま振り切るんかと思ったら大人しく停まりよるし。死んだって思ったね、あん時は。パトカーでなんも言われんかったと?恵子のこと。ししし。日本は平和やな。ラブアンドピースや」

 まったく平和なのは山根のほうだ。人形を死体だと思っていたら世話は無い。ラブアンドピース。確かに、山根のキムラケイコに対する愛だって、この車には溢れているだろうし、実は秘かに愛と平和が車内には溢れているのではないのか、だったら本当にラブアンドピースだと思えて、それが愉快で笑ってしまう。

「ラブアンドピース」

 口に出すと、なんてダサくて恥ずかしいんだろうかとむず痒くなった。これを本気で言えるのは今現在の日本列島には山根しかいない気がしてならない。僕はアクセルを踏んだ。スピードオーバーでもなんでもいい。僕があんまり笑うから山根はわざと叫んだ。

「ラブアンドピース!」

 僕はげらげらと笑った。キムラケイコはそんな僕らを見守るように微笑んでいる。

 ファミレスで僕は若鶏のから揚げ定食を頼み、山根も同じものを頼んだ。斜向かいに座っている山根はにやにやと笑っていて、その隣にはキムラケイコが座っていている。僕は止めたのだが、山根が連れて行くと言い張ったのだ。口論になるのは面倒だったし、特に問題はない気がしたので運び入れたが、やはり間違いだった。店内はがらがらとはいえ、客のほとんどが僕らの方を見てはぎょっとしていた。厨房にいる店員までもが覗きにきていたが、山根はまったく気にかけていないようだった。僕も僕で別に誰にどう思われようがよくなっていた。とりあえず、この店にはもう二度と来ないだろうなと思いながら食後のタバコに火を点けた。

「ひとまず、ここ出たらうちに行って車置こうや」

「そうやね、そうしようか。けっちん家から学校って歩いて三分くらいなんやろ」

「そうよ。山も中学校通ったら大分近道やしね」

 僕らが通っていた中学校は山を削ったところに建っていて、ちょっとした高台になっている。そして、そのすぐ裏は山になっているのだ。片田舎といえば片田舎であるので、よくある学校のかたちといえばそうなのかもしれない。

「中学校入るんか。何年ぶりやろう」

「さあ、知らんよ」

「でも、最近って警備とか厳しいっちゃないと?」

「知らんけど、校舎にゃ入らんけん大丈夫やろ」

 いつになっても中学校の校舎のガラスが割られていたなんていうニュースを耳にするので、敷地に入るくらいなら大丈夫なのだろうと考えていた。

 そやね、と山根は言って、それから僕らは会計を済ませて店を出た。会計は山根が払ったがキムラケイコを抱き運んでいる僕に対して若い女の店員は嘲笑混じりに、かわいいですね、と言った。

僕のアパートにはすぐに着いた。いつも空いている駐車スペースに車を停めて、トランクに入れてあった大型スコップ二本を山根が持ち、僕はキムラケイコをおんぶして運んだ。アパートの前を走る道に出るとすぐに中学校が見える。そして、この道の一キロほど先に木村恵子の事故現場がある。携帯で時間を確かめると午前一時を過ぎていた。

中学校を目にした山根の「久しぶりやなあ」という声が思いのほか響いた。この辺は閑静な住宅地であって、昼でも眠っているように静かだが、夜は死んだように静かだ。声を落とすように言うと、山根はいつものようにへへへと笑った。二人の足音が響いてはすっとどこかに消えていく。時折、山根の持つスコップぶつかり合って、カツンと鳴る。その度に、僕は身が引き締まるように感じた。

歩いて三分というのは家を出てすぐということと変わらない。あっという間に正門にたどり着いた。はじめは暗くて大丈夫だろうかと心配だったが、目は歩いているうちにすぐ慣れた。門には青い鉄柵がしてあるが、思っていたよりも背が低かった。こんなものだったろうかと思っていると、山根はスコップを先に落とし込んで、ひょいと乗り越えてしまった。僕もあとに続こうとしたが、背中のキムラケイコが邪魔であった。それでキムラケイコを担ぎ上げて、鉄柵のてっぺんに擦りながら押し上げて、最後はそのまま落としてしまうと鈍い音をさせて僅かにバウンドした。それを見た山根がすかさずキムラケイコのもとに走りよって、「なんしようとか!」とあげた声はあたり一面に響いて、どこかの犬が反応して吠え始めたのが少し遠くのほうから聞こえてくる。

「ちょっとは考えろ、恵子が傷つくやろうが」

 仮にも殺しておいてよく言うなと思いながら、平謝りをして僕も鉄柵を越えた。とんという着地音が心地よく、懐かしくもあった。足の裏からこんな音をさせるなんて久しいことだった。

 僕はあたりをきょろきょろしながら歩いた。それは目撃者を恐れているということではなく、只単に自らが持つ記憶と照らし合わせているのだった。学校がさほど変わっていないことに気づき、そしてこんな暗闇の学校に足を踏み入れたことがなかったことに気がついた。校舎の向かいにある、僕らが白球を追いかけていたグラウンドはより一層暗みを帯びていて、この世の果てのように感じる。フラットな空間が全てのものを吸い込むみたいに存在していて声をあげたならば、すっと吸い込まれてしまいそうだ。僕も山根もそのグラウンドの姿を前に立ち止まっていた。こんなところで野球をしていたのかと思うと妙な気分になった。僕は体育の授業の白昼のグラウンド、部活のときの夕日に染まるグランド、それくらいしか知らなかったし、それが全てだと思っていた。ものごとには必ず裏の顔があるということを中学生であった僕は思いもしなかっただろうが、十年が経った今でも夜のグラウンドがこんなにも不気味なものだとは思いもしなかった。僕らは何も言わずに再び歩を進めた。敷かれてある細かい砂利がじゃしじゃしと鳴っていて、それが全てあのグラウンドに飲み込まれていくように感じた。久しぶりにこんな砂利を踏んだと思った。山根の持つスコップが時々、カツンとなった。突然、山根は急に立ち止まったので、何だろうと僕も立ち止まって見ていると、山根はそっとスコップ置いて豪快な投球フォームフォームをとりだした。グラウンドを前に元野球少年の血が騒いだのだろうか、そう思った矢先、弧を描いた伸びやかな腕の先、向こう側からガシャンという音が、辺り一面に響いた。それに山根の笑い声が重なった。思わず「馬鹿!」と叫んで、気が付けば走り出した。山根も笑い声をあげながら後からついてきていた。カツンカツンとスコップがぶつかっていて、グランウンドの闇に吸い込まれていった。僕も山根につられて笑ってしまった。二人の笑い声と、足音と、スコップの金属音。ちょっとした騒々しさは、やはり暗闇のグラウンドに飲み込まれていった。笑いながら走るなんて何年ぶりだろうかと思う。山根につられて笑ってばかりいる気がする。

 学校を出るとすぐに田んぼがあって、ちょっとしたあぜ道を進むと山道が現れる。さすがにこのあたりにくれば大丈夫だろうと、僕らは足を止めた。息が苦しい。体が汗ばんできて、キムラケイコを背負っているので背中はシャツが少し濡れている。

「勘弁してや、ありゃいかんって」

 落ち着かない呼吸の中、咎めるが、山根は笑っていた。へっへっへと肩で息をしながら笑っていた。

「いっぺんしてみたかったっちゃんね」

 僕は、馬鹿、と言って、山根に懐中電灯を点けるように言い足した。既に外灯がなくなって、いよいよ真っ暗になっていたからだ。

 明かりが点くと、思っていたよりもずっと草木が多かった。止めどなく白くて小さな羽虫が電灯に寄ってくる。僕の胸は高鳴った。妙な高揚感が体をめぐっているのがわかった。所々に不法投棄だろう洗濯機やテレビ、クーラーなどの大型電化製品が捨てられてあって、どことなくものものしさを演出している。こんなところにまでよく捨てに来るものだと思ったが、こんなところだからこそ捨てに来るのだろう。キムラケイコもこの並びに捨てられていてもなんら違和感がない気がした。

「なんか、夜の山って初めてくるけど、恐ろしかね」

 懐中電灯を僕に向けて山根が言った。

「まぶしい」僕は懐中電灯を取り上げて、

「山根、この山よく来たやろ、小学校のときとかクワガタ採りに」

 そう言うと山根は、そうやね、と言いながら暗い山道を進んでいく。怖いとか言っていたわりには迷いが無い。懐中電灯を山根に渡して僕は山根のあとに続いた。

ねえ、丸山。

 突如、キムラケイコの声が背中から聞こえてくる気がした。僕は彼女との決別が近づいてきているのだと感じた。


 木村恵子が死んだ町で僕は今までのうのうと生き続けた。山根もそうだ。あの同窓会に来ていた連中だってそうだろう。死んだ彼女の分まで一生懸命生きてきた人間なんていないと思うし、そんな人間がいたとするならばとんだ嘘つきか、死ぬ程自分に酔っている人間なのだと思う。そんな自分が健気で真摯で思慮深くてそれでいて前向きな人間だと思っているのだ。女を口説く時にだって使うのかもしれない。「中学のときに死んだ女の子がいてさ、俺、その子の分まで一生懸命にさ、時間を無駄にしないように生きようって決めたんだ」なんていうくだらないことを言ってホテルに連れ込んで、それでまずいことに妊娠させてしまって、困った挙げ句に中絶させてしまう。それでもやはり「彼女の分まで一生懸命生きる」ことをやめないのだろう。過去の感傷として、木村恵子の存在は自分が最も傷つきにくい悲劇の舞台をつくりあげることができるだろう。

 誰しも自分の為に精一杯で、がむしゃらだ。後悔なんてしたくない。惨めな思いはしたくない。理想の生活を、理想の自分を、思い描いている。それが頭を支配している。気持ちはいつも目線のちょっと先の方でふわふわとしているものだ。死者のことをどうこう言うのは生きている人間のエゴであり、自己満足なのだ。しかし、僕は思う。実は皆、木村恵子のことをすっかり忘れているのではないのか。こんなに彼女のことを思い出しているのは僕らくらいなのではないか。山根が何を考えているのかわからないが、死んだ彼女を人形という形で生き返らせているくらいだ。完全に固執している。彼女に、いやひょっとすると過去に。そう過去に。過去。僕は昔のことをよく思い出す。それは、きっと思い出す余裕があるからなのだ。先にあるだろう出来事よりも過去の出来事の方がはるかに豊かでドラマに溢れている。そうなると当然、過去に意識が行く。先には何もないのだ。それが今の僕の姿であって、もっとはまり込んでいるのが山根だ。キムラケイコとの決別は、いわば僕に付きまとう「過去」との決別なのかもしれない。しかし、その過去を払いのけたあと、僕に残るものは何だろうかと考えると、怖くなった。過去に生きていた僕が、未来を見据える世界に生きていけるのかと不安になる。その先には何も無いのかもしれない。あの空き缶のようにがらんとした空虚が口を開けているだけなのかもしれない。それでもやはり、過去との決別は必要な気がした。生きるということはそういうことで、木村恵子の存在を忘れている人間こそが正しくて、まさしく「生きている」のだと感じられてやまない。


 キムラケイコがすっぽり入るくらいの穴を掘ることは思った以上に大変であった。少し地面を掘ると大きな石や木の根が顔を出し、その度に懐中電灯をその部分に当てながら掘り進めなければならなかった。二人とも土まみれ、汗だくになりながら掘り進めた。キムラケイコは土がかからない程度の場所に、ぺたりとお姉さん座りをさせていた。しばしば、懐中電灯の光が動く時に照らし出されて、そこにいると分かっていてもどきりとした。キムラケイコは山の中では一段と異質な空気を醸し出していたのだ。

 僕がキムラケイコを穴に中に寝かせた。キムラケイコの体は強張っていて、死体もこんなに硬くて、冷たいのだろうかと思った。穴の中は土のせいでひやりとしている。僕はついつい本当に死体を埋めているような気分になってしまった。山根はそんな僕をじっと見つめているだけだ。随分と手間取ったので、空がうっすらと明るくなりはじめている。もう懐中電灯は必要なかった。山が目覚めようとしているのがわかった。空気が変わっていく。換気をするときみたいに空気の流れが変わって、程よい湿り気をもった空気が山全体を取り巻いている。気温がぐんと落込んで、キムラケイコの肌に朝露がひかれていた。それはキムラケイコが人形であるという紛れも無い証拠であった。湿った肌には土がこびり付いて、薄汚れている。穴のふちで突っ立っていた山根は身を乗り出してキムラケイコの頬をぬぐったが、山根の手も汚れているので頬はさらに汚れ、山根の指がキムラケイコの頬をさするたびに汚れは広がっていく。その行為こそ過去に溺れてもがく山根のように見えた。ついには山根の動きは止まって、僕は山根の肩に手を置いた。かける言葉などは無かった。それから着ていたシャツをキムラケイコの顔にかけた。スコップですくった土をかけると、その度にキムラケイコの体は少し、動いた。もっともそれは錯覚で、土が体の上で跳ねるのがそのように見えるだけだった。山根は穴のふちで土に埋もれていくキムラケイコを見つめていた。足のほうから土をかけて、最後はシャツを被された顔の部分になった。土をかけるとシャツが大きくへこんで、キムラケイコの顔の輪郭をかたどっている。このシャツの下はあの軽薄でいて澄みきった微笑があるのだろうか。しかし、僕は木村恵子の美しい顔を思い描いていた。土に埋もれる彼女の顔を、棺桶の扉から覗いたあの顔ではなく、僕の好きだった木村恵子の顔を。

「おい、お前ら何ばしようとか!」

 突然、声が響いた。ひどくびくついて、声のほうを見ると髭を生やした初老の男がすぐ先に立っていた。男は手に鉈を持っている。

「お前らや、ゴミば捨てようのは!人の土地で何ばしようか分かっとうとや、あ、冷蔵庫やら洗濯機やらば持ってきて、黙って見とるだけと思ったら大間違いやぞ!」

 男は鉈を振っては草を分け入って近づいてくる。僕は鼓動が体全体を揺すっているように感じるほど、極度の緊張に襲われた。完全に恐怖であった。とにかく、逃げようと思った。それが一番だ。山根を見ると、山根は男から目を放さぬまま足元に置いてあるスコップを拾い上げようとしていた。

「山根、逃げるぞ。おい」

「いかん、ばれたら終わりや!」

「何言いようとか、見つかっても問題なかって」

 山根のスコップの刃が地面を這って、カラカラと嫌な音を立てた。

「お前らそこから動くなよ。警察に電話しとうし、もうすぐ俺の仲間も来るけんな」

 男の声はしゃがれているわりによく通って、山全体に広がっていった。

「スコップなんて捨てろや。邪魔やろうもん。どうせダッチワイフなんやけん、見つかっても不法投棄でひっかかるくらいや」

山根は僕をにらみつけた。狼狽している僕にはそれがひどく恐ろしく感じた。

「死体遺棄やろうもん!何言いようとかって!俺は殺人者なんやぞ、お前も共犯なんやぞ、捕まってもいいとか!」

「捕まらんって」山根の目は血走っていた。まともな思考は無理なように感じられる。

「なんで言い切れるとや!お前は良くても俺はいかんったい!」

 これ以上ない大きな声だった。

「なんばごちゃごちゃ言いようとかお前ら」

 男はもうすぐそこまで来ていた。鉈の刃には切りつけた蔓や枝のかけらがへばりついていて一部が緑色に染まっている。駄目だ、とにかく謝ろうと思った矢先に、山根が大きく動いた。僕はそれをただ見つめることしか出来なかった。スコップが弧を描いて男の頭に落ちるのを、僕は瞬きもせずに見つめた、いや、瞬きをする間もなかった一瞬の出来事だったのだ。スコップが頭に落ちた瞬間に音がしたかは定かではなく、音よりも映像がはるかに鮮やかでスローモーションでも見ているようだった。男のうめき声がして、スコップはもう一度振り下ろされた。今度は頭でなくて肩に落ちて、男の声は絶叫に変わった。自分でも血の気が引いていくのがわかった。このままでは山根は男を殺す。しかし、僕はもう山根が怖くてたまらなかった。これ以上山根に関わることは危険であるし、もうすでに関わりすぎたと後悔をしていた。

 僕は逃げた。いつも逃げてばかりいるが、今回ばかりは本気で逃げた。山道を、木につかまりながら走った、遮二無二走った。来た道を帰るだけではあるが、非常に長く感じたのはあの男の仲間と鉢合わせはしないか、警察が来るのではないか、あの男は死んだのか。不安が道を長くさせる。何事においてもそうだ。学校を抜けるとグラウンドは明るみを帯び始めて、僕の知っているいつもの姿に変わりはじめていた。砂利を蹴りながら走る感覚が足裏から伝わってくる。校門を飛び越えて、道路に出ると、僕は立ち止まった。もう限界であった。こんなに走ったのは記憶に新しい。二車線の道路は静まり返っていて、アスファルトはいかにも冷たそうだった。触ると本当に冷たくて、ほてった僕の体には心地よい。空はどんどん明るみを帯びてきて一日の始まりが迫ってきている。朝に対して安心感を覚えてしまうのは本能からだろうか、僕にとって何もない一日のはずなのに、何かあるのではという期待感を、希望を抱いてしまう。山根はどうなったろうかと考えたが、考えても仕方のないように思える。僕は緩やかにカーブしていく道路を歩いた。車は全く通らないようなので車道を歩いた。足音が響き渡る。行き先は決まっていた。途中、カブ号で新聞配達をしている青年が通り過ぎていった。もう一日が始まっている人もいるのだ。耳をすませば鳥があちこちで鳴いているし、新聞配達のカブ号の乾いたエンジン音が空に響いている。あんなことがあったあとなのに非常に清潔なひと時のように感じられた。浄化されるようだと言うと言いすぎかも知れないが、それでもちょっとやそっとのことくらいは許してもらえそうな、そんな気がしてならない。何度も足を運んだあの電信柱は緩やかなカーブの先にあって、進むたびに死角からちょっとずつ顔を覗かせていた。


 


 久しぶりに訪れた木村恵子の事故現場には相変わらず、あのスチール缶が括りつけてあった。しかし、それよりも僕の注意をひいたのはその下に置かれた花束であった。少し枯れはじめたその花束は誰が置いたものだろうか。歩みよって花束を拾いあげると思いのほか軽くて、包んだビニールの音には粘りがある。花束はひまわり意外名前も知らない花だった。花束の包みにカードが挿してあることに気がついて取り出すと、色鮮やかなペンで書かれた丸文字が賑やかしく、踊っている。どこかで見覚えがあると思ったが、僕はすぐに分かった。木村恵子に手紙を書いたあのときに僕が盗み見た女の子のものだと思った。案の定、カードの終わりには彼女の名前が書いてある。カードには彼女が結婚をすること、それにあたって久しぶりに実家を訪れたこと、木村恵子に語りかけるような文体で書かれていた。それは僕が盗み見たときとほとんど変わらない語り口だった。十年経った今でもだ。それを読んで、僕は途方もない気持ちになった。そして、「くだらないことを」ひとりごちた。ひとりごちて、のどの奥からこみ上げてくるものを我慢できずに、たまらず涙を流した。こみ上げてくる涙を止めることはできずに、僕は嗚咽を漏らして泣いた。ずるいと思った。僕こそが木村恵子の死を真摯に受けとめて弔っていたとばかり思っていたが、それは違ったのだ。くだらないと思っていた連中は決してくだらなくなくて、僕こそがくだらないのだと思った。この世界のどこかで「彼女の分まで生きている」人間がいたのだ、それも、決して間違っていない生き方だった。僕のように過去にとらわれているほうがおかしいのだ。それが悔しいのだ。僕はそんな真似はむず痒くてできない。したくてもできないのだ。スマートに泥臭いことをできる人間が羨ましい、心から羨ましいと思った。僕は花束を地面に置いた。慎重に、先ほどと変わらない姿勢で置いた。僕はそこから半歩進んで電信柱に括り付けられたあの空き缶を覗いた。そして、またひとつ驚いた。久しぶりに覗いた空き缶の中は腐食によって底が抜けていたのだった。缶の口からは丸くくりぬかれた、明るくなりはじめた地面が見えて、地面と電信柱の隙間からは雑草が生えているのが見える。その缶の中には僕が頭の中で見つめていた空虚は、どこにもなかった。十年の月日は空虚を拭い去り、その先に何かを見出していたのだ。僕だけが過去にとらわれていたのだとあらためて痛感した。底の抜けた缶は何だって映し出すことが可能だった。僕はその先に何を見ることが出来るのだろうかと考えてみる。しかし、何も見えない。ここでは、見えない。この町では、僕には何も見出すことはできないように感じた。この町には、記憶が多すぎるのだ。そもそもこの町に居座る理由なんて本当はなかったのだと今更になって気が付いた。もうすぐ日が昇る。朝が訪れる。逃れる事の出来ない一日が始まるのだ。僕は、朝と共に、始発電車でこの町を出ようと思った。行き先は駅に着いてから決めよう。行くあては、ない。持っていくような物もない。必要なのは決別だ。この町との決別。過去との決別。木村恵子とキムラケイコとの決別。ダッチワイフと初恋に別れを告げる。日が昇る前にこの場を去ろうと思い、僕は足裏を前に突き出して空き缶を潰した。腐食の進んだ空き缶は音も無く潰れ、足裏に微かな痛みを覚えた。たん、という音が一面に響いて、白々しい空に吸い込まれていった。それから僕は呟いた。


さらば、ダッチワイフと初恋。

 



                                  了


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