希望の歌
ぼくは歌手だった。
名もない歌手だった。定期的にがらがらのライブハウスで歌を歌う。
自分に才能なんてあるのだろうか。ライブハウスの仲間がどんどん成長して、遠くなっていくたびにそんな自問を繰り返した。
ぼくは学生時代、虐めに遭っていた。
体をボロクソにされて、心を引きちぎられて、切り裂かれて粉々にされ、その末焼き尽くされた。
ぼくの歌う歌はそんな歌だった。
灰になった心をかき集めて、その心でぼくを傷付けた人間に復讐するために歌を歌った。
錆びだらけのナイフのようなメロディに、心をズタズタにする鑢のような叫びをのせて、復讐の歌を歌った。
そんな毎日を過ごし、ぼくの傷は増えていくばかりだった。
ぼくには彼女がいた。
彼女は上村明里と言った。
◇ ◇ ◇
明里は画家だった。
名もない画家だった。バイトをしながら、毎日毎日自分が納得する絵を描いては、僅かばかりのお金を貰っていた。
明里もまた、虐めに遭っていた。
学生時代、そしてバイト先。ぼくと同じように――いや、それ以上に体と心を灰にされていた。
それなのに明里は常に楽しい絵を描いていた。花が咲いて、蝶が舞って、その中心で子供達が遊んでいる。
ぼくは明里に訊いたことがあった。
「どうして明里は酷い目に遭っているのに、そんな綺麗で、楽しい絵を描くんだい?」
そうすると、明里は微笑んで
「だからこそよ。私の絵は私の希望なのよ」
そう言った。
ぼくとは大違いだった。ぼくは他人を傷付ける歌を叫んで、ぼく自身を傷付けている。他人がぼくの歌を聴いていないことにも気付いていた。――それでも復讐の歌をやめられなかった。
でも、明里は思ったような絵が描けなくて、ヒステリーのようなことを起こす時があった。画材を投げ、ナイフで自分を傷付けようとする。
落ち着いてから明里の話を聴いた。
「辛いことがたくさんあると、私は楽しい絵が描きたくなるの。創作意欲って言うのかな、そういうの。でも、心の中には描きたいことがあるのに、それをまったく絵にできない時がある。そうしたら私は何かよくわからない真っ黒なものに呑み込まれる感じがする。ううん、私が真っ黒なものに染まってしまう感じがするの。――だから自分を傷付けるんだよね」
そう言って、明里は寂しそうに笑った。
明里のそんな顔は見たくなかった。
でも明里が本当に楽しそうに絵を描いている時の笑顔は、ぼくの心を洗い流すようだった。復讐の歌も無意味なものにしてくれるような気がした。
明里は暗闇の中で微かに見えた小さな光を必死に絵に描いていた。
ぼくは暗闇の中でそこら中にある闇を他人にぶつけるために歌っていた。
ぼくは明里が羨ましかった。でも明里のようにはなれる気がしなかった。
◇ ◇ ◇
そんな明里がビルから飛び降りた。
見つけたのはぼくだった。明里の顔は何故か安らかに見えた。
すぐに救急車を呼んだため、明里は一命をとり止めた。
しかし、記憶を失っていた。
過去の虐めの記憶。今の虐めの記憶。画家としての辛い毎日。――そして、ぼくの存在を。
医者曰く、記憶が戻ることはないらしい。
「なあ、ぼくのこと、わかるか?」
「......すいません。わかりません」
「明里は絵を描いてたんだ」
「......すいません。わかりません」
答えがわかりきっている質問をしては、わかりきっている回答を聴いて、ぼくは悲しくなった。
ぼくは明里と一緒に住んでいた部屋に戻った。
画材が全て使い物にならないぐらいに、ぐちゃぐちゃになっていた。部屋にあった楽しい絵は全てズタズタに切り裂かれていた。
メモ紙を見つけた。そこには
《私の絵はただの嘘だった》
と書きなぐられていた。
きっと画材を壊し、絵を切り裂さいた後に明里はメモを残し、飛び降りたのだろう。
明里はきっと、真っ黒な自分に呑まれてしまったのだ。
ぼくは部屋の隅で考えた。
ぼくは最初、明里の記憶を何とかして取り戻すつもりだった。
でも、そんなことをする意味なんてないんじゃないか、そう思い始めていた。記憶を取り戻せば、明里は記憶に苛まれる。そして苦しむ。
それなら、明里の記憶を戻すことはせずにこのままの状態で新しい人生を歩んだ方がずっといいと思った。
真っ黒になってしまった明里の心のキャンパスは、記憶を失って真っ白なキャンパスに戻ったのだ。
それなら、明里は幸せに生きられる可能性がある。
ぼくの存在を思い出す必要なんて、どこにもないのだ。
ぼくはいつか、記憶を失う前の明里に逢いたくて、明里の記憶を無理やりに思い出させてしまうかもしれない。
それは明里を苦しめることになる。ならば、ぼくは明里の前から消えよう。
でもその前にしておきたいことが一つだけあった。
◇ ◇ ◇
ぼくは部屋に籠って、歌をつくりはじめた。
復讐の歌ではない。希望の歌だった。
明里は自分の絵を「希望」だと言っていた。しかし、飛び降りる前は「嘘」と言った。
でも絵を描いている時、明里は笑っていた。
卑屈な歌を歌っていたぼくを救ってくれるような笑顔だった。
それは「嘘」ではない。本当すぎるぐらいに真実だった。
ぼくは思った。
真っ白なキャンパスに希望を描いて絶望を知るのと、真っ白なキャンパスに絶望を描いて絶望の中を生きるのと、どっちがいいのだろう。
ぼくは前者だと思った。希望を知らないで生きるより、希望を知って生きるほうがいいと思った。
だから、歌をつくっていた。
明里の希望に満ちた楽しい絵はもうない。ならば、ぼくが歌を歌えばいいのだ
復讐の歌ではなく、希望の歌を。
嘘臭いほどに希望に満ち溢れた歌を。
明里に送る歌を。
二、三日して歌はできた。ボイスレコーダーに録音する。
いつの間にかぼくは泣いていて、上手く録音できなかった。
一〇回以上歌って、やっと納得のできる歌を録音できた。
叫ぶこともなく、刃物のようなメロディでもなく、優しい声で歌う、包み込むようなメロディ。
そして、少しだけ涙声の歌だった。
明里の元へ行った。
明里は眠っていた。安らかな寝顔。
ぼくはボイスレコーダーを明里の枕元に置いた。
「......好きだよ」
ぼくは明里にそっとキスをした。
「さよなら、明里」
ぼくは病室を出た。一度も振り向かなかった。振り向けば、もう進めなくなってしまうと思った。
◇ ◇ ◇
上村明里は目を覚ました時、枕元のボイスレコーダーに気付いた。
「何だろう?」
それはイヤホンと繋がっていた。上村明里は何も疑わずにイヤホンを耳にいれて、再生する。
あまりにも優しいメロディと歌声が上村明里の鼓膜を心地よく刺激する。
聴き終えてから、上村明里は呟いた。
「誰が歌ってるんだろう?」
上村明里が声の主を覚えているはずがなかった。
彼女は声の主がかつて救われた笑顔を浮かべて言った。
「――でも、いい歌だな....」




