花の兄
春がきらい。春はいろんなものを、もっていってしまうから。
へうあ、といかにも間抜けな声を上げて、菊ちゃんはコンクリートとキスをした。着慣れた白いワイシャツとよれたカーディガンが、重ね重ね踏み付けられた桜の花びらで汚れる。白と、ピンク、それだけならばまだ可愛らしいが、薄い茶色に変色してしまっているところはどうにも、みすぼらしい印象を残す。それを手で軽く払うと、彼は私に頼りなさげな笑みを向けた。最近よく転ぶんだよ、と聞いてもいないような近況を伝えると、何事もないように歩きだす。
彼の手には大事そうに抱かれた筒があって、私はそれを見ないようにと目を逸らした。見なくたって現実はどうにもならないのに、と私は手を握る。少しだけ伸びた爪が、手の平をちくりと刺す。いたい。
ごまかすように欠伸をすると、喉に入った空気が柔らかくて、身体が柔らかく暖かくなる。半透明の空色も、境界のあやふやな雲も、太陽光を容易く逃す若葉も、春というのはどこもかしこも緩くって仕方がない。おつむの弱い人間が増えるわけだ。私は春が嫌いなのだなと気付いたのはみっつ前の春の終わりだった。
菊ちゃんは私より一瞬だけ早く産まれた。その一瞬が日を跨いだ、それだけだった。
双子ではないけれど、双子のように育てられてきた私達は、ずっと一緒に居られるものだと錯覚していたのだ。けれどやはり、学年がひとつ違うのはとてつもなく大きな違いで、それは一度春を迎える度に高くて分厚い壁になっていった。春が来る度に、菊ちゃんと私は他人になっていく。だから、私は春が嫌いだった。
春色のモザイクが視界を混ぜる。私と菊ちゃんの間にちぐはぐな壁を作り上げる幾許かの花びらを、正確にはコンクリートに良く映える色鮮やかな花びらを、私は踵ですり潰すように踏んだ。菊ちゃんはもう私に背を向けて、その忌むべきちいさな花弁を手の平で掴んでみせては、幼げに瞳をきらきらと揺らめかせた。私はすこしばかり唇を噛んで、こちらを向いた彼に笑む。きりきりと絞られるように痛む胃は、何に縊られようとしているのだろう。
家の方に向かって歩いていく菊ちゃんを私は少しだけ目で追って、それから追い掛けた。菊ちゃんは少しだけ驚いて、それでも立ち止まって私を待った。
「桜が走るなんて珍しいなあ」くすくすと肩を揺らして笑う。足の遅い私が息を荒げながら菊ちゃんに並ぶと、彼は華奢な長い指で私の髪に触れた。くすぐったくて、心臓に沢山針が刺さる。何時からか私の心臓は針山みたいになっていて、菊ちゃんが何かする度に痛みを感じるようになった。「僕がいなくなるのが寂しいのかな、かわいいなあ桜」
バラ科サクラ属のそれとおんなじイントネーションの名前が、私自身はあまり好ましくなかった。書いてみれば有り触れているであろう名前なのに、口にするとごろっとした違和感を喉に残していくのだ。菊ちゃんはその違和感をころころと転がすみたいに、私の名前を繰り返しては、楽しげに微笑んでいた。
「寂しくなんて」ない、ないと思わないと苦しいから。「そっか」菊ちゃんが眉を八の字にして笑う。残念がっているのと、安堵しているのが綯い交ぜになったような顔を見て、ちくりと体の真ん中のほうが痛んだ。
高台を走る電車から見た海はきらきらと眩しくて、でも柔らかな暖かみがあった。淡い色をした空には雲ひとつなくて、少しだけ気持ちが楽になる。菊ちゃんとこうやって、海を眺めながら帰ることはこれが最後なのに、いまひとつ実感が湧かない。菊ちゃんがあんまりにも満ち足りた顔をしているからか、私の踏ん切りがつかないだけなのか、それはきっと両方なんだろう。
がたん、ごとん、静まり返った車内で、私と菊ちゃんは少しだけ言葉を交わして、それから私が目を反らした。がたん、ごとん、現実に向かって進んでいく電車の中で、必死にとまれを反芻する。とまれ、とまれ、とまってよお願いだから。喉の奥で膨れ上がっていくそれのせいで、また、息が苦しくなる。
「桜」
飴玉を転がすような甘ったるい声で、菊ちゃんが私を呼ぶ。胃の奥がかっと熱を持つ。
「僕はね、色んな花や木のお医者さんになるんだ」
子供に話しかけるような口調は昔から、変わらない。私はいつまでも子供扱いなのが嫌で、甘えてもいいようなのが好きで、だから、菊ちゃんと話すのが嫌いで、透きだった。沈みはじめた眩しい茜色が、菊ちゃんの顔に影を落として、表情を隠す。
「だから少しだけ遠くに行くけど、桜のこと、大事だから」
「菊、ちゃ」
「桜は花が昔から好きだから、元気な花を沢山咲かせて、桜に見せてあげる。それまではすこしだけ、すこしだけ寂しいけど、待っててくれないかな」
何かをとめようとして、留めようとして彼の腕に触れた私の腕は力をなくし、そのまま、すとんと二人の間に落ちた。
いってらっしゃい、新手の別れの言葉。私はそれを何度か紡ぐうちに、それが声でなくなっていくことに気がついた。それは嗚咽以外の何でもなくなり、私の口の中で小さく潰れていく。菊ちゃんの華奢で大きな手の平が、惨めに震える私の髪を軽く撫でて、それから、肩を抱く。トンネルに入った電車が私の声を掻き消す。私は少しだけ、泣くのをやめたけれどまたすぐにぼろっと溢れて落ちた。
私の春が終わる。次の春まで咲かない桜。
春のはじめに咲く花の兄が、私を迎えに来てくれる、その日まで。
激しく季節はずれで申し訳ないです。
このふたりが将来どうなるかは全く考えてません。
恋人かも知れないし、他に好い人を見付けてしまうかも知れません。
ふたりの今後が幸せであればと思います。