第九話 補正
その夜、大島は工場を出て、一人で農道を歩いた。
空に星が出ていた。
山の輪郭が、星明かりに黒く浮かんでいる。足元の砂利が、一歩ごとに鳴った。
大島は立ち止まって、空を見た。
俺は今、自分が作ったシミュレーションの中にいる。
この星も、この空気も、この砂利の音も、すべて俺が設計したパラメーターから生成されている。
そしてこのシミュレーションでの経験を、俺は現実世界に持ち帰る。
それが目的だ。
しかし。
大島はもう一度、空を見た。
吉岡の言葉が、頭の中にあった。
続けていくうちに、なんか別のものになってくるんですよね。
大島は自分の手を見た。
この手も、シミュレーターが計算して生成した手だ。しかし、この手で蒸気釜のバルブを触った感触は、本物だった。吉岡と並んで深夜の工場に立った時間は、本物だった。橋本の煙草の匂いも、田辺の黙って土を耕す背中も、紀の川の光も。
本物、とはなんだ。
大島は、その問いを頭から追い払おうとした。
追い払えなかった。
星が、山の向こうに少し傾いていた。
吉岡から話を聞いた翌日、大島は橋本に連絡を入れた。
会う場所は、橋本が指定した。難波から少し外れた、古いビルの地下にある小料理屋だった。カウンター六席だけの店で、女将は橋本を見て何も言わずに奥に引っ込んだ。常連だということがわかった。
大島が吉岡からの報告を話すと、橋本は黙って盃を傾けた。
怒った様子はなかった。驚いた様子も、なかった。
「知っとった」
橋本は言った。
「知っていたんですか」
「吉岡に接触した人間のこと、うちの組に話が来とったんや。竹内組いう、うちと同じ系列の下部組織や。若い衆が動いたらしい」
「系列が同じなら、なぜ」
「若い連中はせっかちやからな」橋本は言った。「大島はんのことが面白そうに見えたんやろ。自分らで囲い込もうとした。上に話を通さんと」
橋本は盃を置いた。
「もう動かん。上から釘を刺してもらった」
「上というのは」
「うちの系列全体を仕切っとる人間や。名前は言わんでええ。そういう人間がおる、ということだけ知っといてくれたらええ」
大島は少し考えた。
「その上の人間は、私のことをどう思っていますか」
橋本は大島を見た。
「面白い聞き方するな」
「答えになっていませんが」
「興味を持っとる」橋本は言った。「それだけや。今のところはな」
含みのある言い方だった。大島はそれ以上聞かなかった。
帰り道、大島は歩きながら今の会話を整理した。
橋本の組の上層部。シミュレーター内に設定した、反社会的勢力の階層構造が機能している。
竹内組の動きは、想定の範囲内だ。新興のプレイヤーが現れた場合、周辺の勢力がそれを取り込もうとするのは、エージェントの行動原理として設定してある。
橋本の上層部からの介入も、組織の自律的な秩序維持機能として想定していた。
すべて、想定の範囲内だ。
大島はそう結論づけた。
しかし、歩きながら、一つだけ引っかかることがあった。
橋本が言った言葉。「興味を持っとる。今のところはな」
あの含みは、どのパラメーターが生成したものか。
大島は思い出そうとした。橋本の上層部として設定したエージェントは、組織の安定を最優先する保守的な人物像のはずだった。新参者に「興味を持つ」という感情的な反応は、設定に含まれていたか。
含まれていたかもしれない。含まれていなかったかもしれない。
三十二万を超えるエージェントの、個々の細部まで、大島は把握しきれていない。
それは設計上の限界であり、同時にこのシミュレーターの「面白さ」でもあった。
俺が作ったはずの世界が、俺の知らない動きをしている。
大島は夜の道を歩きながら、その事実を確認した。
確認して、それを冷たく飲み込んだ。
それでいい。想定外があるから、予行演習になる。




