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第6話 ダイブ

埼玉県の外れ、工業団地の一角に取得した倉庫は、外から見れば何の変哲もない建物だった。


 内部には、サーバーラックが十四列。総演算能力は、商業クラウドの中規模データセンターに匹敵する。冷却システムのファンが低く唸り、フロア全体が微かに振動している。電力は専用の引き込み線を通じて供給され、バックアップ電源として大型蓄電池と自家発電機を備えていた。


 奥の白い部屋に、フルダイブ用のシステムがある。


 医療グレードのリクライニングチェア。自動点滴システム。心拍・血圧・体温・脳波の常時モニタリング。異常値を検知した場合の自動覚醒プログラム。VRゲーム中の死亡事故は、近年増加の一途をたどっていた。長時間の神経接続による脳への過負荷、あるいは仮想空間内の主観時間の加速に精神が耐えきれなくなるケース。大島はその対策に、三千万円をかけた。


 死ぬつもりはなかった。


 フェーズ2はまだ先だ。そのためにも、今は生きていなければならない。




 起動は、午前二時に設定した。


 最終チェックを終えた大島は、白い部屋のチェアに横たわった。点滴の針を左腕に刺す。ヘッドセットを装着する。


 シミュレーターの設定を、頭の中で確認した。


 舞台は二〇〇三年の大阪。バブルの残滓と不況が混在する時代。リーマンショック前の、まだどこかに昭和の匂いが残っていた頃。


 投入するAGIエージェントの数は、三十二万四千体。


 それぞれが独自の記憶、欲求、学習能力、社会的関係を持つ。大島の視野に入っているエージェントだけが高度な演算を行い、視野外は統計的な確率モデルで処理される。量子力学の観測問題を模したこの設計は、限られた演算リソースで世界を維持するための苦肉の策だったが、同時に奇妙な詩情を持っていた。誰も見ていない場所では、世界は曖昧なまま存在している。


 アバターの設定は、自分自身に近い。四十代の男。コネなし。前科なし。資金は日本円で300万円程度。


 チート機能は、すべてオフ。


 これが「予行演習」である以上、現実に近い条件でやらなければ意味がない。


 シミュレーター内でうまくいかなければ、現実ではもっとうまくいかない。


 大島は目を閉じた。


 意識が、溶けていった。




 路地に立っていた。


 アスファルトが湿っている。雨上がりの匂い。排水溝の澱んだ臭気。どこかの店から演歌が漏れている。


 大島は一度、深呼吸した。


 リアルだ。


 足の裏の硬さ。鼻を刺す夜の空気。右手の親指の関節の鈍痛。これはすべて自分が設計したパラメーターが生成しているものだ、と頭でわかっていても、身体はそれを現実として受け取っている。


 いい。このリアリティが必要だ。


 大島は歩き出した。


 西成。飛田新地の外縁部。


 赤提灯に手書きの暖簾。「福来軒」。中国家庭料理の小さな店。ガラスの引き戸の向こうに、煙草の煙と酒の匂いが混じり合っていた。




 カウンターで紹興酒を頼んで、十分もしないうちに、隣の男が声をかけてきた。


「兄ちゃん、この辺の人やないな」


 五十代。がっしりした体格。グレーのスーツ。左手の小指が第一関節から先にない。金の指輪。


 橋本、と名乗った。


 大島は男を観察した。


 このエージェントは、大島がシミュレーターに仕込んだ「接触トリガー」の一つだ。新参者が西成のこの店に入った場合、一定確率で接触を試みる、反社会的属性を持つ中年男性。設計通りに機能している。


 設計通りに、機能している。


 大島は、その確認を心の中でした。


 ここが予行演習の場であることを、常に忘れてはならない。この男はAIだ。感情があるように見えるが、それは高度な模倣だ。ここで得た経験を、現実に持ち込む。それが目的だ。


「稼ぎになる話を探してます」大島は言った。「合法でなくていい」


 橋本はグラスを置いた。


 ゆっくりと、大島の方を向いた。


「ほう」


 その目が、少し変わった。品定めから、何か別のものへ。


「何が、やりたいんや」


 大島は答えた。


 覚醒剤の製造と流通、と。


 橋本は長い沈黙の後、煙草に火をつけた。


「ええ度胸しとるな、大島はん」


 煙を吐きながら、男は小さく笑った。


「話を聞こか」




 その夜から二週間後、大島は助手席に座っていた。


 橋本の運転する古いセダンが、阪和道を南へ走っている。


 大島は窓の外を眺めながら、冷静に情報を整理していた。


 橋本はこの二週間で、かなりのことを話した。大阪の裏社会の人脈。警察の動き方。摘発のパターン。農地の話も出た。和歌山の山奥に、二年間放棄されている農地がある。元は梅農家の老夫婦が管理していた土地で、近くに廃業した製餡工場もある。地元警察と老夫婦は顔見知りで、すぐには怪しまれない、と。


 大島はすべてをメモした。


 脳内のメモだ。現実世界に持ち帰るための、実践的なデータとして。


 農地の確保方法。地元との関係構築。廃工場の転用。警察の巡回パターン。


 現実でも、同じ手順が使えるはずだ。


「着いたで」


 橋本が車を止めた。




 山が迫る農道の脇。眼下に広がる、雑草に埋もれた段々畑。


 そして奥に、コンクリートブロック造りの平屋。


 引き戸を開けると、甘い匂いがした。


 豆の匂い。何年経っても染み付いている、煮詰めた小豆の残り香。


 大島は無言で内部を歩いた。


 大型の蒸気釜、二基。ステンレスの撹拌槽。精密な計量台。温度計と圧力計。電源と水道、生きている。


 間接加熱。エタノールを使う抽出工程でも、直火より安全だ。


 撹拌槽は溶媒抽出後の濃縮に使える。


 計量台の精度は、おそらく食品グレード。エフェドリン抽出には十分だ。


 大島は確認を終えて、橋本を振り向いた。


「返事、まだもらえてへんな」


 橋本の声に、初めて刃のような圧力が混じった。


「急かしてるわけやないで。ただな、タイミングいうもんがある。あの農地、他にも話が来とるんや。俺が押さえられるのは、もう長ないかもしれん」


 大島は工場の中を、もう一度見渡した。


 甘い匂い。静かな山。


 そして、これはすべて予行演習だという冷徹な認識。


 ここで得るものは、現実で使うための知識だ。橋本がどう交渉を迫ってくるか。どういう心理的圧力をかけてくるか。こちらはどう応じれば最も有利な条件を引き出せるか。


 それをすべて、学習する。


「わかりました」


 大島は言った。


「やります」


 橋本はゆっくりと煙草の煙を吐いた。


 満足そうな顔だった。


 AIが、満足そうな顔をしている。


 大島はそれを冷静に観察しながら、同時にある感覚が自分の中に芽生えているのを感じた。


 言語化しにくい、微妙な感覚だった。


 工場の外で、風が山を渡っていく。


 その音が、やけにリアルだった。

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