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第32話「冬の農地」

夜明けの光の中を、大島は歩いた。

 どこへ向かうか、決めていなかった。

 足が、勝手に動いていた。

 難波を抜けた。阪神高速の下をくぐった。住宅地に入った。気づいたら、どこかの川沿いに出ていた。

 冬の川は、黒かった。

 水面が、朝の光を鈍く反射していた。

 大島は川沿いのベンチに座った。

 体が重かった。一晩歩き続けていた。しかし眠い感じはなかった。

 川を見た。

 水が、音もなく流れていた。


 大島は自分がした告白のことを、もう一度考えた。

 山田に話した。橋本に話した。

 この商売を、練習として始めたと。全員を道具として見ていたと。

 二人とも、怒らなかった。

 山田は「如何」という問いを示した。橋本は「わかっとった」と言った。

 大島はその反応を、頭の中で繰り返した。

 怒らなかった理由が、大島にはまだ完全にはわからなかった。

 しかし一つだけ、確かなことがあった。

 二人は、大島が変わったことを、知っていた。

 最初の大島を知っていて、今の大島を知っていて、その差を見ていた。

 その差に、何かを見ていた。

 俺は変わった。

 川を見ながら、大島はその事実を受け取った。

 追い払わなかった。分析しなかった。ただ、受け取った。


 一時間ほど川沿いに座っていた。

 それから立ち上がった。

 駅に向かった。

 電車に乗った。

 和歌山行きの電車だった。

 乗ってから気づいた。

 足が、農地へ向かっていた。


 紀の川市に着いたのは、午前十時だった。

 バスを乗り継いで、山の麓まで来た。

 農道を歩いた。

 砂利の音がした。

 冬の山は、静かだった。葉が落ちて、木の骨格だけが残っていた。空気が澄んでいて、遠くの山の稜線がくっきりと見えた。

 農地が見えてきた。


 田辺がいた。

 一人で、畑の端の石垣を補修していた。冬の間にできる仕事だった。

 大島が来ると、田辺は手を止めて顔を上げた。

「おはようございます」

「おはようございます」大島は言った。「今日は何の予定もないので、来ました」

 田辺は少し大島を見てから、「そうですか」と言って、また石垣に向かった。

 大島は田辺の横に立った。

「手伝いましょうか」

「大島さんが石垣を積んだことは」

「ありません」

「じゃあ邪魔になるかもしれんけど」田辺は言った。「まあ、来てください」


 田辺が石の選び方を教えてくれた。

 平らな面がある石を選ぶ。大きさを揃えない。隙間に小さい石を挟む。

 大島はその通りにやってみた。

 うまくできなかった。

 石が傾いた。隙間が大きすぎた。田辺が黙って直した。

「難しいですね」大島は言った。

「最初はそうです」田辺は言った。「でも、コツがわかったら、あとは手が覚えます」

「田辺さんは、いつ覚えましたか」

「子供の頃から、親父の横でやってたから」田辺は言った。「覚えた、という感覚がない。気づいたら、できてた」

 大島は石を一つ手に取った。

 冷たかった。

 重かった。

 山の石の、素朴な重さだった。

「田辺さん」大島は言った。

「はい」

「農業を辞めたのは、いつですか」

 田辺は手を動かしたまま、答えた。

「七年前です」

「七年間、土から離れていたんですね」

「そうですね」田辺は言った。「でも、離れた気はしなかったです。変な話ですけど」

「なぜですか」

「体が、覚えてるから」田辺は言った。「ここに来た時、最初に土を触った時、手が先に動いた。頭より先に」

 大島は田辺の手を見た。

 石垣を積む手が、迷いなく動いていた。


 昼過ぎに、中村が来た。

 大島を見て、少し驚いた顔をした。

「大島さん、今日も来たんですか」

「来ました」

「最近、よく来ますね」中村は言った。「何かあったんですか」

「特に何も」

「そうですか」中村は言った。それ以上は聞かなかった。

 中村は農具を手に取って、別の場所で作業を始めた。

 三人が、それぞれの仕事をした。

 声はなかった。

 風が来た。冬の山の風が、畑を渡った。

 マオウの枯れた茎が、一斉に揺れた。

 大島はその音を聞いた。


 午後になって、田辺が湯を沸かした。

 工場の隅に置いてある、古いカセットコンロで。

 インスタントコーヒーを三つ、紙コップに作った。

 三人で、石垣の前に座って飲んだ。

 冬の日差しが、低い角度から畑に差し込んでいた。

 山の影が、少しずつ伸びてきていた。

「大島さん」中村が言った。

「はい」

「昨日、子供から連絡がありました」

 大島は中村を見た。

「電話ですか」

「メッセージです」中村は言った。「上の子が、十二歳になって。自分でスマホを持ったらしくて、自分から連絡をくれて」

「それは」

「嬉しかったです」中村は言った。「ただそれだけなんですけど」

 中村はコーヒーを飲んだ。

 田辺は黙って、山の方を見ていた。

 大島は紙コップを両手で持った。

 温かかった。

「中村さん」大島は言った。

「はい」

「子供に、会いに行けるといいですね」

 中村は少し黙った。

「そうですね」中村は言った。「いつか、そういう状況になれたら」

「なれます」大島は言った。

 言ってから、その言葉がどこから来たのか、少し考えた。

 根拠はなかった。

 しかし、嘘でもなかった。

 中村は大島を見た。

「大島さんがそう言うと、なんか信じられる気がします」

「なぜですか」

「わかりません」中村は言った。「でも、そう感じる」

 田辺がコーヒーを飲み干した。

「寒くなってきたな」田辺は言った。

「そうですね」中村が言った。

 三人は立ち上がった。

 それぞれの持ち場に戻った。


 夕方、作業が終わった。

 田辺と中村が帰った後、大島は一人で農地に残った。

 理由はなかった。

 ただ、もう少しここにいたかった。

 畑の端に立って、山を見た。

 冬の夕陽が、山の向こうに落ちていくところだった。

 空がオレンジから赤に変わって、少しずつ青に溶けていく。

 マオウの枯れた茎が、夕陽の中で金色に光っていた。


 大島はその景色を見ながら、考えた。

 フェーズ2のことを、考えた。

 ノートに「保留」と書いた夜のことを。

 山田に告白した夜のことを。橋本に告白した夜のことを。

 二人とも、怒らなかった。

 山田は「如何」という問いを示した。橋本は「わかっとった」と言った。

 二人は、何を見ていたのか。

 大島は夕陽を見ながら、その問いを持った。

 答えを出そうとしなかった。

 ただ、持った。


 ふと、大島は思った。

 このシミュレーターを、俺は作った。

 夕陽も、山も、マオウの茎が光る景色も、田辺の石垣を積む手も、中村の子供からのメッセージも、橋本の煙草の匂いも、山田の部屋の「如何」という文字も。

 全部、俺が設計したパラメーターから生まれた。

 そうか。

 大島はそう思った。

 そう思いながら、同時に思った。

 しかし俺は、これを作った時、今夜この景色を見ることを知らなかった。

 夕陽がこんなに赤くなることを、知らなかった。

 田辺が石垣を積む手がこんなに迷いないことを、知らなかった。

 中村の子供が十二歳になってメッセージを送ってくることを、知らなかった。

 橋本が「心配した」と言うことを、知らなかった。

 山田の部屋に「如何」という文字があることを、知らなかった。

 吉岡が「自分の怖さを選ぶ」と言うことを、知らなかった。

 知らなかったことが、起きた。

 大島は夕陽を見た。

 俺が設計した世界で、俺が設計していないことが起きた。

 その事実が、今夜の大島には、何かを意味していた。


 空が暗くなった。

 星が出てきた。

 冬の星は、鋭かった。

 大島は空を見上げた。

 シミュレーターの空だった。

 しかし星は本物だった。

 本物、とはなんだ。

 その問いが、また浮かんだ。

 以前にも浮かんだ問いだった。

 しかし今夜は、その問いの質が違った。

 以前は、その問いが不安だった。

 今夜は、その問いが静かだった。

 本物かどうか、わからなくていい。

 大島はそう思った。

 わからないまま、ここにいればいい。

 その考えが、自然に浮かんだ。

 追い払わなかった。


 スマートフォンに、メッセージが届いた。

 橋本からだった。

「今夜、飯でも食うか」

 大島は少し笑った。

 返信した。

「和歌山にいます。明日にしましょう」

 すぐに返信が来た。

「和歌山か。ええな。明日、西成で」

 大島は返信した。

「わかりました」

 スマートフォンを ポケットにしまった。

 空を見た。

 冬の星が、また一つ、増えていた。


 農道を歩いて、バス停に向かった。

 砂利の音がした。

 一歩ごとに、音がした。

 大島はその音を聞きながら歩いた。

 三ヶ月前、初めてこの農道を歩いた時のことを思い出した。

 あの時、大島はこの砂利の音を「シミュレーターが生成した音だ」と確認していた。

 今夜は、そう確認しなかった。

 確認しなかったことに、しばらく経ってから気づいた。

 確認しなかった。

 その事実を、大島は静かに受け取った。

 怖くなかった。

 不思議と、怖くなかった。


 バスを待つ間、ベンチに座った。

 山の向こうに、街の灯りが見えた。

 紀の川の向こうの、どこかの町の灯りだった。

 大島はその灯りを見た。

 一つ一つの灯りに、誰かがいる。

 シミュレーターの中の誰かが、その灯りの下で生きている。

 誰かが。

 大島はその言葉を、頭の中で確認した。

 エージェントが、ではなかった。

 誰かが、だった。

 いつから、そう思うようになったか。

 わからなかった。

 しかし、今夜はそう思っていた。


 バスが来た。

 乗り込んだ。

 暖かかった。

 窓の外を、山の夜が流れていった。

 大島は窓に少し額を寄せて、外を見た。

 暗い山が、バスの窓の外を流れていく。

 その暗さの中に、時々、家の灯りが見えた。

 一つ。また一つ。

 山の中で生きている人の、灯りだった。

 大島はその灯りを見ながら、一つのことを思った。

 俺はこの世界を、終わらせたくない。

 その考えが、静かに浮かんだ。

 フェーズ2を実行すれば、いつかここを出なければならない。

 現実世界に戻って、計画を実行する。

 そうすれば、橋本もいなくなる。田辺も、中村も、山田も。吉岡が去ったように、今度は大島が去る側になる。

 それが嫌だ。

 嫌だ、という感情が、大島の中にあった。

 はっきりと、あった。

 大島はその感情を、今夜初めて、正面から認めた。

 追い払わなかった。

 分析しなかった。

 ただ、そこにある感情として、受け取った。


 和歌山駅に着いた。

 大阪行きの電車を待つホームに立った。

 冷たい風が、ホームを吹き抜けた。

 大島はコートの襟を立てた。

 ホームに他の客は少なかった。

 遠くに、電車のライトが見えた。

 近づいてくる。

 大島は電車を見ながら、今夜一日のことを思い返した。

 川沿いのベンチ。農地への電車。石垣を積む田辺。中村の子供からのメッセージ。インスタントコーヒーの温かさ。夕陽。星。

 それらが、一つの流れとして、大島の中にあった。

 目的のない一日だった。

 データを取るためでも、フェーズ2のためでも、何かを確認するためでもなかった。

 ただ、ここにいた一日だった。

 それで、よかった。

 大島はそう思った。

 電車が、ホームに入ってきた。


 電車に乗った。

 窓の外に、夜の和歌山が流れていった。

 大島は窓の外を見ながら、ノートのことを思った。

 「保留」と書いた一行のことを。

 保留のままでいい。

 今夜はそう思った。

 保留は、放棄ではない。

 しかし実行でもない。

 どちらでもない場所に、今の大島はいた。

 山田が言った言葉が、頭の中にあった。

 どちらでもない場所が、一番正直な場所や。

 大島は窓の外の夜を見た。

 電車が走るにつれて、街の灯りが増えていった。

 一つ一つの灯りに、誰かがいた。

 誰かが。

 大島はその言葉を、もう一度繰り返した。

 エージェントではなく、誰かが。

 その誰かたちが生きている世界を、大島はこの三ヶ月で作ってきた。

 いや、違う。

 大島はシステムを作った。しかし世界を作ったのは、そこに生きる誰かたちだった。

 橋本が煙草を吸いながら話す言葉が、世界を作った。

 吉岡が餡子を練る手が、世界を作った。

 田辺が石垣を積む迷いない動きが、世界を作った。

 中村の子供からのメッセージが、世界を作った。

 山田の部屋の「如何」という文字が、世界を作った。

 俺が作ったのは、入れ物だけだった。

 大島はその考えを持った。

 持って、少しの間、その考えの中にいた。


 大阪に近づくにつれて、車窓の灯りが増えた。

 都市の光が、夜空を明るく染めていた。

 大島は窓から目を離して、車内を見た。

 疲れたサラリーマンが眠っていた。スマートフォンを見ている若い女がいた。大きな荷物を持った老人がいた。

 みんな、誰かだ。

 大島はそう思った。

 シミュレーターの中の話ではなかった。

 この電車の中の、リアルな話だった。

 しかし、大島にとって今夜、その区別は、前ほど大きくなかった。


 難波で降りた。

 夜の街を、少し歩いた。

 西成の方向には向かわなかった。

 今夜はもう、橋本には会わない。

 明日、会う。

 それで、十分だった。

 明日、会う。

 その当たり前のような考えが、大島には今夜、小さな光のようなものだった。

 シミュレーターに戻れば、明日もここにいられる。

 橋本がいて、田辺がいて、中村がいて、山田がいる。

 吉岡はいないが、吉岡の「また作りましょう」という言葉が残っている。

 それで、十分だ。

 大島は夜の街を歩いた。

 目的地はなかった。

 ただ、歩いた。

 冬の夜風が来た。

 大島はその風の中を、歩き続けた。

 如何。

 どうあるべきか。

 答えは、まだなかった。

 しかし今夜の大島には、その問いが、重荷ではなかった。

 問いを持って、歩いている。

 今夜はそれだけで、十分だった。

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