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第32話 「如何」

路地に立っていた。

 冬の大阪の夜だった。

 息が白かった。シミュレーターの中の冬は、大島が設定した通りの寒さだった。しかし体がその寒さを受け取る感覚は、設定した時には想像していなかったものだった。

 大島はコートの襟を立てた。

 山田のマンションは、ここから歩いて十分だった。

 深夜に突然訪ねるのは、非常識かもしれなかった。

 しかし山田は、深夜に大島を呼んだことがあるからお互い様だろう。

 それを理由にして、大島は歩き出した。


 マンションの前に来て、大島はインターフォンを押した。

 少し待った。

 出た。

「夜分すみません。大島です」と大島は言った。

 山田はすぐに答えた。

「上がってこい」

 驚いた様子はなかった。


 扉を開けると、山田はすでに茶を用意していた。

 大島が来ることを、わかっていたような準備だった。

「夜中に突然すみません」

「ええ」山田は言った。「座り」

 大島は座った。

 茶を受け取った。

 部屋を見た。

 前回と同じ質素な部屋だった。畳。低いテーブル。本棚。

 壁の額が、あった。

 前回より、少し注意して見た。

 縦長の、小さな額だった。和紙に、墨で何かが書いてある。達筆で、一度見ただけではすぐに読めなかった。

「気になっとったか」

 山田が言った。

 大島は山田を見た。

「前回、見とったやろ」山田は言った。「帰る前に、少しな」

「はい」大島は言った。「何が書いてあるか、聞きに来ました」

 山田は少し笑った。

 この老人が笑うのを、大島は数えるほどしか見ていなかった。

「正直な理由やな」山田は言った。「まあ、ええ。自分で読んでみ」


 大島は立ち上がって、額に近づいた。

 墨の文字を、近くで見た。

 二文字だった。

 「如何」

 大島はその文字を見た。

 しばらく見た。

「読めるか」山田が後ろから言った。

「如何、と読みます」

「そうや」

「どういう意味ですか」

「如何、というのはな」山田は言った。「禅の言葉や。如何が是れ仏法の大意、というところから来とる。どうあるべきか、という問いや」

 大島は額を見たまま、聞いた。

「答えはあるんですか」

「ない」山田は言った。「問いだけがある。それでええ」

「なぜこれを飾っているんですか」

 山田は少し間を置いた。

「答えを出すのをやめた時から、飾っとる」山田は言った。「俺はな、若い頃、何事にも答えを出そうとしとった。この商売で生き残るには、即断即決が必要やと思っとった。迷うことは弱さやと思っとった」

「今は違いますか」

「違う」山田は言った。「答えを出すのをやめた方が、長く生きられることに気づいた」

 大島は額から目を離して、山田を見た。

「答えを出さないことが、生き残る方法ですか」

「そうやない」山田は言った。「答えを出さないんやなくて、問いを持ち続けることや。この二文字を見るたびに、俺は自分に聞く。如何。お前は今どうあるか、と」


 大島は座り直した。

 茶を一口飲んだ。

 山田も茶を飲んだ。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 部屋の外で、風が来た。冬の風が、窓を鳴らした。

「山田さん」大島は言った。

「何や」

「聞いていいですか」

「ええ」

「山田さんは、この商売を続けて、後悔していますか」

 山田はすぐに答えなかった。

 茶碗を持ったまま、少し考えた。

「後悔という言葉が、正しいかどうかわからん」山田は言った。

「橋本さんも、同じことを言いました」

「橋本が」山田は少し目を細めた。「あいつらしいな」大島はんに、そう言うたか」

「はい」

「俺とあいつは、長い付き合いやから」山田は言った。「似たような場所に来とるのかもしれん」

「どういう場所ですか」

「後悔とも、満足とも言えん場所や」山田は言った。「ただ、ここにおる、という場所や。それがな、大島はん、悪くないんや。若い頃はわからんかった。後悔か満足か、どちらかに決めたかった。でも今は、どちらでもない場所が、一番正直な場所やとわかる」

 大島はその言葉を聞いた。

 どちらでもない場所。

 ノートに書いた「保留」という文字が、頭の中に浮かんだ。

 あれは、どちらでもない場所への、最初の一歩だったかもしれない。


「山田さん」大島はもう一度言った。

「まだあるか」山田は言った。少し楽しそうに。

「俺のことを、どう見ていますか。今の」

 山田は大島を見た。

 いつもの、距離を測るような目だった。しかし今夜は、その目の中に何か別のものが混じっていた。

「変わった、と言うたやろ」山田は言った。

「それ以上のことを聞きたいです」

「欲張りやな」

「はい」

 山田は茶碗を置いた。

「最初に会うた時、俺はあんたが怖かった」山田は言った。「前にも言うたな。あの頃のあんたの目は、遠かった。全部を上から見とる目やった。そういう人間はな、恐ろしい。感情がない分、躊躇がない」

「今は」

「今は、違う」山田は言った。「近くなった。あんたの目が、こっちに来た。何かが刺さるようになった。人の話を聞いて、揺れるようになった」

「それは、弱くなったということですか」

「逆や」山田は即座に言った。「揺れられる人間の方が、強い。揺れない人間はな、一度折れたら終わりや。揺れる人間は、曲がって、また戻る」

 大島は山田を見た。

「山田さんは、俺に何を期待していますか」

 山田は少し驚いたような顔をした。

「期待」

「俺のことを気にかけてくれている。吉岡の件も。竹内組の件も。今夜も、来たら茶を用意して待っていた」

 山田は少し笑った。

「勘がええな」

「正直に聞きたいです」

 山田はしばらく大島を見た。

 それから、視線を壁の額に向けた。

「如何」山田は言った。静かに。「俺もな、大島はん、同じ問いを持っとる。お前はこれからどうあるべきか、という問いを。答えは出てない。出すつもりもない」

「でも、何かを思っているはずです」

「そうやな」山田は言った。

 長い沈黙があった。

 風がまた窓を鳴らした。

「俺はな」山田は言った。「三十年、この商売で人を見てきた。その中で、本当の意味で変われた人間を、三人しか知らん」

「三人」

「三人や」山田は言った。「百人おったとして、三人や。残りの九十七人は、変わったふりをするか、変われずに壊れるか、どちらかや」

「俺は、どちらだと思いますか」

 山田は大島を見た。

「まだわからん」山田は言った。「でも、三人のうちの一人になれるかもしれん人間を、俺は今、目の前で見とる」


 大島はその言葉を受け取った。

 受け取って、少し間を置いた。

「山田さん」

「何や」

「一つだけ、本当のことを話します」

 山田は何も言わなかった。

 待っていた。

「俺はこの商売を、最初から、別の目的のための練習として始めました」大島は言った。

 部屋の空気が、少し変わった。

 山田は表情を動かさなかった。

「別の目的」山田は言った。

「はい」

「何のための練習や」

「現実世界で、同じことをするための」大島は言った。「ここで学んだことを、別の場所で使うための」

 山田はしばらく大島を見た。

「今も、そのつもりか」

 大島は少し間を置いた。

「わかりません」

「わからんか」

「わからなくなりました」大島は言った。「最初は、わかっていました。でも、今は」

 山田は黙っていた。

「橋本さんに会って、吉岡さんに会って、田辺さんに会って、中村さんに会って」大島は続けた。「山田さんの話を聞いて。そういうことが、積み重なって、わからなくなった」

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。

 山田はその間、大島を見ていた。品定めではなかった。何か別の、もっと深いところで大島を見ていた。

「なんで俺に話した」山田は言った。

「話さなければならないと思ったから」大島は言った。「山田さんの話を聞いて、あなたを道具として使い続けることが、できなくなった」

「俺を道具として見とったのは、わかっとった」山田は言った。静かに。怒った様子はなかった。

「怒っていないんですか」

「怒っても意味がない」山田は言った。「それより」

 山田は茶碗を手に取った。

「わからなくなった、というのは、どういう意味や」

「フェーズ2と呼んでいた計画が、止まっています」大島は言った。「動けない。動く理由が、薄くなっている」

「代わりに、何が増えとる」

 大島は少し考えた。

「ここにいたい、という気持ちが」

 言葉にしたのは、初めてだった。

 自分で言って、その言葉の重さを、初めて実感した。

 ここにいたい。

「ここ、というのはどこや」山田は言った。

「橋本さんがいる場所です。田辺さんがいる場所です。あなたがいる場所です」大島は言った。「吉岡さんはもういないけれど、吉岡さんがいた場所です」

 山田はしばらく黙っていた。

 それから、額を見た。

「如何」山田は言った。もう一度、静かに。

 大島も額を見た。

 二文字の墨の文字が、薄い明かりの中にあった。

「どうあるべきか、という問いですね」

「そうや」山田は言った。「俺はな、大島はん、あんたに答えを出せとは言わん。ただ」

「ただ」

「その問いを、持ち続けろ」山田は言った。「逃げずに、ごまかさずに、持ち続けろ。それだけでええ」


 大島が部屋を出たのは、夜中の三時を過ぎていた。

 山田は扉まで見送った。

 珍しかった。いつも山田は、部屋の中から「気をつけて帰れ」と言うだけだった。

 エレベーターのない階段を、大島は一段一段降りた。

 山田が上から見ていた。

 一階に降りて、振り向いた。

 四階の踊り場に、山田が立っていた。

 二人は少しの間、見合った。

 山田は何も言わなかった。

 大島も何も言わなかった。

 山田が部屋に戻った。扉が閉まった。


 大島は夜の路地に出た。

 冬の空気が刺さった。

 息が白かった。

 大島は歩き出した。

 頭の中に、二文字があった。

 如何。

 どうあるべきか。

 答えは、なかった。

 しかし問いは、あった。

 大島はその問いを持ったまま、冬の大阪の夜を歩いた。

 どこへ向かうでもなく、歩いた。

 歩きながら、一つのことに気づいた。

 三ヶ月前、この街に来た最初の夜。あの夜も、大島は路地を歩いていた。あの夜の大島は、目的を持っていた。データを取る。経験を積む。フェーズ2のために、ここにいる。

 今夜の大島には、その目的がなかった。

 その代わりに、問いがあった。

 如何。

 目的を失ったはずなのに、今夜の足の方が、あの夜より確かだった。

 大島はそのことを、歩きながら静かに受け取った。


 気づいたら、福来軒の前にいた。

 最初の夜に入った、チャイナ風の飲み屋だった。

 引き戸の向こうに、まだ明かりがあった。

 大島は少し考えてから、引き戸を開けた。

 煙草の煙と酒の匂いが来た。赤提灯の光があった。

 カウンターの端に、橋本がいた。

 一人で飲んでいた。

 大島を見て、少し目を細めた。驚いた様子はなかった。

「来るかと思っとった」橋本は言った。

「なぜですか」

「山田の兄さんとこ、行ったやろ」

「はい」

「あの人とこ行った後のあんたは、ここに来る気がした」橋本は言った。「なんとなくな」

 大島は橋本の隣に座った。

 女将が何も言わずに、紹興酒を持ってきた。

 橋本が煙草に火をつけた。

 煙が、赤提灯の光の中に溶けていった。

「山田さんの部屋に、額が飾ってあります」大島は言った。

「知っとる」橋本は言った。「如何、という字や」

「読んだことがあるんですか」

「あの部屋に何十回行ったと思っとる」橋本は言った。「最初に見た時、意味を聞いた。お前も今夜、同じことを聞いたやろ」

「聞きました」

「何て言うとった」

「問いだけがある、と」

 橋本は煙草を一口吸った。

「そうや」橋本は言った。「俺もそう言われた。三十年前に」


 二人は並んで飲んだ。

 しばらく、何も言わなかった。

 店内には他に客が二人いた。奥のテーブルで、静かに飲んでいた。

 大島は紹興酒を一口飲んで、橋本を見た。

「橋本さん」

「何や」

「一つ、正直に話します」

 橋本は煙草を持ったまま、大島を見た。

「山田さんにも、今夜話しました」大島は言った。

「何を」

「俺がこの商売を始めた本当の理由を」

 橋本は少し間を置いた。

「聞かせてくれるか」

「俺はここを」大島は言った。「最初から、練習の場として使っていました」

 橋本は表情を変えなかった。

「練習」

「ここで学んだことを、別の場所で実行するために。ここにいる全員を、そのための道具として見ていました」

 橋本はしばらく大島を見た。

 煙草の煙が、細く上がっていった。

「山田の兄さんに話して、次は俺に話しに来たか」橋本は言った。

「はい」

「なんで」

「橋本さんに、話さなければならないと思ったから」

「なんで話さなあかんと思った」

 大島は少し考えた。

「橋本さんが、俺のことを信じてくれていたから」

 橋本は黙っていた。

「信用しとる、という意味やない、と橋本さんは言いました」大島は続けた。「でも、信じてくれていた。そういう人間に、嘘をついたままでいることが、できなくなった」


 長い沈黙があった。

 橋本は煙草を灰皿で押しつぶした。

 新しい煙草を取り出したが、すぐには火をつけなかった。

 指の間で、煙草を転がしていた。

 大島は待った。

 橋本が怒るかもしれなかった。怒らないかもしれなかった。この場を離れるかもしれなかった。

 どうなるか、大島には読めなかった。

 読めないことを、大島は今夜、恐れていなかった。

 ただ、待った。

 橋本が煙草に火をつけた。

 一口、深く吸った。

 煙を、天井に向けてゆっくりと吐いた。

「わかっとった」橋本は言った。

 大島は橋本を見た。

「何となくな」橋本は続けた。「あんたが何かを隠しとるのは、最初からわかっとった。何を隠しとるかは、わからんかった。でも、隠しとるものがある人間の顔をしとった」

「怒っていないんですか」

「怒っても意味がない」橋本は言った。山田と同じ言葉だった。「それより」

 橋本は煙草を一口吸った。

「今はどうなんや」橋本は言った。「その練習とやらを、今も続けるつもりか」

 大島は答えた。

「わかりません」

「わからんか」

「はい。でも」

「でも」

「ここにいたい、という気持ちがあります」大島は言った。「橋本さんがいる場所に」

 橋本はしばらく大島を見た。

 それから、視線を前に戻した。

 カウンターの向こうの、棚の酒瓶を見た。

「正直な男やな」橋本は言った。静かに。「最初から、ずっとそうやった。嘘をついとったけど、嘘のつき方が正直やった」

「嘘のつき方が正直、というのは」

「嘘をついとることを、隠す気がなかった」橋本は言った。「隠せとらんかっただけかもしれんけど。でも、俺にはそれが、正直に見えた」


 橋本が、新しい酒を頼んだ。

 大島の分も。

 女将が持ってきた。

 二人は並んで飲んだ。

 しばらくして、橋本が言った。

「大島はん」

「はい」

「俺はな、あんたに一つだけ言いたいことがある」

「何ですか」

 橋本は手元のグラスを見た。

「この三ヶ月、あんたと一緒におって」橋本は言った。「俺は久しぶりに、この商売で誰かのことを心配したわ」

「俺のことを」

「そうや」橋本は言った。「最後にそういう気持ちになったのが、いつやったか覚えてへんくらい、久しぶりやった」

 大島は橋本を見た。

「それは、どういう意味ですか」

「そのままの意味や」橋本は言った。「心配した。それだけや。意味なんかない」

 橋本は酒を飲んだ。

 大島も飲んだ。

 赤提灯の光が、カウンターの上に落ちていた。

 煙草の煙が漂っていた。

 どこかで、低い音楽が鳴っていた。

 大島はその空間の中に座っていた。

 三ヶ月前、初めてここに来た夜と、同じ場所にいた。

 しかし何もかもが、違っていた。

 如何。

 山田の部屋の二文字が、頭の中にあった。

 答えは、まだなかった。

 しかし今夜、大島はその問いが、重荷ではなくなっていることに気づいた。

 問いを持って、ここにいる。

 橋本の隣で、酒を飲みながら、問いを持っている。

 それだけのことが、今夜の大島には、十分だった。


 店を出たのは、夜明け前だった。

 橋本と並んで、少しだけ歩いた。

 別れ際、橋本が言った。

「大島はん」

「はい」

「どこへ行くにしても、行く前に話してくれ」

 橋本の言葉は、短かった。

 しかしその短さの中に、三ヶ月分の何かが入っていた。

「わかりました」大島は言った。

 橋本は頷いた。

 それだけだった。

 二人は別れた。

 大島は一人で歩いた。

 冬の夜明けが、空の端から来ていた。

 暗い青が、少しずつ薄くなっていた。

 大島は歩きながら、空を見た。

 如何。

 どうあるべきか。

 問いだけが、あった。

 それで、今夜はよかった。

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