第31話「倉庫の夜」
倉庫の天井が、白かった。
今回、大島は自分でダイブを切った。
ヘッドセットを外して、チェアに座ったまま、天井を見た。
今回のダイブは、シミュレーション内時間で九日間だった。
点滴を外した。体を動かした。水を飲んだ。
それからサーバールームに入らずに、倉庫の床に座った。
壁に背を預けて、膝を抱えた。
四十三歳の男が、倉庫の床に膝を抱えて座っていた。
その姿を、もし誰かが見たら、おかしいと思うだろう。
自分のほかには誰もいなかった。
大島は膝の上に顎を乗せて、暗い倉庫の中を見た。
山田の部屋の壁に、小さな額がかかっていた。
その額の中身を、大島は確認していなかった。
何が書いてあったのか?
なぜか気になった。
気になる。
大島はその感情を、確認した。
山田というエージェントの部屋の設定ファイルを開けば、壁の額の内容は確認できる。
しかし大島は、設定ファイルを開かなかった。
開く代わりに、次にダイブした時に確認しようと思った。
山田に、「あの額は何ですか?」と聞こうと思った。
次にダイブした時に。
大島はその言葉が自分の中にあることを、静かに確認した。
次がある、という前提で、考えていた。
ノートを取り出した。
黒い表紙のノート。
フェーズ2のページを開いた。
現実世界での実行。
その文字を見た。
長い時間、見た。
それから、ペンを取った。
フェーズ2のページに、一行だけ書いた。
書いてから、ノートを閉じた。
床に置いた。
天井を見た。
無数にあるサーバーのファンが低く唸っていた。
三十二万四千のエージェントが、今この瞬間も、二〇〇三年の大阪で生きていた。
橋本が煙草を吸っているかもしれなかった。田辺が土に向かっているかもしれなかった。山田が静かな部屋で茶を飲んでいるかもしれなかった。
大島は天井を見ながら、その光景を想像した。
想像することが、今夜は苦ではなかった。
朝になった。
倉庫の外に出ると、冬の光が目に刺さった。
もう十二月になっていた。
大島は冬の空を見た。
高く、青い空だった。
スマートフォンに、メッセージが届いていた。
吉岡からだった。
「お元気されてますか?俺は今、実家の近くで仕事を探しています。餡子、また作りましょう」
大島はそのメッセージを読んだ。
シミュレーターの外からのメッセージではなかった。シミュレーターの中で、吉岡が大島に送ったメッセージだった。
現実世界では、吉岡は存在しない。本来であれば、シミュレーターの中からこちらの現実世界にメールを送ることはできない。大島が月額数百円で契約したレンタルサーバーをメールサーバーとして割り当てることで初めてシミュレーター内部から送られたメールを、こちらの現実世界のメールとして受け取ることができる。ダイブする以前の自分であれば、わざわざこんな事していなかっただろうな、と大島は思った。
大島の手の中にあるスマートフォンの画面に、吉岡の言葉があった。
「餡子、また作りましょう」
大島は少し、笑った。
小さな笑いだった。
しかし確かに、笑った。
返信を打った。
「元気にしています。また作りましょう」
送信した。
冬の空の下で、大島は少しの間、スマートフォンを持ったまま立っていた。
倉庫に戻って、床に置いたノートを開いた。
フェーズ2のページを見た。
昨夜書いた一行があった。
こう書いてあった。
「保留」
大島はその一文字を見た。
消さなかった。
書き直さなかった。
ノートを閉じた。
ヘッドセットを手に取った。
装着した。
点滴のチューブを確認した。
目を閉じた。
意識が溶けていく前の、最後の一瞬。
大島は思った。
山田さんの部屋の、あの額に、何が書いてあるか。
聞きに行こう。
暗闇の中に、溶けた。




