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第3話 紀の川の土

 橋本との出会いから二週間後、大島は橋本が運転する車の助手席に座っていた。


 橋本の運転する古い国産セダンが、阪和自動車道を南に下っていた。車内には煙草の匂いと、助手席のシートの微妙なへたりがあった。


 和歌山市内で一度休憩し、そこから紀の川沿いの道を走ること四十分。山が迫ってきた。道が細くなった。すれ違う車もなくなった。


「着いたで」


 橋本が車を止めた場所は、獣道のような農道の脇だった。


 眼下に、段々畑の跡が広がっていた。雑草が膝の高さまで伸び、石垣の輪郭だけが往時の形を留めている。二年間、人が入っていない土地の気配がした。静かで、少し湿っていて、どこか諦めたような空気があった。


「ええ土やで、ここ」


 橋本が言った。煙草を一本くわえながら、懐かしそうに眺めている。


「よう知ってるんですか、ここ」


「知り合いのじいさんが昔、梅作っとったんや。もう体が動かんなって、二年ほど前に全部手放した。夫婦二人、息子のとこへ行きよった。いい人やったで」


 少し間があった。


「そのじいさんに、申し訳ないとは思わんのか、と聞きたいんやろ」


 大島は黙っていた。


「俺も思うわ」橋本は煙を吐いた。「でもな、大島はん。人間いうのはな、申し訳ないと思いながら生きていくもんやねん。ずっとな」


 大島は畑を眺めた。


 風が吹いて、背の高い雑草が一斉に揺れた。山の向こうから、かすかに川の音がした。


 自律型のAIが、こんなことを言う。


 大島は思った。


 設定した覚えが、ない。


 橋本の言葉は、大島がシミュレーターに組み込んだパラメーターのどれとも一致しなかった。感情モデルの出力にしては、文脈が複雑すぎた。五十代のヤクザが、解体された老農夫の梅畑を前に「申し訳ないと思いながら生きていく」などという言葉を、どういうアルゴリズムが生成したのか。


 大島は小さく、しかし確実に、揺らいだ。


「工場は、どっちや」


 なるべく何でもない声で、大島は聞いた。


「ちょっと奥や。歩くで」




 農道を三百メートルほど進んだ先に、それはあった。


 平屋建ての、コンクリートブロック造りの建物。外壁は苔と汚れで黒ずんでいる。錆びたトタン屋根。しかし基礎はしっかりしている。窓ガラスは全て残っていた。


 引き戸を開けると、甘い匂いがした。


 豆の匂いだ。何年経っても染み付いている、煮詰めた小豆の、甘くて少し焦げたような残り香。


 内部は広かった。中央に、二基の大型蒸気釜。蒸気を通すためのパイプが天井を這っている。壁際に、ステンレス製の大型の撹拌槽と、精密な計量台。温度計と圧力計が、いくつかの場所に取り付けられている。電源は来ている。水道管も、たぶん生きている。


 大島はゆっくりと室内を歩いた。


 釜の内側を覗き込んだ。錆はない。清掃が行き届いていた、かつては。


 蒸気釜で間接加熱。引火しにくい。エタノールを大量に使う工程でも、直火よりずっとマシだ。


 撹拌槽は、溶媒抽出後の濃縮に使える。容量も申し分ない。


 計量台の精度が問題だが、食品グレードならおそらく十分だ。


 大島は一通り確認してから、橋本の方を振り向いた。


「地元の警官と、老夫婦は顔見知りやと言ってましたね」


「そや。ここらへんはみんなそうや。悪い意味やなくてな、田舎いうのはそういうもんや。巡回のおまわりさんも、この工場のことは知っとる。製餡やめた工場や、ちゅうのも知っとる。誰かが借りても、そら別に、不思議でも何でもない」


「すぐにバレませんか」


「何を作るかは、バレへんがな」橋本はにやりとした。「マオウちゅうのはな、大島はん、見た目は雑草と変わらへんのや。葛根湯に入っとる植物や。栽培に免許は要らん。怪しい薬品の納入記録さえ残さんかったら、外から見たら、ただの植物農家や」


 大島は少し黙った。


「返事、まだもらえてへんな」


 橋本の声に、初めて刃のような何かが混じった。


「急かしてるんやないで。ただ、タイミングいうもんがある。あの土地な、他にも話が来とるんや。俺が押さえられるのも、もう長いことないかもしれん」


 大島は工場の中を、もう一度見渡した。


 甘い匂い。静かな山。錆びていない釜。


 そして、橋本の言葉。申し訳ないと思いながら生きていく。


 大島は息を一つ吸った。


「わかりました」


 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「やります」


 橋本は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと煙草の煙を吐いた。


 工場の外で、風が山を渡っていく音がした。


 大島は思った。


 これは俺が作った世界だ。


 ──本当に、そうか?


 その答えには、永遠に辿り着かない予感がした。

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