第30話「山田からの電話」
田辺と話した翌日、大島は中村と二人になる機会があった。
田辺が用事で早退して、農地に中村だけが残っていた夕方だった。
中村は大島を見ると、珍しく話しかけてきた。
「吉岡さん、辞めたんですね」
「そうです」
「大島さんが引き止めなかったと、橋本さんから聞きました」中村は言った。「意外でした」
「なぜですか」
「こういう商売で、技術者を手放すのは損やと思って」中村は言った。「大島さん、いつも合理的やから」
「合理的ではなかったですね、今回は」
「そうですね」中村は言った。それ以上は追わなかった。
中村はしばらく黙って作業を続けた。
それから、ふと言った。
「俺はいつ、切られますか」
唐突な質問だった。
大島は中村を見た。
「切る予定はありません」
「本当ですか」
「本当です」
中村は少し考えた顔をした。
「田辺さんに比べると、俺は使い勝手が悪いのはわかっとります」中村は言った。「農業の経験も浅いし、細かい仕事が得意やない。橋本さんの紹介やけど、それほど深い関係でもない」
「それで」
「いつ用が済んだら終わりか、ずっと考えとります」中村は言った。「ビクビクしながら仕事するのも、しんどくて」
大島は中村を見た。
この人間のことを、大島はあまり深く考えてこなかった。
田辺の代替として入ってきた人員。農作業の補助。それ以上の位置づけを、大島は与えていなかった。
「中村さん」大島は言った。
「はい」
「俺はあなたのことを、ちゃんと見ていなかったかもしれない」
中村は少し目を丸くした。
「突然、何ですか」
「思ったことを言いました」大島は言った。「あなたがここにいる理由を、俺はちゃんと考えたことがなかった」
「理由て、橋本さんの紹介で」
「そうじゃなくて」大島は言った。「あなたがここにいることの、あなた側の理由です。何があってここに来たのか」
中村はしばらく大島を見た。
それから、農具を地面に置いた。
「長い話になりますよ」
「時間はあります」
中村の話は、長かった。
もともと建設会社に勤めていた。現場監督をしていた。会社が倒産して、職を失った。再就職がうまくいかなかった。家族との関係が壊れた。気づいたら橋本の組の末端で、荷物の運搬をしていた。
「そうやって流れてきました」中村は言った。「ドラマみたいな話やないですよ。ただ、一個一個失っていっただけで」
「家族は」
「別れました。子供が二人います」中村は言った。「会えていないです、ずっと」
「会いたいですか」
「会いたいですよ」中村は言った。「でも、今の俺の状況で会いに行けるわけがない」
大島は黙っていた。
「大島さんは、家族はいますか」
「いません」
「そうですか」中村は言った。「俺は、いる方が辛いこともありますね。いない方が、割り切れるかもしれない」
「そうは思いません」大島は言った。
「なんで」
「あなたに会いたい人がいるというのは、あなたがここにいる理由になると思うから」
中村はしばらく大島を見た。
「どういう意味ですか」
「子供に会えるようになるために、生きていく理由があるということです」大島は言った。「俺にはそれがない」
中村は少し黙った。
「大島さんに、生きていく理由がないように見えないですけど」
「そうですか」
「なんか、必死に何かを探しとるように見えます」中村は言った。「それが何かは、俺にはわからんけど」
その夜、大島は一人で農道を歩いた。
中村の話が、頭の中にあった。
会えない子供の話。失っていくだけだった話。
これもパラメーターの出力だ。
大島は思おうとした。
しかし、「必死に何かを探しとる」という中村の言葉が、それより先に来た。
俺は何かを探しているか。
歩きながら、考えた。
フェーズ2は、まだ動いていない。
動かない理由を、大島はずっと「データの精度を上げるため」と自分に言い聞かせてきた。
しかしそれは、もう嘘だった。
データは十分に揃っていた。とっくに揃っていた。
では何のために、まだここにいるのか。
俺はここにいたいのか。
その問いが浮かんだ。
大島は立ち止まった。
夜の農道の真ん中で、立ち止まった。
山の向こうに、かすかに街の灯りが見えた。
紀の川の向こうの、どこかの町の灯りだった。
ここにいたい。
その感情が、大島の中にあった。
否定できなかった。
橋本がいるから。田辺がいるから。中村がいるから。吉岡がいなくなっても、この場所に何かが残っているから。
しかし、ここは俺が作った世界だ。
それも、事実だった。
二つの事実が、大島の中で並んでいた。
どちらを選ぶか、という問いではなかった。
どちらも本当のことだった。
大島はその両方を持ったまま、歩き出した。




