第26話 「山田からの電話」
深夜に、山田から電話があった。
珍しかった。山田はいつも、橋本を通じて連絡してくる。直接電話してきたのは、初めてだった。
「起きとるか」
「起きています」
「少し話したい。今から来られるか」
時計を見ると、深夜一時だった。
「行きます」
指定された場所は、これまでと違った。
大阪市内の、古いマンションの一室だった。エレベーターのない四階建て。山田が自分で扉を開けた。
部屋は質素だった。
畳の部屋に、低いテーブルと座布団。テレビも飾りもない。本棚が一つ。壁に、小さな額が一枚かかっていた。
「座り」
大島は座った。山田が茶を持ってきた。
二人で茶を飲んだ。
山田はしばらく何も言わなかった。
大島も待った。
「橋本から聞いた」山田は言った。
「何を」
「吉岡の件や」
「はい」
「引き止めなかったそうやな」
「そうです」
山田は茶碗を持ったまま、大島を見た。
「なんで」
大島は少し考えた。
「吉岡さんが正しいことを言ったから、と橋本さんにも言いました」
「それだけか」
「それだけです」
山田はしばらく大島を見た。
「嘘やな」山田は言った。静かに。
大島は答えなかった。
「嘘というより、全部は言うてない」山田は言った。「まあ、ええ。聞かん」
山田は茶を一口飲んだ。
「大島はん、俺がなんで深夜に呼んだかわかるか」
「わかりません」
「珍しい話をしようと思って」山田は言った。「俺が普段、人に話さん話や」
大島は山田を見た。
「若い頃の話や」山田は言った。「俺がこの商売に入った頃の話」
山田の話は、ゆっくりと始まった。
山田が組に入ったのは、十九歳の時だった。戦後の混乱がまだ残っていた時代で、食うために入った。選んだわけじゃなかった。気づいたらそこにいた。
最初の十年は、ただ言われたことをやった。
三十代になった頃、山田には信頼している人間が何人かいた。一緒に仕事をしてきた仲間だった。
「その中に、一人、特別に信頼しとった人間がおった」山田は言った。「俺より五つ下の、賢い男やった」
「その人が、あなたを裏切ったんですか」
「裏切った、というのとも少し違う」山田は言った。「そいつはな、俺を利用しとったんやけど、それに気づかんかったのは俺の方や。騙されたんやない。見えていなかっただけや」
「どういうことですか」
「そいつはな、俺のことを人間として見とらんかったんや」山田は言った。「俺を、自分の目的のための道具として見とった。俺はそれに気づかずに、ずっと信頼しとった」
大島は黙っていた。
「気づいた時には、俺の周りの人間が三人、死んどった」山田は言った。「そいつの計画のための、消耗品として」
部屋が静かだった。
マンションの外で、車が一台通った。
「その人は今」
「死んどる」山田は言った。「俺が手を下したわけやない。別の人間がやった。俺は止めなかっただけや」
大島は山田を見た。
六十代の男が、低いテーブルの向こうに座っていた。質素な部屋の中で。
「なぜ今夜、俺にその話をするんですか」
山田はしばらく大島を見た。
「あんたが心配やからや」山田は言った。
「俺が、その男に似ていますか」
「似とった」山田は言った。「最初はな。今は、少し違う」
「どこが違いますか」
「あの男はな、最後まで変わらんかった」山田は言った。「人を道具として見る目が、一度も変わらんかった。大島はん、あんたは変わっとる。俺の目には、そう見える」
「変わったことが、良いことですか」
「俺にとってはな」山田は言った。「あの男みたいな人間と、もう一度仕事をする気はない。あんたがそうやないなら、俺はあんたのことを続けて気にかける」
大島は山田の言葉を聞きながら、一つのことを考えていた。
山田が話した男のことを。
人を道具として見ていた男のことを。
それは、シミュレーターに入った当初の俺だ。
大島はそう思った。
橋本を、吉岡を、田辺を、中村を、山田を。
全員を、道具として見ていた。現実世界のフェーズ2のための、データ収集の対象として。
今も、そうか。
大島は自分に問いかけた。
答えは、すぐには出なかった。
しかし、出なかったこと自体が、何かを意味していた。
三ヶ月前なら、即座に答えが出た。
そうだ、全員データだ。
今夜は、それが出なかった。
「山田さん」大島は言った。
「何や」
「その男は、結局何がしたかったんですか」
山田は少し考えた。
「わからん」山田は言った。「最後まで聞けんかった。でも、俺が思うに、あいつは何かを証明したかったんやないかと思う」
「何を」
「自分が、他の人間より上におる、ということを」山田は言った。「人間を動かせる、ということを。それを証明し続けることが、あいつの目的やったんやないかと思う」
大島は山田の言葉を聞いた。
神になりたかった男の話だ。
その言葉が、大島の頭の中に浮かんだ。
静かに、しかし確実に、浮かんだ。
帰り道、大島は歩いた。
深夜の大阪を、一人で歩いた。
山田の話が、頭から離れなかった。
人を道具として見ていた男。自分が上におることを証明し続けようとした男。その男の周りで、人が死んだ。
それは、俺が向かっていた場所だ。
大島は歩きながら、その事実を確認した。
フェーズ2の計画。現実世界での覚醒剤シンジケートの構築。それは、人間を資源として動かすことで成立する計画だった。
吉岡のような技術者を。田辺のような農業従事者を。中村のような末端の人間を。
全員を、計画のための部品として使う。
俺はそれをするつもりだった。
過去形に、なっていた。
大島は立ち止まった。
するつもりだった。
今は、違うのか。
答えが出なかった。
しかし、過去形になっていたことは、事実だった。
大島は歩き出した。
夜風が来た。
秋が深かった。




