第25話「中村」
夜、一人で工場にいた。
製造はない。ただ、工場にいたかった。
理由は自分でもわからなかった。吉岡がいなくなった工場に、なぜ来たかったのか。
蒸気釜の前に立った。
冷えた釜だった。火が入っていない釜は、ただの鉄の塊だった。
大島はその釜に手を触れた。
冷たかった。
金属の、無機質な冷たさだった。
これはシミュレーターが生成した冷たさだ。
大島はそう思った。
思った瞬間、奇妙なことが起きた。
その考えが、ひどく空虚に感じられた。
シミュレーターが生成した冷たさ。
以前なら、その言葉は大島に安定をもたらした。ここは俺が作った世界だ、という確認が、大島を「観察者」の立場に戻してくれた。
しかし今夜、その言葉は何も安定させなかった。
釜は冷たかった。
それだけだった。
大島は工場の床に座り込んだ。
壁に背を預けて、天井を見た。
コンクリートの天井。換気扇の跡。染み。
この天井を、大島は何度も見てきた。製造の夜に。吉岡と作業した夜に。一人でいた夜に。
この天井を、俺は知っている。
その感覚が、大島の中にあった。
知っている、という感覚。
場所を知っている感覚ではなかった。
もっと深いところで、この場所が自分の場所であるような、そういう感覚だった。
おかしい。
大島は思った。
ここは俺が設計した場所だ。俺が設計した倉庫の、俺が設計した工場の、俺が生成した天井だ。それを「知っている」と感じるのは、当然だ。設計者が自分の設計物に親しみを感じているだけだ。
その解釈は正しかった。
しかし、説明として、何かが足りなかった。
設計者が設計物に親しみを感じる、という話ではなかった。
俺はこの天井を、外から見ている感じがしない。
それが、正確だった。
この天井を、内側から見ている。
この場所の中にいる人間として、見ている。
大島は立ち上がった。
工場を出た。
外は夜だった。星が出ていた。
山の輪郭が、星明かりに浮かんでいた。
大島は空を見ながら、一つのことを考えた。
慎重に、しかし正面から考えた。
橋本は、本当にAIか。
設定ファイルが存在する。それは事実だ。大島が設計した。パラメーターがある。
しかし。
橋本が「心配しとる」と言った時の声を、大島は覚えていた。
声のトーン。煙草を灰皿で押しつぶした時の動作。「俺にもわからん」と言った時の、少し困ったような顔。
あれを、俺は設計したか。
した、かもしれない。感情表現の強度パラメーターが、あのトーンを生成した、かもしれない。
しかし大島は、設定ファイルを開かなかった。
開かなかったことが、今夜、違う意味を持ち始めていた。
俺が設定ファイルを開かない理由は、確認したくないからだ。
確認したくない理由は、数字が出てくるのが怖いからだ。
なぜ怖いのか。
大島はその問いの前で、止まった。
山の夜風が来た。
答えが、来た。
橋本が数字であってほしくないからだ。
大島は動けなかった。
その答えが、自分の中から出てきたことが、信じられなかった。
俺は今、AIであることを否定したい人間について、そう思っている。
それは何を意味するか。
大島は農道を歩き始めた。
速く歩いた。
頭を冷やすために歩いた。
しかし頭は冷えなかった。
歩きながら、大島は論理を組み立てようとした。
橋本はAIだ。吉岡もAIだ。田辺もAIだ。山田もAIだ。
それは事実だ。大島が設計した。設定ファイルが存在する。演算リソースの上で動いている。現実世界に、彼らの肉体は存在しない。
すべて正しかった。
しかし。
俺が彼らをAIだと言える根拠は、俺がそう設計したという記憶だけだ。
大島は立ち止まった。
農道の真ん中で、立ち止まった。
俺が設計したという記憶。
それは確かにある。倉庫でコードを書いた記憶がある。エージェントのパラメーターを設定した記憶がある。シミュレーターを起動した記憶がある。
しかし。
現実世界の大島幸隆が、自分がシミュレーションの中にいると証明できる根拠は、何か。
大島幸隆が現実世界で持っている「設計した記憶」は、シミュレーションの中で付与されたバックストーリーである可能性を、排除できるか。
排除できない。
大島は空を見た。
星が、変わらずそこにあった。
三ヶ月前から、ずっとそこにあった星だった。
この星も、俺が設計したか。
設計した。星の配置のパラメーターを設定した記憶がある。
しかし、それが記憶ではなく、シミュレーターが俺に付与したバックストーリーだとしたら。
俺が「設計した」と思っているこの記憶が、上位世界の誰かが俺に与えたものだとしたら。
大島は息を吸った。
胸が、少し苦しかった。
落ち着け。
大島は自分に言った。
これは以前から考えていた仮説だ。この世界がシミュレーションである可能性。俺はそれを最初から知っていた。それを確かめるために、このシミュレーターを作った。何も新しいことは起きていない。
しかし、今夜の問いは、以前の問いとは違った。
以前の問いは、「この現実世界がシミュレーションかもしれない」という仮説だった。
今夜の問いは、もっと直接的だった。
俺は今、どこにいるのか。




