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第24話「田辺」

 吉岡が去って、三日が経った。

 工場は静かだった。製造の予定は、しばらく入れていなかった。後任の技術者を探すまでの間、橋本とそう決めた。

 大島は毎日、農地に来た。

 特にやることがあるわけではなかった。マオウの管理は田辺と中村がやっている。大島が来なくても、畑は回る。それでも来た。

 理由は自分でもはっきりしなかった。

 強いて言えば、ここに来ると、何かが落ち着いた。倉庫の中よりも、この山の空気の方が、大島には今、必要だった。


 四日目の朝、田辺が畦道で大島を待っていた。

 珍しかった。田辺はいつも、大島が来ると軽く頷いて、すぐに畑に入る。話しかけてくることは、ほとんどなかった。

「おはようございます」大島は言った。

「おはようございます」田辺は言った。

 少し間があった。

 田辺は畑の方を向いたまま、言った。

「吉岡さん、辞めたそうですね」

「そうです」

「橋本さんから聞きました」田辺は言った。「驚きましたわ。あの人、腕があったから」

「そうですね」

 また間があった。

 田辺は畝の端に座り込んだ。膝に肘をついて、畑を見た。

「俺も、少し前に辞めようかと思ってたんです」田辺は言った。

 大島は田辺の横に立って、同じ方向を見た。

「竹内組に接触された時ですか」

「その前からです」田辺は言った。「怪我する前から、ずっと考えとりました」

「なぜ続けているんですか」

 田辺は少し考えた。

「行く場所がないから、というのが正直なところです」田辺は言った。「農業をやっていた頃は、土地があった。土地さえあれば、食っていける。でも、土地を失ったら、俺には何もない」

「今はここに土地があります」

「そうなんですけどね」田辺は言った。「でも、ここは俺の土地やない。借りとる土地や。いつなくなるかわからん」

 大島は田辺を見た。

「もし、ここの農地を続けて使えるなら、どうですか」

 田辺は大島を見た。

「どういう意味ですか」

「製造とは切り離して、農地だけを使う方法があるかもしれない」大島は言った。「マオウ以外のものを育てる。普通の農業として」

 田辺はしばらく大島を見た。

「それは、大島さんが決められることですか」

「まだわかりません」大島は言った。「でも、考えています」

 田辺は畑に視線を戻した。

 しばらく黙っていた。

「大島さん」田辺は言った。

「はい」

「変なことを聞いていいですか」

「どうぞ」

「大島さんは、何者ですか」

 大島は田辺を見た。

 山田にも、吉岡にも、橋本にも、同じようなことを聞かれた。

「ただの人間ですよ」大島は言った。

「そうは見えない」田辺は言った。「でも、最近は少し、そう見えるようになってきた」

「どういう意味ですか」

「最初に会うた時の大島さんは、なんか遠い人やった」田辺は言った。「俺らのことを、上から見とるような。でも最近は、そうじゃない気がする。なんか、こっちに来とる感じがする」

 大島は田辺の言葉を聞いた。

 山田が言ったことと、似ていた。

 変わってきている、という話だった。

「田辺さんは、それをどう思いますか」大島は言った。

「ええことやと思います」田辺は言った。迷いなく。「遠い人より、近い人の方がええ。それだけのことです」

 田辺は立ち上がった。

 膝の土を払って、畑に入った。

 黙って、作業を始めた。


 大島は畦道に立って、田辺の背中を見た。

 黙って土に向かう、痩せた背中だった。

 この人は、土地を失った人だ。

 大島はそのことを考えた。

 農業を廃業して、橋本の組の末端に流れてきた。怪我をして、入院して、また戻ってきた。竹内組に接触されて、断って、橋本に報告した。

 それだけの人生を、田辺は生きていた。

 パラメーターで設定した人生だ。

 大島はそう思いかけた。

 しかし今朝の田辺の話を聞いていると、その言葉が成立しなかった。

 土地を失った話は、設定に含まれていた。しかし「土地さえあれば食っていける」という言葉の重さは、設定したものではなかった。

 あるいは設定していたのかもしれないが、今の大島にはそれを確認する気が起きなかった。

 確認する気が起きない。

 大島はその事実を、静かに認めた。

 もう何週間も前から、大島はエージェントの設定ファイルを開いていなかった。

 橋本のファイルも。吉岡のファイルも。山田のファイルも。田辺のファイルも。

 開けなかったのではなく、開かなかった。

 それは、何を意味するか。

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