第22話「橋本への話」
翌日、大島は橋本に連絡を入れた。
「吉岡の件で、話があります」
橋本は少し間を置いてから「わかった」と言った。
会ったのは夜だった。
いつものバーではなく、橋本が指定したのは西成の古い喫茶店だった。昭和の内装のまま残っている店で、コーヒーが安かった。
橋本はすでに来ていた。コーヒーを飲んでいた。
大島は向かいに座った。
「吉岡が辞めたいと言っています」
橋本は表情を変えなかった。
「知っとった」
「知っていましたか」
「なんとなくな」橋本は言った。「あいつの顔が、最近おかしかった。そろそろやと思っとった」
「引き止めますか」
橋本はコーヒーを一口飲んだ。
「大島はんはどうしたいんや」
「引き止めません」
橋本は大島を見た。
「なんで」
「吉岡さんが正しいことを言ったからです」
「正しいこと」
「この手で作ったものが、人を殺している、と言いました」大島は言った。「それは正しい。引き止める理由に、俺は今それより強いものを持っていない」
橋本はしばらく大島を見た。
「大島はん、あんた変わったな」
「そうですか」
「最初に会うた時のあんたなら、そういう言い方はせんかった」橋本は言った。「もっと合理的な理由を並べた。感情の話はせんかった」
大島は答えなかった。
「ええことや」橋本は言った。「俺は引き止めん。吉岡の件は、うまいことやる。あいつが知っとることは、あいつが墓まで持って行く分には問題ない。そういう人間や、吉岡は」
「信用できますか」
「できる」橋本は即座に言った。「あいつはな、裏切るタイプやない。損な人間やで、そういう意味では。でも、俺はそういう人間の方が好きや」
コーヒーを頼んで、しばらく二人で飲んだ。
橋本が言った。
「技術者、また探さなあかんな」
「そうなりますね」
「心当たりはあるか」
「少し時間をください」
「ええよ」橋本は言った。「急かさん。ただ」
橋本は窓の外を見た。夜の西成の路地が、ガラスの向こうにあった。
「大島はん、今後どうするつもりや」
「吉岡さんの後任を探して、製造を続けます」
「それだけか」
「今は、それだけです」
橋本は窓から視線を戻した。
「前にも聞いたな、同じことを」
「はい」
「また同じ答えやな」
「また同じです」
橋本は少し笑った。
「ええわ」橋本は言った。「俺はな、大島はん、あんたが何かを決める時には、ちゃんと話してくれると思っとる。信用しとる、という意味やない。ただ、あんたはそういう人間やと思っとる」
大島は橋本を見た。
「なぜそう思うんですか」
「今日、吉岡の件を俺に話しに来たやろ」橋本は言った。「隠して動くこともできたはずや。でも来た。それだけのことや」
大島は黙っていた。
信用しとる、という意味やない。
橋本は、信用という言葉を使わなかった。
そのことが、大島には何か正確なものに感じられた。
帰り道、大島は歩いた。
吉岡のことを考えた。
吉岡は正しい選択をした。大島はそう思っていた。
この商売から出ることが正しいのなら、吉岡だけでなく、橋本も、田辺も、中村も、同じことが言えるかもしれなかった。
そして。
俺も。
その考えが浮かんだ。
追い払わなかった。
しかし、追い払わないことと、受け入れることは違った。
大島はその考えを、頭の中に置いたまま歩いた。
答えを出さないまま、歩き続けた。
夜の西成の路地は、相変わらずネオンが滲んでいた。
どこかの店から、演歌が聞こえた。
大島はその音を聞きながら、この街に初めて来た夜のことを思い出した。
あの夜、この路地に立った時、大島は確かにここを「自分が作った世界」として見ていた。
今夜は、そうではなかった。
今夜、俺はこの街を、どう見ているか。
大島は立ち止まって、路地を見た。
答えは、出なかった。
出なかったことが、答えかもしれなかった。




