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第20話「境界」

 倉庫の天井が、白かった。

 大島は目を開けた。

 今回は自動覚醒だった。七十二時間のリミットが来た。

 体を起こして、点滴を外した。

 サーバールームに入って、モニターを確認した。

 正常だった。

 橋本の座標。吉岡の座標。山田の座標。田辺の座標。

 全員の場所を、確認した。

 全員、いた。

 大島はモニターの前に立ったまま、ノートを取り出した。

 黒い表紙のノート。フェーズ1とフェーズ2が書いてあるノート。

 大島はそのノートを開いた。

 フェーズ2のページを見た。

 現実世界での実行。

 その文字を、しばらく見た。

 それから、ノートに新しいページを開いた。

 ペンを持った。

 何かを書こうとして、止まった。

 止まって、ペンを置いた。

 倉庫の中は静かだった。サーバーのファンが唸っている。

 大島は床に座り込んだ。

 冷たいコンクリートの床に座って、天井を見た。

 吉岡が餡子を作った夜のことを、考えた。

 甘い匂いが工場に満ちていた夜のことを。

 木のへらで交互に練った、熱くて重い感触のことを。

 大島はその感触を、手のひらで確かめるように、思い出した。

 あれはシミュレーターの中のことだ。

 正しかった。

 しかし、俺の手が覚えている感触は、本物だ。

 それも、正しかった。

 どちらも正しかった。

 二つの正しさが、大島の中で並んで存在していた。

 どちらかを消すことができなかった。


 大島は立ち上がった。

 サーバーの前に戻った。

 モニターを見た。

 それからゆっくりと、システムの管理画面を開いた。

 シミュレーターの設定ファイルが並んでいる。エージェントのパラメーター一覧。橋本の設定ファイルを開いた。

 スクロールした。

 感情モデルのパラメーターが並んでいた。信頼傾向、リスク回避性、感情表現の強度、記憶の重みづけ。

 数字が並んでいた。

 大島はその数字を見た。

 これが橋本だ。これが橋本の全部だ。

 数字だった。

 しかし。

 大島は設定ファイルを閉じた。

 吉岡のファイルを開こうとして、止まった。

 開いて、何を確認する。

 大島は画面から目を離した。

 窓のない倉庫の、金属の壁を見た。

 確認して、どうする。吉岡の「好きだから、つらい」という言葉が、どのパラメーターの出力か調べて、それでどうする。

 大島は管理画面を閉じた。

 設定ファイルを、見なかった。

 それは意図的な選択だった。

 大島は自分がその選択をしたことを、静かに確認した。


 ヘッドセットを手に取った。

 装着する前に、少し間があった。

 窓のない倉庫の中。四十三歳の男が一人、サーバーの前に立っている。

 現実世界では、大島に橋本はいない。吉岡もいない。山田もいない。田辺もいない。

 この倉庫の中に、人間は大島一人だ。

 それが現実だ。

 大島はヘッドセットを装着した。

 点滴のチューブを確認した。

 それが現実だ。

 もう一度、繰り返した。

 繰り返す必要があった。

 目を閉じた。

 意識が溶けていく。

 最後の一瞬、大島は思った。

 俺はフェーズ2に、移れるか。

 答えは、暗闇の中に溶けた。

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