第2話 西成、夜の匂い
意識が、溶けた。
次に気づいた時、大島は路地に立っていた。
アスファルトが湿っている。雨上がりの匂い。排水溝の、少し腐ったような臭気。どこかの店から演歌が漏れている。空を見上げると、ネオンの反射で夜空がオレンジ色に染まっていた。
本物だ。
大島は思わず呟いた。これが自分の作ったものだという自覚が、一瞬、完全に消えた。足の裏に伝わるアスファルトの硬さ。鼻の奥を刺す夜の空気。右手の親指の関節が、少し痛い。
関節の痛みまで再現されてる。俺が設定したんだけど。
苦笑いしながら、大島は路地を歩き出した。
西成。飛田新地の外縁部。
二〇〇三年の設定だ。リーマンショックの前。まだかろうじて、昭和の匂いが残っている時代。
目当ての店は、すぐに見つかった。
赤提灯に、手書きの暖簾。「福来軒」という店名の下に、小さく「中国家庭料理」と書かれている。ガラスの引き戸の向こうに、煙草の煙と酒の匂いと、濁った笑い声が混じり合っていた。
カウンター席に腰を落ち着けて、大島は紹興酒を頼んだ。
隣に、男がいた。
五十代。がっしりした体格。グレーのスーツは仕立てが良いが、どこかくたびれている。指には金の指輪。左手の小指が、第一関節から先がない。
どう見ても、まともな人物ではなさそうだ。大島はこれまで、犯罪とは無縁の真面目な人生を送ってきた、普通の大卒サラリーマンだった。目の前にいる男は、これまで自分が接してきた人間とは全く雰囲気が異なる。「いかにも元ヤクザ」が服を着て歩いている様な雰囲気である。山で野生動物に遭遇したのと似た緊張感を、大島は覚えた。
男は大島をちらりと見た。品定めするような、しかし感情の読めない目だった。
「兄ちゃん、この辺の人じゃないやろ?」
声は低く、ゆったりとしていた。否定でも肯定でもなく、ただ事実を確認するような言い方だった。
「まあ、そうですね」
「どっから来たん」
「色々と」
男は少し笑った。
「ええ答えやな。色々と、か」
紹興酒を一口飲んで、男は続けた。
「橋本いうもんや。兄ちゃんは?」
「大島です」
「大島はん、か」橋本はゆっくりと繰り返した。「何しに来たん?こんなとこ。観光にしては、ちょっと外れすぎやろ」
大島は少し迷った。
迷ってから、賭けることにした。
何しろ、ここは自分が作った世界だ。──いや、違う。それを言い訳にしたら終わりだ。縛りプレイに意味があるのは、それを忘れた時だけだ。
「稼ぎになる話を探してます」大島は言った。「合法でなくていい」
橋本はグラスを置いた。
店内のざわめきが、妙に遠くなった気がした。
男はゆっくりと大島の方を向いた。さっきとは少し、目の温度が変わっていた。
「ほう」
その一言だけ言って、橋本は新しい煙草に火をつけた。紫煙が、赤提灯の光の中に溶けていった。
「大島はんはどんなことが、したいんや?」
大島は答えた。
その夜の会話が、すべての始まりだった。




